頭の中が、真っ白で。
     感じるのは、自分の鼓動と、吐息と、熱だけ。
     コートにごろりと仰向けになったまま、視界は照りつける白い太陽と透けるような青空を延々と映し続けていた。
     だから、不意にこちらへ伸ばされた手が、日吉のものだと気づくまで、ひどく時間が掛かってしまった。



     どくどくと、せわしなく脈を打つ音しか拾わなかった両耳に、部員達の大きな歓声がぼんやりと戻ってくる。
     地面に触れた背中と肩がなんだかやけに熱いな、と思ったけれど、
     コートに転がった身体はまるで他人のもののような重さで、指先ひとつ、動かす事が出来なかった。
     思考は白く、そして奇妙にゆっくりとしていて、眺めるともなく視界に入った青空を眺めていると、
     にゅ、とそこに一本の腕が飛び込んできた。なんだっけ。身体全体で乱れた呼吸を整えながら、思う。だれだっけ。
     天に向けられていた視線をそのまま腕の根元の方までゆるゆると移動させると、
     そこには太陽を背にした日吉がこちらをじっと、見おろしていた。
     同じように大量の汗を流して、同じように弾む荒い息を肩で整えながら、
     日吉はそれでもきちんとコートに立ったまま、僅かに身体を傾ぐような格好で、こちらに腕を伸ばし続けていた。
      「…向日さん、出ましょう」
     低く掠れた声で呟かれた言葉は、未だ静まる気配の無い部員達の声にかき消され、うまく、聴き取れない。
      「コートから、…そんなとこにいつまでも居たら、邪魔です」
      「…だって、日吉」
     眉を寄せ息を継いで、なんとか懸命に名前を呼んだ。
     声を出すと肺の奥がツキリと痛んで胸のあたりが苦しくなる。
     こちらを見おろしていた日吉が、名を呼ばれた直後微かに俯く。
     その動きで目のあたりまでぱさりと降りた薄茶の前髪がそこに暗い影を作り、奴の浮かべる表情が読みとれなくなった。
      「俺達は、負けたんです」
     日吉は、俯いたままできっぱりと、そう云った。おれたちはまけた。
     その音の羅列が耳から脳へと浸透し、意味を成すまで再び時間が掛かったけれど、
     それを待つ余裕も無かったのか、日吉は唇を噛みしめたまま腕を更に伸ばすと、
     力無くコートに放り出していた手首を掴み、ぐいっと引っ張り自分を立ち上がらせた。途端、視界が揺れてぐるりと全景が変化する。
     ベンチに座る榊監督や跡部の、限りなくポーカーフェイスに近い、けれどごく僅かに中心へと寄せられた眉。
     ジローや宍戸や長太郎は、沈んだ表情で様々な場所に視線を落としている。
     そんな中で、先に試合を終えた侑士だけがこちらを真っ直ぐに見ていて、目が合うとおつかれさん、と小さく口の中で呟き穏やかに笑った。
     その瞬間、真っ白だった頭に少しだけ感覚が戻り、思わず振り返ってボードを見た。ゲームカウント、7-5。
     決然と表示された黒く大きな文字が瞳に焼き付いた。そうか。ぼんやりと、呟く。
     手首を掴んだままの日吉は、空いている方の腕で額の汗を拭いながら、黙ったきりこちらを見ようとはしなかった。
      「そうか、…俺達、負けたんだ」
     カラカラに乾いた喉に張り付いたものをゆっくりと剥がし、声にする。
     それは、剥がれ落ちた途端すとんと、突然胸の奥が空っぽになってしまうような、
     そんな云い知れない気持ちを、口にした自分に容赦無く与えた。

