粗野でがさつで乱暴で。
自分とは正反対のところに居る、
生涯絶対に関わり合いになんかならないだろうと信じていたそんな男に、
ものの見事に掬われた。
人生は、驚きを禁じ得ない程の奇跡に満ち満ちている、と。
観月は常日頃からそんな事を、思っている。
「僕は遠慮しておきます」
バサリと新聞を翻し、隅々まで目を通しながら、談話室のソファでゆったりと脚を組んだまま観月が云う。
「そんな事云わずに行きましょうよ…ほら、柳沢先輩や木更津先輩も行くみたいだし、あ、赤澤部長も」
「赤澤が行くのなら正式に、辞退します」
明らかに険を含んだ声音に変貌した事を悟り、
先程から傍に立って彼の説得を試みていた裕太は笑顔を引き攣らせたまま、身体をビシリと強張らせた。
「僕の分まで楽しんできて下さい裕太くん。皆にもよろしく」
にっこりと笑みを湛え容赦無くそう云い放った後、テーブルに置いてあるティーカップに手を添え、
一口こくりと温かな液体を飲み込む様子を戦々恐々と見守りながら、裕太は胸の中で頭を抱える。
いい加減仲直りしたらどうですか?なんて、口が裂けても云えない。
赤澤と観月はそれでなくとも喧嘩が絶えない。
余程互いの気が合わないのか、逆に合い過ぎて衝突するのか。とにかくしょっちゅう争いが勃発する。
気が抜けるくらい些細な事が原因でも頻繁に起こるそれに、良く飽きないなあと逆に感心するくらいだ。
以前ぽつりとそう漏らすと、柳沢にお前もだんだん「分かって」きただーねと何度も頷かれてしまった。
先輩方はどうやら皆「分かる」境地にまで達しているらしい。
「…じゃあ行ってきます…あの、お土産買ってきますんで!」
これ以上埒があかないと踏んで、律儀にぺこりと一礼すると、裕太は早足で談話室を出ていった。
チラリと横目でその後ろ姿を見送り、ドアが閉まった事を確認した後、観月は盛大に新聞を床に放り投げる。
今夜は街の外れで比較的大きな夏祭りが開催される。
街から近いルドルフの寮生は勿論、通学生や近くの学校の生徒達も皆こぞってこの日は祭りに出かけるのだ。
「馬鹿馬鹿しい」
艶のある柔らかな黒髪を煩わしそうに掻き上げ、毒づいた。
人が多く無駄に騒がしい祭りの、一体何が楽しくて皆出向くのか分からない。
一年の時、寮の先輩達に半ば強制的に連れて行かれて本当にうんざりしたものだ。
とはいえ何時までもここでこうしているのも下らないので、ソファから立ち上がり談話室を出る。
そのまま廊下のつきあたりに位置する給湯室で、中身がおおかた残ってしまったティーカップを手際よく片づけながら、
胸の中を這い回る収まらない苛つきにため息を吐いた。
「本当に、馬鹿馬鹿しい」
原因は分かっている。あの男だ。
しかし何故こんなにも苛つかなければならないんだ。あの男の為に。
昼間自分とあんな派手な喧嘩をしたというのに、何を呑気に祭りなんかに行っているのだ。馬鹿なんじゃないか。
あんなに見つめ合って、罵り合って、互いの事しか頭になくて。
それなのに。
「…ッ!」
食器洗剤の泡にやたらとまみれたカップが、ほんの一瞬の隙をついてつるりと自分の手から離れた。
ガシャン、と人気の無い寮内に響く音。
眉を顰めてチクリと痛む指を見れば、シンクから跳ねた陶器の破片によるものか、赤く丸い滴が皮膚の上に浮かんでいる。
無意識に、ギリ、ときつく、唇を噛みしめていた。
分かっている。
これは自分の不注意から起こってしまった事で、誰の所為でも無い。無論あの男の所為でも。
無いのだけれど、どうしても怒りの矛先がそこに向けられてしまう。
こんなになるまで自分の心を掻き乱したクセに、傍にも居ないあの男に。
なんだかもう、全てを投げ出したくなってしまった。
部屋の窓ガラスの微かな異変に気がついたのは、就寝時間の30分程前だった。
祭りから帰ってきた生徒達で賑わいと騒がしさの戻りつつある寮内のおかげで、観月は最初それに気がつかなかった。
あの後さっさと入浴し、部屋に戻って次の日の予習と部活メニューの確認を終え、机に備え付けてあるスタンドの明かりを消した瞬間。
コン、と。
何かがあたる軽い物音がした。
顔を上げて周囲を見たが、部屋の中は別に何も変わったところはない。
部屋の小物が落ちたとか、そういう音だと思ったのだが。
視線を戻して椅子から立ち上がる。
コツン、と。
今度はやや大きめな音が耳にぶつかった。
おかしい。観月は軽く息を飲む。机の正面は窓。音はカーテンで閉めきってあるそこから聴こえた。
けれどこの部屋は三階だ。寮長を務めているので、自分は一人部屋且つ端部屋を与えられている。
だから、窓の外から音が聴こえてくるなんて、普通に考えて有り得ないのだ。
侵入者か?
