観月はじめは怒っていた。



 「何故云われた事が出来ないんですか!」

テニスボールを持ったまま、怒る。

 「小学生だって出来ますよ、こんな簡単な事…!」

コーチ用のベンチに座っては、怒る。
脚を気だるげに組んだそこに乱暴に肘を乗せ、クセのある前髪を指先で何度も弄りながら。
大体観月の怒りの発端は些細な事から始まるのだが、放っておくと気がつけば被害は甚大になっている。
そして必然的にその攻撃の標的になるのは部活ヒエラルキー最下層の一、二年生で。
苛つきながら次のメニューに移行しようとして、肝心の部長本人が居ない事に気づき、ピリッと眉間の皺が深くなる。

 「…赤澤は何処行ったんです」
 「さあ…僕達が着替えて部室出る時入れ替わりで来たから、まだ着替えてるのかも」

同学年でありスクールも同じである為観月の雷に耐性のついている木更津が、
ストレッチを終え愛用の赤いタスキを額に巻きながら答える。
彼等三年生にしてみればあぁまたか。くらいの出来事であって、実は余り深刻に考えていない。
一過性のものだと知っているから、やり過ごし方も分かっている。
云い換えればそんなスキルを手に入れる程頻発に、過去これまで彼の雷は落ちているという事になる。
しかし半ばヒステリックな彼の怒りは、この聖ルドルフ学院のテニス部のシステムが生み出したものだと云っても過言ではなかった。

 「あの男…っあれ程遅刻するなと云ったのに…!」

何故ならコーチも顧問もマネージャーに至るまでの全ての雑務も、実質彼一人で担っているのが今の現状であるからだ。
勢い良く立ち上がり、綿密に組み込まれた計算されたメニュー表が挟んであるボードをベンチに叩きつける観月。
離れた場所でストレッチをしていた下級生達がびくっと身体を震わせる。
そのまま彼はわき目もふらずに颯爽と風を切ってテニスコートを出ていく。

 「木更津!ベンチに置いてあるメニュー通りに進めておいて下さい!すぐ戻ります」

語気の強い命令口調がコート内に響きわったが、云い放った当人はもはやただ一人の人物しか見えていない。
怒りの矛先が変更した事を確認し、小さくなっていく背中を見届けると、
木更津は遠巻きに佇み怯える下級生達に、無表情のままピースサインを送った。

生贄は、赤澤だけで十分なのだ。

クラブハウス棟二階にある部室に向けて、観月はらしくなく乱暴に階段を駆け上がる。
きっかけは些細な事だった筈だ。
コート整備がきちんとされていないとか、出しておかなければならないボールの数が足りないとか。
けれどそういう所から注意をしていかないと部内のしめしがつかなくなる。
ルドルフにはそういう事に関して、上に立って怒る者が居ない。
部長がそういう細かい事を気にしない男だからだ。それなのに何故か人望が厚い。
部員達に常に目を掛けているのは自分なのに。自分はただ部を完璧な方向に持っていきたいだけなのに。

唇を噛む。
上手くいかない。
全然、思うようにならない。
それもこれも全てだらしのない部長、赤澤の所為だ。

明らかに怒りの矛先が不可思議な方向に折れ曲がって変更しているが、観月は一人強くそう確信して部室の扉をノックする。

 「観月です。入りますよ!」

急かすように扉を叩く最後のノックと、観月の宣言と、ノブをがちゃりと廻したのはほぼ同時の出来事だった。

 「お。観月か」

扉を開ければ、飄々とした声がまず耳にぶつかる。
そんな声にも腹立たしさを覚えながら顔を上げた観月は、一瞬我が目を疑った。
赤澤はユニフォームに着替えてはいるものの、パイプイスに腰掛け、
両脚を傍らにあるもう一方のパイプイスの上に放り出して本日発売の週刊雑誌を読んでいたのだ。
そんな有り様に、用意してきた筈の言葉を忘れ、部室の扉付近で呆然と立ちすくむ。
これまで溜め込んでいた怒りが、心の中で堰を切って溢れ出すのを感じた。
赤澤に向けた人差し指は、感情が昂ぶり過ぎてぶるぶる震えていたが、観月は気づかない。

