観月はじめは、夜の風に吹かれていた。

時刻は定められた消灯時間をとうに過ぎている。
しかし彼は、学生寮を密かに抜け出し数キロ先にある川べりに一人腰を下ろしていた。
本来ならばこれは許されない行為だ。寮監に知られでもしたら謹慎処分は免れない。
反省文は良くて5枚だろうな、そんな事をぼんやりと考えながら、観月は持っていた携帯電話をころりと掌の上で転がした。
日に焼けにくい白い頬と伏せられた睫毛に、川からのゆるい風が柔らかく触れる。
彼の中で余り緊迫感が無いのは、見つからないという絶対的な自信があるからだった。
規則を破った生徒の報告は、まず寮長にいく。その寮長自らこんな事をしているのだから報告のしようが無いし、
なにより本日はちょうど自分が寮内の見回り当番だったからだ。夏の始まりを告げる、虫の音色と温い風。
湿気と微かな草の匂いを含んだそれに身を任せながら、観月は携帯電話を自分のすぐ傍に置き、両膝を抱える。
眠れない。
ゆっくりとため息を吐いて、眉を寄せた。
胸の中には今日あった出来事が整理されずごちゃごちゃに絡まって混在している。
観月にとってその状態は許しがたい事だった。それなのに、思い出そうとすると一人の男が脳裏に浮かんで途端に感情がぐらぐらと揺れる。
まるでオールが流された船にぽつんと取り残されてしまったような、
そんな不安定な気持ちに、一人の男、見知った顔の、赤澤吉朗はさせるのだった。

観月は眉を寄せたまま、無意識に唇を噛みしめる。全身はひどく疲労していた。
都大会のコンソレーションで、あの跡部と試合をしたのだから。勿論事前に予測をした。
一週間、氷帝テニス部のありとあらゆる弱点を徹底的に調べて探って、分かったのは、自分達の勝率は目眩がする程低い、という事だった。
けれど、その中でも一番可能性のあるオーダーを組んだつもりだった。
自分で試合をして負けるのも悔しいが、相手に試合予想を裏切られ、
部員達が負けていく姿をベンチで見るのが、観月は一番悔しくて、大嫌いだった。
青学、氷帝、全然自分の思い通りにいかない。腹立たしくて、悔しくて、そして自分達の夏は終わった。
それは夢のようにあっけなく、嘘みたいにはかない現実だった。

閉会式が終わった後も、観月はコートから出る事が出来なかった。
呆然と、次第にまばらになっていく靴音を聴きながら、他校のジャージ姿の群れを眺めるともなく眺めている。
反省会と、解散と、その前に部員を集めてまず号令を掛けないと。頭ではやるべき事が理解っているのに、身体はぴくりとも動かない。
怖いくらいの空虚感と倦怠感が襲う。赤、青、白、黒、他校生が纏うジャージの色が視界の中でぐるぐると混ざり合って溶けていく。
立っている筈の地面まで奇妙に遠ざかっていくその感覚に息を飲んだその瞬間、

 「観月、帰るぞ」

ポン、と背中を叩かれた。突然の衝撃に、けれど観月はゆるゆると緩慢な動作でしか首を上げられない。
不安定にゆらぐ視線の先には、赤澤が居た。口を真一文字にきつく結んだ彼らしくないその表情に、
観月は投げつける文句ひとつ思い浮かばず、ただぼんやりと彼を見上げる。

 「現地解散だ。もう皆に伝えた。反省会は明日やる」

だから、帰るぞ。
連絡事項を告げた後、短い言葉で赤澤はそう云った。
どうやら自分が動けなかった間、部員達に指示を出してくれていたらしい。しかし彼に対する感謝の気持ちよりも、
指示ひとつまともに出来なくなっている自分に対する情けなさと苛立ちの方が先だってしまい、観月は黙って視線を逸らすだけだった。

 「観月」

赤澤が名を呼ぶ。何度も、辛抱強く。
腹が立つ。一人にして欲しいのに。悔しい。どうして。どうして自分達は勝てなかったんだ。
様々な感情が浮き上がっては胸の中で綯い交ぜになり、せめぎ合って観月をどんどん苦しくさせる。
帰るんだ。赤澤はもう一度云った。それを背中で聴いた観月は身を硬くする。
帰るって、帰ってしまったらもう、全て終わってしまうじゃないか。
自分がルドルフに来てから今までの間、勝利の為に費やした、その全てが。

 「…帰るなら、一人でかえればいいでしょう…」

語尾は掠れて声にならなかった。本当は、分かっている。
聖ルドルフの敗北は、自分が一番痛い程、理解っているのに。
どうしても心の何処かで認めたくなくて、これで終わりなのだと信じられなくて、赤澤の言葉を頑なにつっぱねる。
はねつけたところで事実が変わらない事も、理解っているのに、そうでもしないとやりきれなかった。

 「バカかお前は」

しかし、上から降ってきた言葉は何故か落ち着いた悪態だった。観月が視線を赤澤に戻す。
彼を見る目つきはきっとこれ以上なく険しく攻撃的になっているに違いない。負けじと赤澤も睨み返し、そして云った。

 「こんな状態で置いてける訳ねぇだろ」
 「…放っておいて下さい。一人で帰れる」
 「本気で云ってんのか?」

ふらふらだぞ、お前。
真剣な顔つきで赤澤が云うが、観月にとってそんな事はどうでも良かった。
彼と話をすればする程、自分がいたたまれなくなっていく。虚勢を張るには身体的にも精神的にも疲れ過ぎていた。
早く、一人になりたい。もう、顔を合わせたくない。ルドルフの部員達と、そしてなにより部長の赤澤と。