おそらく一番スタンダードな答えに行き着いて、観月は部屋の隅に置いてある箒を取りに忍び足でゆっくりと歩く。
寮を取り巻くように植えられている樹木は、自分の窓の方に枝が大きくせり出しているものも多いので、
それを登ればこちらへ来る事が可能だ。だとしたら寮長として撃退する義務がある。
運悪くこの部屋に入り込もうとした浅はかさに後悔するがいい。それでなくても自分は今底抜けに機嫌が悪いのだ。
コン、と控えめに鳴っていた窓ガラスは、既に軽いノックのような音に変わっている。
箒を片手に慎重に窓の端へ移動し、息を吸ってカーテンを勢い良く開けた。
「覚悟!」
そう叫びながら窓を開け、箒を降り上げた瞬間。
「なにやってんだ観月?…っいて!」
聴き慣れた声に一瞬我に返ったが、時既に遅く、観月は時間外の来客・赤澤の頭に箒を力一杯振り下ろしていた。
「…何やってんだはこっちの台詞ですよ。あなたこそ何やってるんですか。人の部屋の窓の外で」
まさか本当に木を登ってくるなんて。
箒を喰らった赤澤は多少驚きはしたものの、天性の運動神経の良さで上手くそれを回避し、
そのまま木の枝から反動をつけて窓の桟に手を掛けると、有無を云わさず観月の部屋へ侵入した。
「靴!」
「あ、悪ぃ」
云われた通りに靴を脱ぎながら、赤澤はきょろきょろと部屋の中を物珍しそうに見渡す。
そういえば中に入れた事は無かったかもしれない。…ではなくて。
「で、何なんですか。云っておきますけどあなたの行為、バレたら停学ものですよ」
「引き入れたお前も同罪じゃねえの?」
振り返ってにやりと笑う。馬鹿のクセにたまに鋭い。
強引に入ってきたクセに。という反論をぐ、と言葉を飲み込んで、観月は椅子を引きながら赤澤の次の言葉を待った。
早くしないと就寝点呼が始まる。当番は寮長に点呼確認の了承をもらう為、点呼を行う前に部屋にやって来るのだ。
その前になんとか追い出さないと。
よくよく見れば赤澤の手には夏祭りの名残であるヨーヨーやハニーカステラの紙袋がぶら下がっている。
「楽しかったですか?祭り」
椅子に腰掛け、腕を組んだまま皮肉たっぷりに訊いてやると、
本棚の方に立っていた赤澤が自分の持っている物に気づいて、おう、と馬鹿正直な答えを返した。
そのままだらしなく着こなしたズボンのポケットを乱暴に漁りながら、
「ほれ」
と、何かをこちらに放り投げる。
突然投げられた所為で条件反射的に手を広げ受け取ったそれは、目を疑うようなシロモノだった。
指輪。
おもちゃの。
「…なんですかこれ」
「射的の景品。取ったはいーけど俺は要らねぇしな」
「僕だって要りませんよ」
「やるよ」
「迷惑です」
ぴしゃりと撥ねつけるように云いながら、観月はまた喧嘩に発展しそうな予感がして、少しだけ嫌な気分になる。
思うにお互い、譲らなさ過ぎるのだ。自分の気持ちを、互いの気持ちを。
加減を知らず、いつも本気でぶつかるから、根深いし強烈。
後悔しても後の祭りで、次の喧嘩が始まる頃にはそんなしおらしさなど綺麗さっぱり忘れ去っている。
「他の人をあたって下さい」
それを聞いた赤澤が、長めの髪を掻き上げながら、半ば呆れの混じった怒り顔でこちらに近づいてくる。
ああ、また怒らせてしまった。
椅子に座ったまま手の中の指輪をきゅっと握った。次に来るであろう攻撃に、耐えるように。
「お前しか思いつかなかったんだよ!」
余りの剣幕に、まばたきを忘れた。
呆然としたまま、けれど口だけは勝手にすらすらと言葉を紡いでいく。
「………声が大きい。馬鹿」
力の抜けた声音では全く威力など無い悪態をぽつりと呟いた後、ガタンと勢い良く椅子から立ち上がった。
「出ていって下さい。もうすぐ点呼が始まる。早く」
ぎゅうぎゅうと赤澤の広い背中に手を押しつけ、窓の方に追いやる。
相手はおいとかこらとかちょっと待てとかいう類の文句を慌てて口にしているが、無視して靴ごと窓の外に追い出した。
太い木の枝へ咄嗟に掴まり、こちらを振り返った男と一瞬だけ視線を絡ませてから、ザッと勢い良くカーテンを閉めた。
その時、タイミング良く部屋の外からこつこつとノックの音が響く。
観月さん、点呼の確認お願いします。生真面目な当番の声を聞きながら、強く握りしめていた右手をそっと開いた。
思わず変な笑いがこみ上げてくる程安っぽい、リング。
金メッキで彩られている輪の中心には、緑色の宝石を模したビーズようなガラス玉のようなものが付いている。
悪趣味には変わりないですが、折角だから貰っといてあげますよ。
心の中でひっそり呟くと、右掌で転がしていたそれを、自分のパジャマの胸ポケットにそっと納めた。
「今行きます」
あれ程悩まされていたどんよりと苛ついた気持ちは、いつの間にかすっかりかき消されていたのだった。
□END□