 「…な…な…なにやってるんですか貴方は…」
 「お〜この続きが先週から気になっててさ、読んだら行こうと思って。もう時間か?」
 「…ぶかっ、部活にも出ないで…!そんな…そんな……」
 「?部活には出るぞ。あと3ページ」

もーちょっと待って、と顔を上げた瞬間。
赤澤の両手に軽い衝撃が走り、同時に雑誌が乾いた音をたてて床に落ちた。
気がつけば目の前には凄絶な怒りに満ちた顔の、観月が立っている。

 「観月?何怒ってるんだ?」

怒りの原因である張本人にそんな怪訝な顔で訊かれたくない。

 「貴方がそんなだから怒ってるんですよ!部活が始まって何十分経ってると思ってるんですか!」
 「いやだってコートにはお前が居るじゃねーか」
 「そうやって僕に何もかも押しつけて、どれだけ…どれだけ負担をかければ気が済むんです!」

赤澤の眉間が薄く曇る。
どうにも雲行きがあやしい。というか様子がおかしい。
対する観月は感情を抑えていた理性の堰が決壊したのか、構わず怒鳴り続けた。

 「貴方がだらしない所為で僕がどれだけ苦労しているか…!
 なりたくもない嫌な役割も全部僕だ。結局貴方はいいところばかり取っていって…」

もはや愚痴に近い。

 「観月」
 「よりによって漫画!漫画なんていつだって読めるじゃないですか!部活に遅刻してまで読むような大事なものなんですか!」
 「観ー月」
 「煩いですね一体なんで………っ」

突然、両肩を緩く掴まれたかと思うと次の瞬間身体がぐらりと前に傾いだ。
気がついたら赤澤の顔が正面にあった。
何か云おうと息を吸い込んだ瞬間、唇を塞がれた。



ひぎゃあぁぁあ



部室内に響きわたる素っ頓狂な悲鳴。
パイプイスに座ったままの赤澤が肩を震わせ強烈にウケている。

 「ひ…ひぎゃあってお前……」

悲鳴を上げた張本人はというと一体いつ移動したのかという速さで、
赤澤と相対している一番離れたロッカーの壁に背中を張り付け硬直していた。

 「な…っなな…なぬ…っなにをす……っ」
 「力、抜けたか?」
 「はぁ!?」

見ると赤澤はよっこらしょ、と床に落ちた雑誌を拾いつつ観月の方へ歩いてくる。
警戒心丸出しで睨みつけると今度は頭を撫でられた。

 「また爆発したんだろ。今度の原因は何だ?」
 「………」
 「どうせまた一人で溜め込んでたんだろーが。何で俺に相談しねえんだよ」

ぐしゃぐしゃと、まるでからかってるのかあやしてるのか分からない仕草で艶のある黒髪を掻き回す。
何故かその手を払いのける事も出来ず、観月は視線を背けたまま口を開いた。

 「貴方に云ったって、どうせ解決なんか出来ないでしょう」
 「お前なぁ…そんな俺を部長に仕立てたのはどいつだよ」

うっと観月が言葉に詰まる。
あの時は打算計算込みで彼を部長に推薦した筈なのだが、今となってはそんな事すら忘却の彼方だった。
どうしようもない部長だが、それが当たり前のように自分の中に浸透してしまっている。
呆れ怒りこそすれ彼を部長にした事を、本当は後悔した事なんてなかった。

 「一人で悩むからイライラするんだ。たまには俺にも分けろ」

…ま、あんまり役には立たねぇかもしれねーけどな。
と、髪を撫でていた手でぽんぽん、と肩を優しくたたいた。

 「………分かりました。そこまで云うなら、これからはなるべくそうしましょう。…しかし、赤澤」
 「ん?」

すうっと観月の顔が上がる。目下の問題は解決した、筈だったがその表情は依然硬いままだ。

 「だからと云って別にあんな事をする必要性は皆無です。…全く皆無です」

あんな事?と復唱し記憶を辿った赤澤が、思い出したのか、ああと朗らかに笑う。

 「だってこれが一番効くだろ、お前は」
 「………っ!!」

もしかして。
今まで掌の上で踊らせているつもりだった馬鹿な男は、もしかしたらとんでもなく聡いのかもしれない。

…まさか。
いやでもしかし。

と、掌で口許を押さえた観月は一抹の不安を感じずにはいられないのだった。






□END□