 「お願いですから…」

頼りない声は不意に中断された。
背後に立っていた筈の赤澤が一歩前へと踏み出し、そのまま観月の手首をいきなり掴んだのだ。

 「赤…」

力強い感触。突然もたらされた行動に、観月は戸惑いを隠せない。
距離を縮めた赤澤はじっとそんな彼を見つめながら、わるい、と一言低く呟いた。
怒っているのか、真面目なのか、普段余り聴いた事のない声音が観月の耳をうつ。

 「悪い、って…」

気づけば知らず復唱していた。訳が分からない。
どうして赤澤が謝るんだ。謝らなければいけないのは自分の方なのに。
精鋭として勝つ為だけにルドルフへ呼ばれた、それなのにこんなところで敗北した、惨めな自分の方なのに。

 「勝たせてやれなくて、悪かった」

赤澤が云う。その言葉に観月が力無く首を振る。
だから、どうして。赤澤が云うんだ。掴まれた手首が熱い。
観月は何か云おうとして曖昧に口を開くが、言葉が綺麗にまとまらず何度か逡巡を繰り返し、結局断念する。

二年の秋から好き放題やってきた。
部活には滅多に顔を出さずスクールに通って、結果を出してくれればそれでいいと、学校側からはそう云われてきたから。
元からあったテニス部を自分好みの体制に作り変えて、半ば無理矢理云う事を聞かせて。
反発する者も数多くいた中で、赤澤はそれでも何も云わなかった。
勝てるんなら俺は観月達に従う、と裏で部員達に話していたのも知っている。だから部長に仕立て上げた。
扱い易さと信頼の厚さ、打算計算込みで観月から与えられた役職を、赤澤は特に文句も云わず今までこなしてきた。
本当に、バカなんじゃないかと思う。お人好しにも程がある。ここは絶対、怒るところだ。
怒って、責めて、自分を詰ってもいいところだ。その権利は赤澤にはある。それなのに。

 「悪かったな、観月」

心底申し訳なさそうに詫びる赤澤を見て、観月は不覚にも涙をこぼしてしまった。

ありえない。
かろうじてここまで記憶を再生した観月は、膝の上に乗せた自らの両腕に顔を突っ伏してしまう。
泣くなんて、絶対にありえない。思い出すだに恥ずかしい。どうかしていたとしか思えない。
信じられない事に、その後には、泣きながら赤澤に手を引かれ寮まで送り届けてもらった、
という恥ずかしさに輪を掛けたような続きがきちんとあるのだ。いくらあの時感情が不安定だったといっても、それは無いだろう。
観月はつい数時間前の自分を振り返り、絶望的な気分に陥る。他校のテニス部員達に、道行く人達に、きっと絶対変な目で見られた。
赤澤に連れられている時は感じなかった羞恥が、今になってふつふつと自分の身体の中を焦がしていく。
結局、文句も感謝も何ひとつ云えなかったし。
羞恥に苛まれる観月の脳裏にこびりついて離れない一人の男の顔が、再度思い起こされる。
涙もようやく乾いた頃、タイミング良く学生寮に到着して、心配して玄関まで出てきていた裕太に自分を引き渡すと、
じゃあなと赤澤は帰っていった。なんだかもう、ごちゃごちゃと様々な事が起こり過ぎて、良く分からない。
長々と風呂に浸かっても、気に入りのアロマを焚いても、全然気分が晴れなくて、
結果ベッドから這い出した観月は今寮を抜け出し数キロ歩き、この川べりに膝を抱え座っている。
とめどなく囁かれる虫の音を聴きながら何度目かのため息を吐いた後、傍に置いてあった携帯電話をそろそろと手にする。
既に日付が変更して一時間近くが経過していた。淡く光るボタンに指を滑らせ、アドレス帳から目的の人物の電話番号を開いて、
観月は再びそれを地面にことりと置いた。気づけば心臓が高鳴っていた。何をやっているんだ、自分は。このごに及んで何をする気だ。
明日になったら反省会で、嫌でも顔を合わせるというのに。それなのに。こくりと息を飲み込む。
震える指先は闇夜に光る携帯電話を捜し当て、再び観月はそれを手に持つ。わるい。
瞬間、あの男の声が耳の奥で反芻された。それに突き動かされるように大きく息を吸って、発信ボタンを押した。
コール3回。これで出なければ切る、呼び出し音を聴きながらそう思った瞬間、フツリと音が途切れた。

観月か?

微かな驚きを滲ませた、赤澤の声。
鼓膜にじわりとそれが伝わって、観月は知らず電話を持っている方の手首をきゅ、と握る。
前を歩く広い背中。有無を云わさない、後ろ姿。掴まれた手首から皮膚に伝わる、自分よりも少し高い赤澤の体温。
ずっと消えない、ずっと、剥がれない。

 「眠れないんです」

ぼそりと小さく、観月は告げる。寮を抜け出した事も。
場所を伝えた途端電話口で素っ頓狂な声を出した赤澤だったが、待ってろ、と一言残して電話は切れた。
相手からの予想外の反応に、観月は通話の切れた携帯を片手に持ったまましばらく茫然としていたが、
次第にゆっくりと苦笑にも似た笑みが自分の口許に広がっていくのを感じた。役目を終えた電話を置いて、空を見上げる。
濃紺の空にひしめく星の数を数えながら、観月は自分の為に走ってくるであろう男の到着を素直に待つ事にした。

 

 

□END□

あいうえお作文*こいし