観月はじめは、憔悴していた。
着衣は軽く乱れ、それでも自身の胸許を引き寄せるよう襟ごと強く握りしめて。
「…最低だ」
俯いたまま、観月は感情を押し殺した低い低い声で静かにぽつりと呟く。
吐息混じりのその言葉に、彼のすぐ隣であぐらをかいて座る赤澤の両肩がぴくりと反応した。
「…最悪だ」
呆然と、何処か遠くを眺めながら更に呟く観月の方を見て、赤澤は自分の髪をがしがしと乱暴にかく。
必死で言葉を探した。未だじくじくとタチの悪い熱に蝕まれた頭で、微かに残る理性を総動員して。
「しかたねーだろ」
けれど口から出た言葉は、ささくれだった相手の精神を落ち着かせる気の利いたものではなく、逆に油を注ぐようなものだった。
皺のついてしまった薄手のシャツ。小さな花柄の散ったそれを両腕でかき抱きながら、小刻みに震える観月は憤然と赤澤の方を振り返る。
しまった。と後悔したが時は既に遅かった。
「これのどこが仕方ないんですか!」
きん、と耳に響くヒステリックな声で、観月は更にとどめを差す。
強姦未遂ですよ!
赤澤はまるで他人事のようにその言葉を聴いていた。
強姦、強姦なあ。
そりゃあんまりじゃないか観月。
身も蓋もない云われように思わず反論しかけて、
けれど先に行動を起こしたのは他ならぬ自分だったので、喉元まで出ていた言葉をぐっとこらえる。
事の発端、というのもおかしな話だが、それは聖ルドルフの学生寮、観月の部屋で起こった。
都大会で敗退はしたものの、今後の対策として観月は関東、
そして全国大会の試合を出来る限り視察して着々と他校別に情報をまとめていった。
一方赤澤は、たまに自分が気になる試合を観戦したい時だけ彼について行くというスタンスをとっていたが、
視察から戻ってきた彼が手に入れた選手達の膨大な個別データを整理し、分類していく作業には出来る限りつき合った。
普段は部室で暇を見つけては黙々と作業を行っていたが、時間が足りなくなるとぶ厚いファイルを抱え寮に帰宅するのを何度か目撃していたからだ。
あなたが居ても何の役にも立ちませんよ。そんな暇があるなら自主練習でもしてはどうです、
いつも彼の部屋の扉を叩くたび辛辣な言葉で出迎えられるのだが、
この集めに集めた膨大な情報をファイリングしていくという行為が観月にとって一番大変な作業なのだと、赤澤は知っていた。
だからこそ観月はそんな憎まれ口を叩くクセに、傍にいる赤澤に対し仕事を与えちゃっかりと手伝わせる。
誰かに頼ればいいのに、全て自分でやろうとする。
高過ぎるプライドで自分自身を疲弊させてしまう前に、フォローしてやるのが部長である自分の役割だと、赤澤は思っていた。
思っていたのだが、今現在の状況は、明らかにおかしな方向へと傾いてしまっている。
横顔が。
長い睫毛に縁取られた、漆黒の瞳が。半袖のシャツから覗いた白い腕が。
一体何が要因だったのか分からない。自分の中の本能を駆り立てたのか。
本日に限り特別なきっかけがあったのか、それとも起こるべくして起きてしまったのか。
いつものように、二人は机に向かっていた。とはいえ観月のように長時間集中力の続かない赤澤は、
この時何度目かの休憩をとっている最中だった。両掌を絨毯の上にぺたりとつき、
赤澤は座ったままの体勢で身体をぐんと後ろに倒し、ゆっくりと背筋を伸ばす。ついでに大きなあくびが出た。
観月の部屋はいつ訪れても良い匂いがする。最近アロマに凝っているのだそうだ。
来訪する度訊くのだが、部屋を彩る穏やかな香りはいつも違う種類なのでハーブだったか花だったか、それ以前に名前が覚えられない。
しかしこの日鼻を掠めたのは、以前から赤澤が好んでいたものだった。ラベンダー。ジャスミンだったか。
しばらく考えていたがやはり分からず、観月に香りの正体を訊こうと思って、体勢を正した。
名前を呼ぼうとして、けれど彼の横顔を見た途端身体の奥で別の力が働いて。
赤澤はその力に自分でも混乱した。混乱したまま腕を伸ばし、傍にいた観月の肩を掴んでそのまま押し倒した。
ガタン、と、脚か腕が机にぶつかった音はかろうじて聴いた気がする。
組み敷かれた観月はというと、何が起きているのか未だ理解出来ていないのか、ひどく無防備な顔を赤澤に寄越した。
喉が鳴る。その表情は、彼の理性をあっけなく狂わせるに足るものだった。
「あかざ…」
尋常ならざる事態にようやく気がついたのか、
怪訝そうに観月が相手の名を呼びかけたが、途端落ちてきた唇に塞がれた。
唐突なキスに身体がびくりと震える。そのまま乱暴に吸われ、
反射的に逃げ出そうと抵抗する腕は簡単に赤澤の一回り大きい腕に捕まり、捻った身体を包むシャツはがさりと嫌な音をたてた。
息を継ぎながら、侵入する舌を感じながら、観月は自分の意識が徐々に薄く暈けていくのを感じた。
視界の端に揺れる焦茶の髪と彼の持つ浅黒い肌が、ひどく扇状的に映る。
訳が分からない。一番分からないのは、熱に浮かされながらそんな事を思っている自分自身だった。
