観月はじめは苛ついていた。
年内最後のイベントであるクリスマス礼拝を終えた学園は、いよいよ翌日から本格的な長い冬季休暇に入る。
年末年始を挟む事もあり、寮生達は皆帰省の準備や支度に追われ、フロアやロビーはいつになくざわざわと楽しげに賑わっていた。
観月も例に漏れず翌日から帰省する予定を組んでいる。寮生管理委員として様々な雑事を片付けてからの出発となる為、
実家に到着するのは夜遅くになりそうだが、既に新幹線のチケットは手配済みだった。家族と会うのは夏季休暇以来だ。
本来ならば観月も他の寮生達と同じく帰省の楽しみに気分が浮きたつものなのに、今回に限っては全くそういう気分になれなかった。
原因は、分かっている。
観月は椅子に深く上体を預け、きちんと片付けられた塵一つ無い机上に頬杖をついたままもう片方の手で携帯電話を弄る。
入浴を済ませ一息ついた頃、唐突に鳴り出したかと思うと、自分の携帯へ五分置きにしつこく発信してくる男の名前は、
目にするのも腹が立つので先程拒否に設定した。明日帰省する事は終業式のあった日に知らせてある。
しかしあの男はその翌日から観月の前にぱったりと姿を現さなくなった。
連絡も取れないまま迎えた学園主催のクリスマス礼拝でもやはり顔を見なかった為、
さすがに気になって自分が歌い終えた後それとなく柳沢に訊ねてみれば、彼は奉仕活動の一端で、
終業式が終わった次の日から自宅に程近い所にある老人ホームへ通っているのだ、という意外な答えが返ってきた。
彼が授業で奉仕活動を選択している事は知っていた。しかし冬季休暇中そんなスケジュールになっている事は、知らされていなかった。
観月は茫然と、ただそうですか、とだけ呟いた。しかしその頼りない声が柳沢の耳にまで聴こえたかどうかは分からない。
中学最後のクリスマス礼拝なのに。賛美歌はいつも以上に美しく完璧に歌えたのに。
あの男はそんな自分を見る事無く別の場所でこの聖夜を祝っているのか。
そう思った途端、観月の心に小さな黒い闇が生まれた。
そしてあれから三日が経ち、今の今まで何の連絡すら無かったというのに、今夜突然机の上で電話が鳴ったのだ。
サブ画面、淡いイルミネーションと共に表示された発信者の名前を見た時は、心臓を強く揺さぶられるように高鳴った。
あれからずっと逢っていない。顔を見ていない。声を聴いていない。それでも、観月は電話を取らなかった。
話したくない訳ではなかった。けれどそれ以上に、彼の心中から湧き出る感情は、強烈な怒りで渦巻いていたのだ。
しかし着信拒否にしたところで気分は晴れず、観月の胸はざわつくばかりで更に不愉快になっていく。
落ち着かない視線が、荷造りの済んだトランクへ忙しなく移り、再び机上の電話に戻ってくる。
絶対に取らない。明日、何も云わずに帰ってやる。居なくなってから後悔しても、もう遅いのだ。
そもそも、自分の帰省先である山形県の場所すら何年経っても覚えられないあんな馬鹿な男に、
何故こんなにも気持ちを割かねばならねばならないのだろう。考えれば考える程怒りで意識は散漫になり、
腹立たしい程彼の事ばかりが脳裏に浮かんでしまう。観月は落ち着きを取り戻す為大きく息を吐くと、
艶やかなカーブを描く柔らかな前髪を無造作に弄りながら、きつく目を瞑った。
その時ガタ、と窓の外で何か大きな物音がして、びくりと両肩が震える。
しばしそのまま硬直していたが、意を決しゆっくりと振り返ってカーテンの方を見た。
同時に視界に入ったベッド脇に置いてある時計は、就寝点呼30分前を指していた。
観月は椅子の背に折り畳んで掛けてあった濃紺のたカーディガンを手に取ると、それを羽織り静かに席を立つ。
胸のざわつきは先程よりも酷くなっていた。窓の外から聴こえてくる、木々の葉が擦れるような音は少しずつ大きくなっているから、
おそらく空耳や気のせいでは無いだろう。まさか。でも。頭の中で少しだけ俊巡したが、
それに反して足は吸い寄せられるように音がする窓の方へと近づいていく。
「……、」
カーテンをそっと掴み、観月は静かに息を呑んだ。
暖められた室内に居る筈なのに指先の温度はどんどん冷たくなっている。
一体自分は何を期待して、何を恐れているのだろう。葉の擦れるような音はトン、と窓ガラスを叩く明確なそれに変わり、
意識を現実に戻された観月は掴んだカーテンを躊躇いなく一気に引いた。寮の角部屋を使用している為、
