観月はじめは怒っていた。



否、単に機嫌が悪い。といった方がいいかもしれない。

授業終了後、わき目もふらずに部室へと赴いた彼は、
クラスの掃除当番をサボってこちらに来ていた柳沢と木更津に、本日分のメニューと必要事項を淡々と云い渡していく。

 「…伝えておくけど、観月部活出ないの?」

神経質そうな文字でメニューを書き記してある紙を受け取りながら、木更津が不思議そうに尋ねる。
その日身体を動かすか他の部員の指導にあたるかどうかは別として、部活には木更津や柳沢達よりも余程律儀に出ている観月である。
そんな彼が部活に出ないというのは珍しい。

 「ええ、今日はキャンセル出来ない用事が入っているので」

にこりともせず観月が答え、それでは後はよろしく。ときびきび部室を出ていった。
その姿勢の良い背中を見送った後、残された二人はおもむろに顔を見合わす。

 「なんか変じゃない?」
 「そうか〜?いつもと一緒だと思うだーね」

しかしすぐに雑誌へと目を落とし相棒を相手にしない柳沢を横目に、
木更津は何となく腑に落ちず、メニューの紙をひらひらと揺らしていたのだが、

バタン!

 「僕が居ないからといってくれぐれも気を抜かないように…いいですね」

唐突に扉が開かれ、隙間から両目の据わった噂をすればの本人の顔が、覗いていた。

 「…は」
 「はーい」

二人の真面目な返事を確認して、再び閉じられる扉。

 「…やっぱいつもと変わらないね」

いつもの観月だ。
そう納得して、二人はうんうんと力強く頷き合ったのだった。


 「あれ?観月さんもう帰りですか?」

部室に向かう途中、裕太はこちらに歩いてくる見慣れた先輩の顔を確認すると、嬉しそうにぱたぱたと走り出した。
対する観月は心中ちッ、と舌打ちしたのだが、にっこりと表面上笑顔を装って立ち止まり、駆け寄ってくる彼を待つ事にする。

 「ああ、裕太君。今日は用事があってね。残念ですが部活に出られないんですよ」
 「へー、珍しいですね」

まるで仔犬のように自分に懐くこの可愛らしい後輩の相手をしてやりたいのは山々なのだが、今日はタイミングが悪い。悪過ぎる。

 「じゃあ明日!明日指導してもらっていいスか?」
 「いいですよ」

観月の返事にぱあっと表情が明るくなる裕太。
最初は取っつきにくい相手だったが、時間をかけて手懐ければこんなものだ。
感情を出す事に不慣れだった後輩がこうして喜ぶ姿を眺めながら、観月は達成感と優越感に微笑む。

…そんな事をしていたら、目眩がひどくなってきた。

 「…それではまた明日。部活、気を抜かずしっかり励んで下さい」

颯爽と優雅に別れの挨拶を口にして、お疲れ様です!と元気良く挨拶する裕太の声を背中に受けながら、
観月はクセのある髪の毛をいじりつつ、再びさくさくと寮へ向けて足を進めたのだった。

…ああ、頭が痛い。

黙々と早足で歩きながら、左手首にはまっている腕時計に視線を落とす。
この時間だともう近くの病院は閉まっているから、薬を飲んで寝ているしかない。
夕食は抜いて、後から自分でお粥でも作ろう。
ぼんやりと帰ってからの事を考えていたら、突然ドン、と身体に鈍い振動が襲った。

 「…っと、何処見て歩いてるんですか!」

ふらつく足に力を込めて何とか立ち直り、頭を押さえてぶつかってきた無法者を怒鳴りつける。
前方不注意はお互い様だが、自分が悪いだなんて天地がひっくり返っても思わない観月。自分が不利になる前に攻撃するのだ。
が、自分の出した声で頭痛が余計ひどくなり瞬時に後悔したが、既に遅く。

 「……っ、」

立て直した膝からはみるみると力が抜け、間抜けにも尻餅をついて座り込んでしまった。

 「すまん、大丈夫か?観月」

観月?

聴き覚えのあるそれに眉を寄せ、反射的に声のした方を見上げると、
精悍な顔に似つかわしくない困った表情を浮かべた赤澤が、そこに立っている。
その姿を見た途端、何故だか残りの力が一気に抜けた。

 「こ…これが大丈夫に見えますか…」
 「また派手にひっくり返ったなー。おい、立てるか?」
 「だ、誰の所為だと…」

文句を垂れる観月の前にしゃがみ込んで、手を差し出す。少しだけ躊躇った白い手が、渋々とその浅黒い手を取った。
それを確認した赤澤が掌をきつく握り直してぐっと腕に力を入れると、観月の身体が前に傾いで蹌踉けながら地に足がつく。