シャツをくぐる乾いた掌。ひんやりとした素肌が赤澤の持つ体温に侵されていく。
駄目だ。これは。このままだと。
本能の奥、かろうじて残っていた観月の理性が頭の中で警鐘を鳴らす。
そもそもここは、寮内じゃないか。
寮内。この単語が寮長である観月の理性を一気に引き戻した。
「や、め、…!ばかざわッ!!」
叫ぶと同時に繰り出した観月の肘が、赤澤の首筋に見事ヒットした。
直後、妙な声を出して赤澤の身体が脇へと崩れる。自分の上に覆いかぶさってこなくて良かった。
二次被害を免れほっとしたのも束の間、くしゃくしゃに乱れてしまったシャツを直し、
居住まいを正しながらも観月は今頃になって指先から震え始めた身体を持て余してしまう。
押し倒されていた時はあんなにも冷静だったのに、渦中を過ぎほっと気を抜いた後で突然混沌に突き落とされてしまった、
そんな理不尽な気分だった。俯いて、唇を噛んで。このごちゃついた気持ちを何とか整理しようと、思いついた言葉をぽんぽんと相手に投げつける。
首に思いきったエルボーを喰らい、しばらく寝転がったまま動けなかった赤澤だったが、
少しずつのろのろと行動を起こし、気づけば観月の隣であぐらをかいていた。
図体は大きいのに、まるで怒られる犬のように何処か所在無く、しょんぼりと。
落ち込んでいるのは目に見えて分かったが、気の収まらない観月は攻撃を止めない。
「野蛮、馬鹿、即物的、下品」
「…お前なぁ」
確かに先程自分の放った言葉はデリカシーが無かったと思う。我ながら反省している。
だからこそ黙って彼からもたらされる悪態をしんみりと聞いていたのだが、それにしたって随分な云われようである。
赤澤が、彼とは反対方向に顔を背けつつボソリと低い声で呟いた。
「…自分だって感じてたクセに」
しかしそれを聴き逃す観月ではない。
そんな事をのたまった相手をギッと睨みつけ、凄絶な顔で云った。
「感じる訳ないでしょう」
「いいじゃねえか隠さなくても」
「隠してない」
その言葉を最後につん、と横を向いたまま黙ってしまった観月の薄い背中を眺めながら、赤澤は小さなため息を吐いた。
本当に、何でこんな事になってしまったんだ。
観月とは二年の秋から同じ部活で、自分が部長になってから一緒に居る時間が多くなって。
完璧主義で成績優秀、自分とは相反する性格だから反りなんて合う筈がないと、思っていたのだ。
出逢った頃は露骨にお互い敬遠していた。けれど、何でもソツなくこなすその裏側で、
完璧な自分を演じる為に涙ぐましい努力をしている観月を、つき合う内に知ってしまったのだ。
気づいてしまえば赤澤の中で、隣に居るのは完璧主義で成績優秀なマネージャー兼テニス部員ではなく、
傍で見ていて不器用で危なっかしい人物に変わった。
憎まれ口を叩くのは、自分の本音を隠したいから。
そうしてその本音は、彼の場合云っている言葉と正反対のベクトルに向いている事がほとんどだった。
本当に、ややこしい奴だ。
赤澤は艶やかでやや癖のある緩やかなカーブを描く黒髪に視線を巡らせ、再び背中に戻した。
観月の後ろ姿は、よく見ると未だ小さく震えている。気づけば名を呼んでいた。
自分を突き動かした力の正体が、この時分かった気がした。
「観月」
「…なんですか」
「俺、お前の事好きだわ」
直後。しん、と恐ろしい程の静寂が二人の間を取り巻く。長い長い沈黙。
しかし、最初に行動を起こしたのは、先程そっぽを向いてしまってからぴくりとも反応を示さなかった観月だった。
彼がゆっくりと、背けていた顔をこちらに傾ける。また自分はデリカシーの無い事を云ってしまったのか、と思わず赤澤は身を固くしたが、
観月はしっとりと闇に濡れたような黒い両眸で彼を見つめたまま、口を開いた。
「……が、」
「え?」
吐息にまみれ震える声音は、余りに小さ過ぎて聴き取れない。
あぐらをかいたまま上体を彼の方に少しだけ倒したら、突然ぐいっと耳を引っ張られた。
「順番が逆でしょうが!馬鹿!」
耳朶に広がる激痛と、鼓膜をつんざく大声にたまらず視界がくらついた赤澤だったが、ずれた自分の告白に、後悔はしていなかった。
多少順序が入れ替わったにしろ、想う気持ちは変わらないからだ。
「しかたねーだろ!男なんだから!」
「全ての男をあなたと同じにしないで下さい!不愉快だ」
「やりたくなるだろ!普通!」
「それが即物的だって云うんです!」
信じられない、と更にきつく眉根を寄せる観月をどうにか説得したい。
が、自分のやぶれかぶれな主張を聞き入れてくれる程優しくない事は百も承知である。
次第に普段と同じ口喧嘩の応酬になりつつある現状に、赤澤は心中天を仰ぎながらかたく決意をした。
即物的?野蛮?下品?自分の気持ちが、衝動を伴った想いがそういう名前にくくられてしまうのならば。
絶対に、分からせてやる。
そういう想いもあるのだと。その気持ちに、嘘などないと。
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