部室を開けたらありとあらゆる荷物が盛大にひっくり返っていた。
赤澤は眼前に広がるその光景に一瞬我が目を疑い、何度かまばたきを繰り返してみたが、
かといって見える惨状はさして何も変わる事はなかった。まさか、泥棒にでも入られたのだろうか。
しかし夕方、部活途中に忘れ物を取りに一度こちらへ戻ってきた時、部屋はこんな有り様ではなかった筈だ。
本日は生え抜き組の練習しか行われていない為、ここを利用する部員の数も少ない。
赤澤は怪訝に思い、万一の事態を考え扉を開けたままにしておきながら、更に部室の奥へそっと足を踏み入れる。
瞬間、部屋の隅でガタン、と何かが落ちる音がして不自然に背中が反った。
身体を強張らせたまま音のした方向へ視線を遣ると、中央に置かれた机の影からひょこりと黒髪が覗いた。
よくよく見ると、その髪の流れは艶やかに緩いカーブを描いている。
黒い頭は更に上へと移動して、それはマスクを装着した観月の顔になった。
「…観月?何してんだ、お前」
妙ないでたちで妙な場所から出現したマネージャーの顔に人知れず安堵しながら、赤澤は彼に向け声を掛ける。
しかし観月は赤澤を視界に捉えた途端きつく眉を寄せ目を吊り上げた。不機嫌だ。思いきり。赤澤は瞬時に耳を押さえた。
「何、じゃありませんよ!ちょっと補強組が居ないだけでどうしてこんなに部屋を汚せるんですか!」
立ち上がった観月はマスク越し、くぐもった声で不快そうに云い放ちながらぐるりと周囲を指差す。
補強組は、金曜と月曜に限りルドルフ学園ではなく別のテニスクラブで練習を行う為、こちらには戻ってこない。
そして今日は月曜日である。確かに彼らがいなくなると生え抜き組同士の気安さもあって、
部内の雰囲気や規律が多少緩くはなるが、だからといって流石にこんな泥棒が入ったような状態にはならない。
「や、そんなには汚してねぇよ。つーかこんなに滅茶苦茶にしたのはどこのどいつだ」
赤澤は耳を塞いでいた手をそろそろと外し、そのまま開けっ放しだった扉を後ろ手で閉めると、
ファイルやテニス用具が散乱した机上や床を眺め気の抜けた声で返す。
その言葉に、部室の片隅に立つ観月が分かり易くうっと言葉に詰まった。
「僕は…掃除をしに来ただけです」
「散らかしにきた、の間違いじゃなくてか?」
おそらく、何らかの用事があって補強組の練習後こちらへ戻ってきた観月は、
ふとした拍子に部屋の汚れが気になって、片付けを一人でやり始めたら手を広げ過ぎて収拾がつかなくなったのだろう。
しかし誰かの手を借りるのも煩わしいから今まで黙々と掃除なのか散乱なのかよく分からない行為を続けていたに違いない。
手伝おうにも撥ねつけられ、しかし部屋は次第に大変な様相と化していく。
制服に着替える為ここに戻った部員達はさぞかし居心地が悪かった事だろう。
「そう思うんなら手伝いなさい」
何故そこで命令口調なんだ。彼らしい高慢な切り返しに赤澤は脱力しながらも、
へいへいと大股で床に散乱した荷物を跨ぎながら、棚から出した資料の山に埋もれている観月の隣に腰を降ろした。
「これは?」
「茶色の棚上段」
「こっちは?」
「黒い棚下段」
「じゃあこれ」
「茶……赤澤。部員に関するファイルは全て茶色の棚に収納する、と僕は転校初日から云っている筈ですが」
濡れ布巾で床を丁寧に磨く手を止め、隣に座る観月がジロリと冷ややかな目で赤澤を睨みつけた。
対する赤澤は本気で覚えていないのか、そうだっけ、と首を傾げつつファイルを目の前にある茶色の棚に差し入れる。
「下段ですよ」
「いーじゃねぇか空いてんだから」
良くないです、と厳しい声で制止した観月は赤澤の手からファイルを奪い取ると、さっさと下段に差し込み直した。
本当に、神経質にも程がある。日々こんな調子で疲れないのだろうか、と大雑把に日々を過ごしている赤澤などは心底不思議に思うのだが、
あるべき所にあるべきものが整然と揃っていないと逆にそれがストレスとなってしまう観月にとっては、
このきっちりと整えられた生活が至って普通であり、その為の努力は惜しまないものらしい。