     日吉に引っ張られ、ネットを挟んで立つ乾と海堂の二人と握手を交わした後、ふらふらとコートから氷帝のベンチへ戻る。
     そのまま、日吉と並んで監督の言葉を聞いたのだけれど、その内容は全然頭に入ってこなかった。
     身体中がまだ熱くて、息が全然整わなくて、皮膚から汗がどんどん溢れてくる。
     頭と身体、どちらの意識も未だしぶとくコートの中にあるようで、この場に集中する事が出来なかった。
     かろうじて耳の端に捉えた行ってよし、の声で解放されて、覚束無い足を引きずりながら、
     レギュラー達が並んで立っている場所よりも少しだけ離れた後ろのベンチに腰を下ろした。
     途端、どっと激しい疲労が背後から覆いかぶさってくるような、そんな感覚に全身が蝕まれる。
     あーやばい。もう一歩も、動けないかも。
     後先考えず動くのはいつもの事だけれど、今回は必要最低限の体力すら残さず全力で動き回ったから、
     そのツケが今になってやって来たらしい。妙にくらくらする頭でぼんやりとそんな事を考えていると、
     すぐ隣でどか、と大きな音がして、同じように誰かが腰を下ろす気配がした。
     見ると、スポーツタオルを頭から被った日吉がすぐ傍に座っている。揺れるタオル地の端から微かに覗くすっきりとした鼻梁。
     とめどなく首筋を流れ落ちていく汗をそれで乱暴に拭いながら、日吉は無言で次の試合が始まっているコートを見つめていた。
     こくりと小さく息を飲み、多分、怒っているんだろうな、と予測する。
     練習試合で負けた時のような、あからさまに刺々しい雰囲気では無かったけれど、
     今、二人の間に横たわっているのはあの時よりもっとずっと緊迫した沈黙だと思った。
     あれだけ大きな事を云って、絶対勝つなんて、自信満々に宣言しておいて。
     全国大会、因縁の青学戦をこのダブルスで勝利する事によって、こいつが背負っている重荷を少しでも軽く出来れば、なんて。
     最悪の事態も考えられなかったクセに。
     途端に苦々しい自己嫌悪が押し寄せ、思わず唇をきつく噛みしめた。

     途中まで作戦が上手くいっていただけに、マッチポイントから逆転されたショックはかなり大きかった。
     体力はとうに底をついている。迎え討つだけのスタミナなんてもう無い。
     それでも、勝ちたいと、絶対に負けたくないという強い想いが、懸命に身体を動かしていた。
     けれど、延長戦に突入し点差が少しずつ縮められ、追い上げられていくたびに、その強い気持ちは焦燥感へとみるみる形を変えていった。
     負のイメージは抱いた途端、疲労した全身に毒のようにあっという間に巡り、それに呼応するように身体はどんどん動かなくなっていく。
     ボールを瞳で追いながら、重たくて上がらない脚を必死に動かす。あれだけの距離が、届かない。あと数センチが途方も無く遠い。
     それが一番悔しくて、苦しかった。日吉もきっと同じ想いだったんだろう、自分と同等、それ以上に負けず嫌いな後輩は、
     先に動けなくなった自分の分もフォローしながら、この絶望的な状況に立たされてもなお諦めず、勝ちに行こうとがむしゃらにコートを駆けた。


