時に自分の感情と行動のギャップというのは何処で生じるのかと、人知れず悩む事がある。



          こんな日は特に。



          
chlorine17



          掃除とSHRを終えて、生徒がそれぞれの放課後を満喫し始める頃、より少し後。
          月に一度回ってくる日直の仕事に追われていた日吉は、ようやく帰り支度を済ませ、教室の扉をきっちりと閉めた。
          途中、担任に日誌を届ける為職員室にも寄らなければいけないので、普段は余り通行しない西側校舎の廊下を足早に通り過ぎて行く。

          無意識に窓へ目を遣れば、もう夕刻だというのに眩しい程快晴で、それだけでも今日の部活はきついだろうなと密かに思う。
          まだ初夏だというのにこの暑さ。冬生まれだからという訳ではないが、どちらかというと夏は苦手な季節だった。
          小さく溜め息をついた後、日吉は気分を変えるように肩に掛けたカバンを持ち直し、廊下の端にある教室の、その角を曲がる。

          瞬間。
          視界に飛び込んできた情報に対し、足が引き返そうになったのは、自分の正直な気持ちだ。

          なんで。

           「お、ひーよしー」

          なんでこんな所(2年校舎)にこの人が居るんだ。

           「…今日和」
          廊下を曲がってすぐの階段。
          その下で、ポスターの山を両手に抱えて立っている、向日岳人。
          そんな彼に対し、不審に思いつつも律儀な日吉は挨拶と会釈を忘れなかった。
          岳人もオイッスと元気良く返事をしながら、ぱたぱたと階段を元気良く駆け昇ってくる。

           「いいトコで会ったー!あのさーちょっと手伝って欲しい事があるんだけどさー」
           「…お断りします」
          丁寧に辞退すると、即座になにーと不満そうな声が上がった。分かり易すぎる。
           「お前なあ、まだ手伝う内容云ってないだろーが!」
           「聞かなくても察しは付きます」
          失礼しますと横を通り過ぎようとしたが、日吉の眉が怪訝に顰められる。
          歩き出すよりも早く、制服のシャツの裾を掴まれ、ぐいっと力任せに引っ張られたのだ。
          驚いて振り返れば、すぐ傍で必死な表情を浮かべ、こちらをじっと見上げている岳人の大きな瞳にぶつかる。
           「先輩…」
           「一人だけ逃げようったってそうはいくか!ここで会ったのも運命だ、絶対逃がさねーぞ!」
          いや逃がさないと云われても。
          思わず口にしようとした文句は、頭ひとつ分以上低い方向から放たれる強い視線(こういうのを眼力っていうのか?)によって、結局喉の奥に押しやられる。

          しばしの沈黙。

          日吉が呆れたように視線を落とせば、それを諦めのサインと勝手に理解したのか、岳人が勝ち誇ったように笑った。
          云い出したらきかない人だし、とにかく頑固だ。
          この人に捕まって逃げおおせるなんて芸当、所詮自分には無理なのかもしれない。



          運命ならば仕方がない。
          甘んじて受け止めよう。



           「で、次は何処なんですか」
           「3階の渡り廊下、その後は東校舎の2階、それで完了!」

          結局、ポスター貼りの仕事を手伝わされる事になった日吉は、
          セロハンテープをくるくると回しながら軽く跳ねるように歩いていく岳人の後ろに付き従っていた。
          美化委員の彼の話によれば、一人につき五枚の美化推進ポスターを校舎内に貼るのが今回の仕事だったそうなのだが、
          それを何時まで経ってもやらなかった為(本人曰く忘れていたそうだが)、
          担当教師から呼び出された挙句、ポスターを十枚に増やされたらしい。それを今日の放課後一人でせっせと貼っていたのだそうだ。

           「お前が居てくれて良かったよ、俺だと3階の掲示板のトコ、届かねーからさー」
          強引に拉致したクセに、素直に感謝の意を示す単純な神経の持ち主に対し、日吉はどう返答したらいいのか分からない。
          人気の無い廊下を二人で歩くという不思議なシチュエーションも災いして、口数が極端に少なくなってしまっているのだが、
          岳人はそんな無表情且つ無言の自分に気兼ねする事無く良く喋るので、余り気詰まりも無かった。

           「よし、これで完、了」
          西校舎2階の掲示板に最後のポスターを貼り終えると、
          岳人はぐいっと気持ち良さそうに小柄な身体を反らせて大きく伸びをした。開放感に満ち溢れた笑顔と共に。
          そんな雰囲気につられ日吉も一息ついたがしかし腕時計を見ると、部活開始時間から既に一時間程経過している。
           「部活、完全に遅刻ですよ先輩」
           「ん?いーのいーの。跡部には俺が云っとくから心配すんな!」
          そうは云うが、顔に似合わず傍若無人なあの部長の事である。きっと通常トレーニングを三倍程増やされてもおかしくはない。
           「…ま、いいですけどね」
          乗り掛かった船だ。
          一人ごちるように呟けば、横から岳人がなんだなんだ?と興味津々な眼差しを向けてくる。
          何でもないですよ、と答えて、今度は先輩よりも先に歩き出した。

           「あ、待てって日吉!」
          慌てた声と、ぱたぱたと後ろから追い掛けてくる軽やかな靴音。
           「手伝ってくれた礼になんかオゴってやるよ!」
           「いや、いいですよ別に」
          そういう事を目当てに手を貸した訳ではないし。
          廊下を曲がりさっさと一人階段を降りながら、日吉の思考はそこで一旦ピタリと停止する。
          じゃあ何故手伝ったのだろうか。

          困っていたから?
          別に誰が困っていようと自分には関係ない。
          先輩だから?
          だからといって誰彼構わす媚を売るなんて自分に出来る筈ない。

          違う。
          出遭った瞬間、思ったのだ。逃げられないと。
          この人からは、逃げられないと。だから。

           「なーおい!日吉ー!」

          この人だから?