こいつにしてみれば自分なんかは本当に許せないタイプなんだろうな、と赤澤はぼんやりと観月の白い横顔を眺め思った。
あれから数時間掛けて手伝った甲斐あってか、室内は見違える程綺麗になっていた。
現に、観月の機嫌は部屋が片付いていくにしたがって次第に良くなってきている。
マスク越しに口ずさんでいるのだろうか、微かに聴こえる旋律に耳を傾けながら、
最後のファイルを指定された棚に差し入れ、自分の仕事を終えた赤澤は大きく息を吐きながらゆっくりと首を回した。
「終わったぞー観月」
「こっちは後少しです。ちょっと待ってて下さい」
「だりーくたびれたー」
「だから、後少しで…」
床についたしつこい汚れとひたすら格闘しながら、観月が声の主を見ずに応える。
布巾を握る手に更に力を込めようとした時、浅黒い腕が隣から伸びてきた。
そのまま手首を掴まれ、ようやく何事かと床から顔を上げれば、横に座る赤澤が珍しく神妙な面持ちでこちらをじっと見ていた。
「…なんですか」
ぶつかる視線に気圧され掛けて、無意識に観月の上体が後方に傾く。
赤澤はそれでもまじまじと彼の顔を見据えたまま、ゆっくり口を開いた。
「お前、アレルギーなんだっけ?」
「そうですよ。埃と花粉。だからこうしてマスクをしてるんじゃないですか」
今更何を当たり前の事を訊いているのだろうか。
身体の中で僅かに発生した緊張が解けた観月はふい、と視線を逸らすと先程まで格闘していた床をもう一度見遣った。
直後、視界の隅で捉えていた赤澤の指が顔の傍でするりと動く。突然の出来事に反応するより速く、
次の瞬間観月は口許を覆うマスクをあっさりと奪い取られていた。
「ちょ…、何を…」
怒鳴ろうとした言葉はしかし、くしゅん、と小さなくしゃみに変わってしまう。
「あれ。掃除機かけたのにダメなのか」
赤澤が微かに片眉を上げ、驚いた様子でひとりごちる。
右手で口許を押さえながら力強く頷き、観月がもう片方の腕を赤澤の持つマスクへと伸ばした。
「そういう単純なものじゃない…!」
ばか、と云いかけ次のくしゃみに阻まれる。
赤澤はそんな観月を見て少しだけ困ったように笑うと、マスクをその手に返しながら悪かった、と素直に詫びた。
「一体…、どういうつもりなんですか」
謝るくらいなら最初からこんな訳の理解らない事をしないで欲しい。
戻ってきたマスクを手に、ず、と鼻を啜りながら観月が睨みつける。しかし赤澤はその質問に悪びれずしらっと答えた。
「キスしたかったんだ」
「は?!」
驚愕した観月の手からぽとりとマスクが落ちた。
鼻の頭がほのかに赤い。気づけば涙目で潤んだ声を出す観月は、
普段は滅多に見られない奇妙な情けなさと可愛さが相俟っていて。
申し訳ない事をしたと思う反面、正直すごくそそられてしまった。
赤澤が一回り細く白い手首をぐ、と再び掴み自分の方へ引き寄せる。
その動きで、未だ何を云われているのか、何をされているのか理解出来ないまま観月があっけなく腕の中に収まる。
条件反射のように顔を上げこちらを睨みつける彼の顔は涙を伴いぐしゃぐしゃで、怒っている筈なのに驚く程無防備だった。
「手伝い賃」
そう云って、赤澤の唇が笑みの形を残したまま観月のそれを掠め、しっかりと重ねていく。
触れ合った肌で直接分かってしまう程、腕に閉じ込めた彼の身体はかちかちに硬直していた。
口づけの間、身の置き場を失っていた観月の指が、諦めたようにそろそろと二の腕にしがみついてくる。
素直なのは今だけだ。身体の強張りが解け、この指に力が込められる頃にはきっと即平手が飛んでくるだろう。
否、今度は拳か肘鉄か。もしくは盛大なくしゃみかもしれない。
目の前で伏せられた繊細で長い睫毛を視界の片隅に捉えながら、赤澤は何度繰り返したか知れない覚悟を心に決めた。
神経質で尊大で、それでいて妙なところで危なっかしいこの男に、どうしようもなく惹かれて止まない。
強引なのは承知の上で、それでも欲しくて仕方がなかった。だから反撃覚悟で距離を詰める。逃げないよう閉じこめる。
例えその冷徹な眼差しで、痛烈な罵倒で、次の瞬間地獄に蹴り落とされたとしても。
□END□