     □


      「…日吉、」
     気がつけば、ぽつりと名前を呼んでいた。
     何を云えばいいのか、どういう言葉をつなげれば彼を傷つけないで済むのかも、分からないのに。
     隣に座る日吉は、その声が聞こえなかったのか、それとも聞こえないふりをしているのか、微動だにせずただ真っ直ぐに樺地の試合を見続けている。
     後輩よりも先にへばるなんて、ほんっと情けねーよな。お前の云う通り、ペース配分ちゃんとやっときゃ良かったよ。
     頭に浮かんでは喉許に引っかかって、云い出せずに消えていく言葉達。今、こんなにも胸が痛くて苦しいのは、身体が疲れているからじゃない。
      「…ご」
      「先に、これだけ云っときます」
     口にしかけた言葉の内容をまるで見通していたかのように、途中でいきなりぴしゃりと遮られ、驚いて奴を見る。
     やっぱり聞こえてたんじゃねえかと思ったが、強引に会話の主導権を奪い取った日吉は、
     頭に被せてあったタオルを無造作に外しながらゆる、と汗でまとまった髪を揺らすと、ちらりと視線だけをこちらに寄越した。
     すっと筆で引かれたような端正な切れ長の瞳。けれど、いつもその視線に含まれている険しさやふてぶてしさが、そこには無い。
      「なんだよ」
      「あんたが云うみたいに、大好きにはなれませんでしたけど」
     そこで小さく息を継いで、しばらく何か考え込むように黙ってしまう。
     そんな謎の言葉、云いかけて途中で止めるのは無しだぞ、とヒヤヒヤしたけれど、
     辛抱強く続きを待っていると、ようやく云うべき事が決まったのか、日吉は視線だけでなく、
     姿勢を少しだけ正して顔を僅かにこちら側に向けると、そのまま薄い唇をゆっくりと開いた。
      「ダブルスも、まぁ悪くはなかったです」
     早口でそう云って、再びふいと視線をコートに戻してしまった奴を、おそらく自分はすごく間の抜けた顔で見ていたんだと思う。
     なにを。こいつは今、何て云った?思考停止しかけた頭を必死で揺り起こし、ぱちぱちとまばたきを繰り返した。
     お世辞にも息が合っているとは思えない、喧嘩と衝突ばかりを繰り返して、結局試合にだって勝つ事の出来なかった、この、ダブルスを。日吉は。
      「………俺、」
     生意気で、一人が好きで、下手な協調は慣れ合いだとはねつける。
     相手が先輩だろうが、気に食わなければ喧嘩は買うし、踏み込んで欲しくないと思えば容赦無く互いの間に線を引く。鉄壁の線を。
      「…俺も、まぁまぁ悪くないと思ったぜ。このダブルス」
     演武の技には惹かれて止まなかったけれど、
     正直こんな協調性の欠片も持ち合わせていないややこしい奴と組むなんて、絶対無理だと思っていた。
     殴り合って、いがみ合って、けれど氷帝に対する想いと勝ちたい気持ちは自分と同じくらい強いという事が、つき合っていくうちに少しずつ分かってきた。
     自尊心の強さ以上に責任感も人一倍強い奴が、関東大会で敗退したあの時からずっと、己を責め、悔いていた事も。
      「楽しかったし、」
     目映いライトに照らされながら、ひたすら孤独に練習を積み重ね、全国大会というプレッシャーと戦っていた日吉。
     人知れず背負っていた奴の重荷を、負担を、二人で力を合わせ青学に勝つ事で軽くしてやりたかったのに、叶わなかった。
     それどころか、逆転負けという最悪の結果を迎えてしまったというのに、奴は悪くなかったと、そう云った。

     これは、譲歩だ。
     日吉が自分に初めて示す、譲歩だ。

     拳を、握る。痛い程。力を込め過ぎて皮膚が白くなってしまうくらい、強く。
     あくまでもシングルスでの勝利にこだわっていた日吉が、ダブルス専門の自分と組んで、見えたものは一体何だったのだろう。
      「いい試合だったし…、」
     得たものは、何だったのだろう。
      「………っ…」
     自分は、日吉に何かを与える事が出来ただろうか。ちゃんと、何かを示す事が。
     胸の痛みはこの時最高潮になった。試合をしている時よりも痛くて、語尾は震え、声が出なくなる。
     同時に、喉に熱い塊のようなものがせり上がり、正体不明の感情となって自分を身体の奥底から突き動かした。
      「……っ!?」
     正体不明の感情は、涙となってぼろぼろと両目からこぼれ落ちていく。
     突然の涙に一番驚いたのも自分自身で、やばいなんでだ恥ずかしい止めないと。そう理性が焦る反面、身体の方は全然云う事を聞かなかった。
     前に立つレギュラー達は白熱する樺地と手塚の試合に目を奪われているが、すぐ横に座っている日吉には絶対、気づかれている。
     せっかくいい感じに話が出来ていたというのに、これじゃあ全てが台無しになってしまう。
     気にすんな、と慌てて声を掛けようにも、口から切れ切れに出てくる声は小さな嗚咽で全く意味を成さない。
     どうしようと焦っても涙は止まらず、軽いパニックに陥りかけた瞬間、ばさりと乾いた音と共に頭に何かが被さり、いきなり視界が薄暗くなった。
      「!」
     思わず身体を固くしたが、そこから何かが動く気配も無いので、
     意を決しそろそろと手を持ち上げて指先で触ってみる。頭の上に降ってきたそれは、日吉が使っていたスポーツタオルだった。
     これは、もしかして、先輩に対する奴なりの配慮?なのだろうか。視界のきかない薄闇の中で浮かべようとした笑みは、だけど見事に失敗する。
     後悔は、無い筈だ。自分達は最高にいい試合をしたのだから。
     そうすっきりと思っている自分と、何故勝てなかった、どうして動けなかったと責める自分。
     止まらない涙は、その二つの気持ちが葛藤しせめぎ合って、心の中でバランスを崩した結果なのかもしれない。
     そして、負けを受け入れる為自分にとって必要なものなのだと、そう思った。
     規則的に響くボールの音と時折起こる部員達の歓声をタオル越しにぼんやりと聴きながら、両目を瞑る。瞼が熱い。
     日吉は、あれから黙ったきり何も云わなかったけれど、隣に気配はちゃんとある。今はそれがなんだか心地良かった。
     多分きっとこの先も、奴は変わらず慇懃無礼で生意気で、孤高に上を目指すのだろう。だけど。
     天地神明、前言撤回。こいつと組めて、本当に楽しかった。