 「…」
 「…なんですか。もういいですよ」

無事体勢を立て直したものの、赤澤は観月の腕を離さず、じっとその顔を見つめている。
その余りにも無遠慮で不躾な視線に眉をしかめ睨み返すと、

 「おい」

腕を掴んでいた大きな掌が、ゆるゆると上がって。
何事かと一瞬怯んだ観月の、その額にひた、とそれを押しつけた。

 「お前、熱があるだろう」
 「…っ」

真顔で指摘され、思わず言葉に詰まってしまった観月だったが、
ごまかすように少しだけ微笑みながら、赤澤の掌から逃げようとする。

 「…何を馬鹿な事を…、気のせいですよ」
 「体調が悪くて寮に帰る途中だったんじゃないのか?」
 「用事で、早退するだけです…」
 「観月」

話をする時はこっちを向け。と、身体を軽く強引に赤澤の方を向けられた。

だから嫌だったのだ。人に心配されるのも、気遣われるのも大嫌いなのに。
いつだって完璧な自分を見せていたいのに。
クラスメイトや教師、木更津や柳沢、裕太にだって感づかせなかった。それなのに。
何故分かってしまったのだろう。よりによってこんな朴念仁に。自分の迂闊さに苛々する。

 「…」

口を噤み、黙ったままでいる観月を見下ろしながら、赤澤は小さく溜息を吐く。
そして何を思ったのか、くるりと彼に背を向けると持っていた鞄を地面に置き、膝を折って腕を腰の後ろに廻した。

 「…何をやってるんですか」

目の前で奇怪な行動を取る部長に物凄く不審な眼差しをぶつけながら、観月が無意識に後ずさる。

 「背中に乗れ。寮まで送ってってやる」

一瞬、何を云われたのか把握出来なかった。

 「………は?」

一拍半程反応が遅れたが、ようやく我に返って首を振る。必死で拒絶する。
背負われて寮まで帰るなんて冗談ではない。下校時間のピークは過ぎたが、まだここは校内で、人が大勢居るのだ。
そんなの自分のプライドが許さない。

 「い…っ、け、結構ですよ。そんな事してもらわなくても!」
 「そんなふらふらで帰れる訳ないだろ、早く乗れ」

しかし相手は全く気にする様子は無かった。

 「いいって云っているでしょう!」
 「観月」

少し強めに名を呼ばれ、うっ、と身体が固まる。
赤澤はけして怒っていない。怒ってはいないのだが、その声には力強い迫力が含まれている。
三年間行動を共にしている観月には、それが理解る。

いつもは馬鹿で。
温厚で、人が良くて、それなのに。
突然こんな真顔で、真剣な声で名前を呼ぶなんて反則ではないか。

観月はずきずきと痛む頭を押さえながら、唇を噛み締める。悔しい。
身体も熱っぽいし、おそらく時間が経つにつれ、この症状は悪化してしまうに違いない。

 「…」

赤澤の背中は微動だにせず、黙って待っている。
きっと自分が折れるまでここから動かないつもりなのだろう。
融通の利かない、本当に馬鹿な男だと思う。

 「………、」

息を吐いて、覚悟を決めて。
広い背中にそっと触れて、両肩に、首に腕を廻した。

 「しっかり掴まってろよ」

その声を合図に、ゆっくりと赤澤が立ち上がる。ぐら、と視線が変化して、驚いて両腕に力を込めてしまう。

 「観月、締め過ぎだ。苦しい」

苦笑まじりにそんな事を云われて、顔が熱くなった。思わずぽかりと男の後頭部をはたく。

 「いてっ」
 「早く!さっさと寮に行って下さい」
 「お前が渋ったんだろーが!」
 「煩いですよ」

しかしこれだけ憎まれ口を叩けるんなら大丈夫だな、などと呟いて、赤澤はゆっくりと歩きだした。
そんな彼の背中におぶさりながら、観月は複雑な気持ちで一杯になる。
ああ、こんな姿誰かに見られたらと思うと、みっともなくって気が気ではない。
けれど意外に男の背中は乗り心地が良くて、熱に冒された身体はいとも簡単に、その背中に全てを預けてしまっていた。

悔しいけれど。

 「なんか要るもんあったら買ってきてやるぞ」

背中越しに響く声。
歩く振動も重なって、それは直接自分の身体に伝わってくる。

この掛け値無しの面倒見の良さが、彼がルドルフの部長たる所以なのだろう。
先ず損得勘定から物事を考える自分には、到底真似の出来ない優しさだ。

 「…そうですね…お見舞いはメロンでお願いします」

それは却下。と朗らかな笑い声。
観月もつられて、思わず緩く笑う。
たまにはこの優しさに、甘えさせてもらってもバチはあたらないだろうと。

つよがる心を隅に寄せ、そんな事を思った。






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