口に出さないと。
声に出して云わないと。
だから、お願い。
a
little
最近の日吉は意地悪だ。
どこがどういう風に、なんてきちんと説明するのは難しいけれど、漠然とそう思う。
そりゃあいつだってどんな時だって、ひとつ年上の自分よりも落ち着いていて、憎らしい程に気が利く。
でも、とにかく。そんな気がするのだ。
「……、」
唇が、離れる。
この直後の、自分達を取り巻く空気は、本当にいつまでたっても慣れない。
回数だって何度もこなした。日吉は実はキスが好きだという事は、こういう関係になって分かった。
なんだか意外ででも妙に可愛くて、そしてあんな無愛想な男を可愛い、
だなんて形容してしまう自分の気持ちにうひゃあとなって、それはもう毎日内心色々と忙しいのだ。
「…向日さん」
至近距離、大人びた声で名前を呼ばれる。
それだけで、まるで条件反射のように心臓が跳ね上がった。
この春。卒業して、テニス部を彼らに任せて、高校生になって、更にはこういう関係になって。
もうお前の先輩じゃないからと「先輩呼び禁止令」を強行したのは自分だ。
だっていつまでたっても「先輩」なんて呼び方は、なんだか堅苦しくって味けないと思ったのだ。
そう云い渡した当初、日吉はほんの少し戸惑ったように見えたけど、
初めて彼の口から「向日さん」と呼ばれた時の衝撃といったらなかった。
明らかに挙動不振に陥った自分を見て、名前で呼びましょうか?と苦笑混じりに訊かれたけど、断固拒否した。
あいつの顔で、あいつの声で名前なんか呼ばれたら多分きっとどうにかなってしまう。
もう、そんな事を考えてしまうまでには、自分の中は日吉に浸食されてしまっている。
「…な、なに…」
キスされるたび未だにガチガチになってしまう情けない身体を、
日吉の腕の囲いの中でゆっくりと解しながら、おずおずと返事をした。
駅からの帰り道。家に着くまでの僅かな、街灯の頼りない光すら届かない、人気の無い場所。
この、静かで甘やかで恥ずかしくて嫌になる、大好きな余韻を引きずりながら、目の前の日吉は音も無くそろり、ともう一度顔を寄せてくる。
ああ、またするんだ。
ぼんやりと目を閉じる。肩に乗せられた掌の温度と重みが気持ちいい。
「…」
けれど。
「……?」
いつまでたっても、それは一向に訪れない。
胸の奥でじりじりしつつ、それでも両目をきつく瞑って待っていたら、突然ふ、と肩にあった重みが無くなった。
びっくりして目を開けると真正面、日吉の整った顔が視界に飛び込んできて、一瞬息をするのを忘れてしまう。
「な…っ、んだよ」
ようやく我に返り思わず顔を引くと、整った顔は、この状況にふさわしくないとても真剣な表情のまま口を開いた。
「こういう事するの、いつも俺からですよね」
「…へ?…う、…うん」
馬鹿正直にコクコクと頷くと、真剣な表情は深刻な表情へと変わっていった。
それはとてもとても僅かな変化だったけど、見逃す程自分は鈍感では無い。…と思う。
「ど、どうしたんだよ」
「向日さん、俺の事好きですか」
「すっ……!」
きに決まってるだろ何を今更そんな事訊きやがるんだ!