          己に向けて放った質問が、心にゆるゆると落ちる。

          まさか。
          ちょっと待てそんなまさか。

          階段の途中で立ち止まったままの日吉の背中に、岳人の声がようやく追い付いた。

           「日吉!…って、…うわ!」

          廊下に響いた一際大きな声に、意識を引き戻される。
          何事かと思い半身を後ろに捻った日吉と、階段までたどり着いた岳人が身体のバランスを崩したのは、ほぼ同時の出来事だった。



           「…っ、」
           「わ、あ…!」
          階段から落ちかける岳人の腕を咄嗟に掴んで、身体ごと自分の胸に引き込む。

          瞬間、
          フワリ と、鼻先を掠めていく。



          塩素の匂い。



          手を離した拍子に分厚い日誌がバサバサッ、と乾いた音を立てて階段から落ちていく。
          構わずそのまま階段の手摺部分に背中を押し付けて、なんとか転落の危機を阻止した。
          触れる肌から伝わる体温と、少しだけ速い鼓動。

           「…な、に、やってるんですかあんたは…」

          とりあえず深呼吸をひとつして落ち着きを取り戻し(たと自分に云い聞かせ)てから、
          日吉は自分の腕の中にすっぽりと収まってしまっている赤い髪の後頭部を睨みつける。
           「……ビ、ビックリしたな」
          そろそろと顔を上げた岳人が、へへへと気まずそうに笑うが、冷たい視線で返され、笑顔は中途半端に固まってしまう。
           「階段一気降りしようと思ったらお前が途中のトコに居たからびっくりしてさ、バランスがさ」
          しどもどと伝えられる状況説明を、「向日先輩」と強い口調で寸断すれば、
           「はい!」
          びくっと日吉の腕の中の小さな身体はその声に硬直した。
           「前にも云いましたよね、階段は飛んで降りるのではなく、足を使って降りるものだって」
           「だって」
           「だってじゃないです。今のだって一歩間違えたら事故に繋がっていたかもしれないんですよ」
          完全に先輩後輩の立場が逆転している。
          日吉の感情的で無い冷静な叱責に、岳人は小動物のように肩を落とし、みるみるしょんぼりとしていく。
          そんな姿に一瞬心が痛んだが、何かあってから後悔したのでは遅いのだ。気を引き締めて再び口を開きかけると、

           「だって、お前置いてくから」
          唐突にそんな小さな声が耳を掠め、次に云うべき言葉を見失った。
          改めて見下ろせば、声の主は少しだけ強気に戻った瞳でこちらをじっと見上げている。
           「だから追い付こうとしたんだ。置いてくのが悪いんだろ」
           「それは…」
          そうかもしれないがでもそれはおかしくないか?
          やはり階段を飛び降りようとしたこの人の非常識な行為がおかしいんじゃないだろうか。
          反論する言葉を探している日吉の腕の中でしばらく大人しくしていた岳人だったが、突然身体をもぞりと動かし、くん、と鼻を鳴らす。

           「あれ?日吉、プール入った?」

          プール?

          突拍子の無い質問に思わず組み立てていた反論が崩れ掛ける。
          しかし律儀な日吉は、はい。と頷き肯定した。
           「5限目の体育で」
           「だからかー」
           「何がですか?」
          怪訝になって訊き返せば、岳人は両腕を日吉の肩に置いて、胸許に顔を寄せる。
           「プールの匂い」
          そう云うと、再び顔を上げていいなー。と悔しそうな表情を浮かべた。
          正直訳が分からない。話題のとんでもない飛躍についていけない。
           「俺達のクラス来週からなんだよなー」

          というか。
           「先輩」
           「なんだよ」
           「いい加減離れてくれませんか」
          先程の岳人の行為で目が覚めた。

          この至近距離は何だ。

          よく考えたら学校内の階段の途中で抱き合っているこの状況こそが一番おかしいのではないか。
          反論を唱えるよりも早く、この体勢を解かなければ。

           「やだよ」
           「先輩?」
           「プール入った後って身体冷えるんだよなー、お前冷たくて気持ちいいんだもん」
           「ちょっと…」
          静かにうろたえる日吉の腕の中で、岳人がこっそり悪戯に成功したように笑みを浮かべる。
          先程怒られた仕返し、という訳では無いけれど。
          いつも冷静沈着な奴が、自分の行動によって珍しく感情を表に出しているのが新鮮で、面白くて、

          嬉しくて。

          良く見れば微かに濡れた茶色掛かった髪の毛に遠慮無く触れば、
          少しだけ驚いた日吉の顔が、今度は諦念の色に変わる。先刻まで何を悩んでいたか、もうどうでもよくなった。



          敵わない。
          胸中の敗北宣言。



          そして。
          先輩後輩の立場は再び元に戻ったのだった。






          □END□

          

                    

          (タイトルのchlorineは塩素、17は原子番号です。)