通常そこに映るのは生い茂る木々の筈だったが、今夜見える景色は深い闇と緑の葉に混ざって木の上に見慣れた男の姿があった。
登ってこれない高さではない。しかし周囲には緩くではあるが侵入者を防ぐ為のセンサーが巡らせてあるのだ。
にも関わらず、それをかいくぐってここまできたのか。
「赤澤…」
錠を跳ね上げ、窓を開ける。
途端、ヒヤリと冬の冷気を含んだ風と共に、木々を軋ませた男の身体が部屋に侵入した。
「ちょっと、何勝手に入って…」
言葉を最後まで口にするより早く、伸びてきた腕に身体を強引に引き寄せられる。
次の瞬間、観月は赤澤の腕の中にすっぽりと包まれてしまっていた。軽く瞠目する。
一体いつからあそこに居たのだろう。触れる赤澤の身体は驚く程冷たかった。
「…お前なあ、マジでやめろよ、ああいう事…」
開口一番、弱々しい声が耳許で聴こえる。
「なんですか、ああいう事って」
「着信拒否!マジへこんだ!ひっさびさに時間作れたっつーのに」
この薄情モン、と呟かれ、しかし観月はここで異議ありとばかりに狭い腕の中で必死に首を捻り、赤澤としっかり視線を合わせる。
久しぶりに見る赤澤は叱られた犬のように弱り果てた顔をしていて、その情けなさに思わず全て許してしまいたい衝動に駆られたが、
頭の中で懸命に首を振った。甘やかしては駄目だ。絶対。
「連絡のひとつも寄越さなかったあなたが、良く薄情者だなんて云えますね」
「暇が無かったんだよ!」
噛みつくように云い返す赤澤を、観月がじろりと威圧的に睨みつける。
「奉仕活動に行く予定を、僕に話す暇も無かったんですか」
たっぷりと刺を含んだそれを聞き、うっ…と言葉に詰まってしまったが、
赤澤は凄絶な顔で睨みつけてくる観月から何とか視線を逸らさずにぼそりと小さな声で返した。
「だってお前、クリスマス礼拝も行けないって云ったら絶対怒るだろ」
「そうやって云わずに済ませようとしたあなたに怒ってるんですよ、僕は!」
なんだその本当に叱られまいとする犬のような思考回路は。
観月は腕の中で目一杯大きな声で怒鳴ってやりたかったが、ここが寮の中であるという現実を思い出し、必死で声を抑え攻撃する。
この馬鹿。それで自分がどれだけ揺れたか。どれだけ心細かったか。絶対に云えない、
けれど恥ずかしい程感情的な本音は油断するとすぐに喉から溢れそうで、観月は必死で唇を噛んだ。
「悪い」
すり、と赤澤の頭が力無く耳許に触れる。どうやら完全に敗北を認めたらしい。
「謝罪で済んだら警察は要らない」
近くなった顔と顔。自分よりも態度も図体も大きな男が、困り果てたようにこちらを覗き込んでくる。
その眼差しが余りにも優しくて、ああこの瞳を見たかったのだという事に気づいてしまい、観月は不覚にも涙腺が緩みそうになった。
「もう絶対こんな事はしない。怒られるのを覚悟でちゃんと云う」
怒るのはもう嫌だから、怒られない事をまず第一に目指して欲しい。
観月はそう思ったが、赤澤の云い方が本当に意を決した生真面目極まりないものだったので、
その決意を崩さないようこくりと頷くだけにしておいた。いきなり抱きすくめられてから、
所在無かった二本の腕をようやくそろそろとその広い背中に回す。赤澤の匂い。この腕に包まれた瞬間、自分でも嫌になる程安心した。
「…奉仕活動はいつまでなんですか」
頬にあたる外の風はきんと張り詰めていてとても冷たい。
開け放たれた窓と、カーテンを早く元に戻さないといけないのに、
ずっとこの腕の中に閉じ込められていたい、と隠された本能が密やかに脳裏で囁く。
「?年明けの五日までだ」
その絶妙な日程を聞き、我知らず唇が微かに綻んでしまう。
今までずっとすれ違い、何処かで落として欠けたピースがようやくカチリと嵌まった気がして、
観月は肩に回した手にゆっくりと力を込めながら、赤澤の耳朶にそっと顔を寄せ吐息だけで告げた。
「五日の夜、駅まで迎えと荷物持ちに来てくれるなら、今までの事は許してあげます」
赤澤はそんな事をのたまった観月の顔を思わずしげしげと見つめたが、
つんと澄まして微笑んでいる彼に対し勝ち目など無いと悟り、分かったよ。と呆気なく了承した。
観月はよろしい。と機嫌良く答え、就寝時刻残り5分前の限られた逢瀬を腕の中で満喫した。
風でたなびくカーテンの向こう、漆黒の闇に薄く切り取られた三日月が赤澤の肩越し、視界の隅でにやりと笑った。
□END□