まで喋ろうとしたのに、頭の中で構築した言葉は全然上手く出てこなくて、結果盛大に頷く事しか出来なかった。
一体全体なんで自分はこういう時、こんなに口下手になってしまうんだろう。普段はうるさがられる程喋るのなんて訳無いのに。
こいつ関連だと特に駄目だ。どうしよう、本当に。
質問に対する自分のその反応を見た奴は、ほんの少しだけ表情を和らげると、じゃあ、と言葉を続けた。
「じゃあ、たまには向日さんからしてくれませんか」
ぽつりと、囁くように。
とんでもない事を。
「ええ!?」
しい、と日吉が人差し指を口許にあてる。
無意識に腕から逃げようとした身体は、目敏い彼によって完璧に包囲されてしまった。
日もとっぷりと暮れ、人が居ないからといってここが外であるという事に変わりは無い。
それなのに。
「なっ…なんで」
「不安なんです」
ストレートだ。
日吉は口数が少ないけど、だからこそ彼が考え、放つ言葉はいつも直接的で、胸にクる。
「気持ちを疑う訳ではないんです。けど」
長めの前髪。暗闇の中ではしっとりと落ち着いて見えるけど、太陽に透けると淡くてすごく綺麗な髪の色。
そこから覗く瞳は真っ直ぐにこちらを見ていて、多分嘘もごまかしも全部見破られてしまうんだろうな、と思った。
分かってる。
最近日吉が意地悪だ、と感じていたのは、
日吉が自分から気持ちをゆっくりと引き出そうとしているから。
上手くリアクション出来ない、想いを伝える事もへたくそな自分から、
辛抱強く時間を掛けて、彼を好きだという気持ちを引き出そうとしているからだ。
「…う」
「駄目ですか」
見上げる。
視線がぶつかる。
駄目ですか、なんて。その手を離してくれる気も無いくせに。
なんだか緩くあまい諦念を噛みしめながら少しだけ逡巡して、ぐ、と靴の底に力を込めた。
三年になった日吉は身長が伸びて、また遠くなった。だけどこういう時だけはすごく近くなる。
互いの距離が、息が触れ合うくらいに、ずっと。
今度はこちらから正面の広い肩に手を置いて、おかしいくらいばくばく云ってる心臓を耳のすぐ傍で感じながら、
そろそろと顔を近づけ、日吉にキスした。
「…」
いつもの感触。
でも、するのとされるのとじゃ全然違う。
心構えとか、緊張感とか、感触とか、温度とか、いろいろ、たくさんのものが全然違う。
日吉もそれを、感じているのだろうか。
タイミングが分からなくて、おそるおそる唇を離しかけると、角度を変えて深く口づけられた。
主導権はあっという間に向こうの手に渡る。唾液の濡れた感触を味わいながら、じわりと頭の芯がぼやけていく。
やっぱりこいつのキスには勝てない。
だけど突然の深いキスの所為で息継ぎが上手く出来なくなってしまい、腕を突っ張り無理矢理顔を離してしまった。
そのまま日吉のブレザーの胸許に顔を埋め、弾んだ呼吸を整える。
「………恥ずかしい、だけだ」
顔が熱い。全然冷めない。
「…ち……ちゃんと好きだから」
我ながら何を口走っているんだと思う。恥ずかしい。ものすごく恥ずかしい。
肩を掴んでいる指は、その影響かぎゅうぎゅうと力が入っていく。多分きっと痛いのに、日吉は何も云わずにいてくれる。
「好きだからな」
本当に、顔から火が出るくらい、しにたいくらい恥ずかしいけど、
それ以上にこの言葉が大切で、それで日吉の不安が無くなるのなら、何度だって云ってもいいと思う。
無言のままで、ぎゅう、と抱き締められた。こうされると近すぎて彼の顔は見れない。
ああ、そういえば自分の方から好きだって云ったのは、これが初めてのような気がする。
声に出さなきゃ、伝えようとしなきゃ相手に分からない想いというのは、きっとあって。それはこういうものなんだろう。
態度だけで理解しろなんて、それはきっと怠慢だ。
日吉は、ずっと不安だったのだろうか。
「…ねだった甲斐がありました」
もぞ、と顔を動かすと、聴こえないくらい小さな彼の本音が耳に降ってきて、たまらない気持ちになる。
自分よりも背が高くて、落ち着いてて、気が利いて、それなのに。
やっぱり可愛いな、と思ってしまった。
□END□