それから。
お互い何か変わったのかといえば、そんな事は全然無く。

でも、ただ少し。少しだけ。
前よりも、日吉の事が、分かるようになった。

なんてそれは、単に自分のささやかな自惚れかもしれないけど。



 「兄が帰ってくるんです」

上着のポケットに両手を突っ込んで、すぐ隣に座っている日吉がぽつりと独り言みたいに呟いたので、ふうん。と自分も小さく頷き返した。
二人してぼんやりとした春の夕暮れ、公園内を走り回る犬を目で追いかけながらかたいベンチに腰掛け、取り留めもないいろいろな事を話す。
自分が卒業してしまってから、日吉はこうして時間の合う時、犬の散歩について来るようになった。
あの時は贅沢過ぎる程たくさん逢えたのに、同じ学校という空間に、呼吸するみたいに一緒に居たのに。
なんてもったいない事をしたんだろう、特に三学期。と、たまにすごく悔しくなったりする。日吉には云わないけど。
だけどその反面、これからはそんな偶然に頼らなくても逢いたい時に逢えるんだよなあ、と思う。
あの時は本当に夢か現実か分からなくて、いつまでもいつまでも真顔の日吉の頬を突然抓って物凄く嫌な顔をされた。
けれどこうしてゆっくりと日を重ね、実感すればする程、少しだけくすぐったくなる。体験した事のない、未知のくすぐったさ。
勿論これも日吉には云わないけど。

 「春休みだもんな」

隣に座っている日吉。
ポケットに手なんか突っ込んでるクセに、姿勢はびっくりするくらい綺麗で真っ直ぐだ。

 「春休みですね」

日に透けると薄く茶色掛かって見える、前髪から見え隠れするスッと切れ上がった目。
その所為で無愛想で堅い印象に見えがちだけれど、実は結構すごくその目が格好いいというのを発見したのは、いつだっただろう。
もうちょっと髪切ればいいのに、とお節介な事を何度も云ってはしょっちゅう迷惑がられた。
ポーチの中から、持ってきていた飴を二粒取り出し、ひとつを隣に手渡す。
懐かしい味のする黒糖の飴は爺ちゃんの大好物だったのが、いつの間にかその味覚は自分に引き継がれてしまっていた。
甘いものは基本的に苦手だけれど和菓子系統なら大丈夫、というワガママな日吉にもその飴は喜ばれたので、
それからというもの、散歩の時はいつでもそれを持ち歩く変な習慣がついてしまっている。
口の中に広がる、まるみを帯びたあっさりとした甘さ。
コロコロと動かしてその感触を楽しみながら、リードを外した途端元気一杯遠くへ走っていった犬を視線で探した。
もうすぐ帰らないと。だから。

 「何処か行きますか」

だから、最初何を云われたのか、分からなかった。
こつん、と口内で飴が奥歯にあたる。
ゆっくり顔を上げて声のした方を見たら、日吉は全然こっちを見ずに、
そんな事全然云わなかったみたいな顔で同じように走る犬を眺めていて。

 「どこか」
 「今度の週末」
 「週末」
 「はい」

日吉は飴を頬張りながら淡々とそんな事を云う。
ただ復唱するしか出来ない自分をこれ程本気でバカなんじゃないかと思った事はなかった。
もっとこう、いろいろ上手に話をしたいのに。たくさん相槌だって、気の利いた返事だってしたい。
だってすごくすごく嬉しいのに。感情が先走ってちっぽけな自分を置いてけぼりにする。
黙ったままの自分をおかしく思ったのか、日吉がようやくこっちを見た。
そしてそのまま僅かに、分からないくらいの繊細さで眉を上げると、静かに静かに苦笑する。
手に汗握る、とはきっとこういう事なのだ。
自分の身体が自分の力の及ばないところで日吉の一挙手一投足に反応する。
物凄く顔が熱くて、きっと情けないくらい赤面してしまっているのだろう自分の顔をまじまじと眺めた後、
日吉は全くそんな素振りも見せずに顔を寄せ唇をかすめ取った。

 「…」
 「黒糖味」
 「……!」
 「ですね」

何の前触れも無いキスに、どきどきし過ぎてどれだけ自分の寿命が縮まっているか、翻弄されまくっているか、
時折分からせてやりたくなるけど、だけどすぐに思い留まる。この気持ちはやっぱりなんだかもったいなくて、口に出せない。
ベンチから動けない自分の代わりに立ち上がった日吉が犬の名前を呼んでリードを手に取る。
うちで飼っている犬なのに、一緒に散歩している内に扱いが自分よりも上手くなってしまった。

 「ゆっくり行きましょう」

近寄ってきた犬の茶色いふさふさの背中を屈んで撫でながら、後ろ姿の日吉に話し掛けられる。
必要以上に視線を合わせなかったり、顔を見なかったりするのは、実は物凄く照れている証拠なのだと、最近知ったばかりで。
自分は人の気持ちを汲み取るのは苦手だし、日吉は言葉を口に出すのは苦手だ。
そんな不器用で覚束ない、ヘタクソなおつきあいだけど、でも。

 「うん、ゆっくり」

手を伸ばす。さらりとした掌に軽く指を伝わせると、ぎゅ、とそのまま握り込まれた。
繋いだこの手の熱さがあれば、もうそれ以外なにもいらないって思った。

 

□END□

3回目のキスは黒糖味。