 

 

     □END□

 

 

     - - - - - - - - - -

 

     Reset/plus

     学校に戻った途端、熱が出た。
     なんかやたら視界がふわふわするな、と思ってはいたのだけれど、
     無視して全体ミーティングに参加したら、ものの見事に意識が飛んだ。
     次に目が覚めたら保健室で、傍らには日吉がついていて、なんだか更に訳が分からなくなった。
     とりあえず上体を動かそうと腕を上げ掛けた途端、左肩の辺りがズキンと鈍く痛む。
      「い…てて…」
      「動かないで下さい」
     ベッドの横に置いてある丸イスから軽く腰を浮かせ、そんな自分を日吉が制する。
     肩を押さえたまま見上げると、奴は微かに眉を寄せ困惑を滲ませた表情でこちらに視線を返してきた。
      「痛みますか、肩」
      「…いや、つかなんで俺はここにいるんだ?」
      「ミーティング中に倒れたんですよ。熱も出てます」
     極度の疲労だそうです。静かにそう現状報告をした後、日吉はカタン、と音を立て再びイスに座り直した。
     疲労って、つまり今日の試合で動き過ぎた反動、という事なのだろうか。
     日吉から告げられた言葉をぼわぼわした頭で整理しながら、動かしても痛まない方の腕を上げ、そろりと額に手をあてる。
     熱冷ましの為か、そこにはひんやりした長方形の白いシートが貼られていて、なんだか微妙にかっこ悪い、なんてどうでもいい事を考えた。
     瞼は多分大丈夫。試合会場から学校に戻る前にこっそり顔を洗ったから、ある程度腫れはひいている筈だ。
      「みんなは?」
      「まだミーティング中です」
      「お前は?」
     何故保健室にこいつが居るのか、先程からずっと純粋に不思議だったので尋ねてみると、
     日吉は酷く心外そうな顔をした後、少しだけ間を置いてぼそりと低く呟いた。
      「……付き添いです」
      「つきそい」
     反復して、その言葉とは裏腹に不本意そうな表情を浮かべる後輩を見比べ、思わず吹き出してしまう。
     突然笑い出した自分に驚いたのか、一体何なんスか、と日吉はやや乱暴な口調でもってこちらを睨んだ。
      「や、だって今日のミーティングのメインが二人共居ないって、おかしいだろ」
     公式試合の後に、学園のホールで行われる全体ミーティング。
     別名反省会は、集まった氷帝テニス部員達の前で、負けた選手が監督及びレギュラー達の厳しい言葉や指摘を真摯に受け止める為に行われる。
     関東大会の時、侑士と一緒に経験したけど正直かなりキツかった。そして今日、試合で負けてしまった自分達に再びそれは訪れる筈だった。
     とはいえ今回は全力を尽くした上での敗北だから悔いは無いと思ったし、覚悟して挑もうとしていたのだけれど、まさかこんな事になっていたなんて。
      「跡部はともかく、今頃樺地が集中攻撃されてんじゃねーか。お前も行って来いよ」
     そんで俺の分も怒られて来てくれ、と結構本音のまざった言葉を後ろに付け足せば、
      「俺はその跡部さんから、あんたについてろって云われたんです」
     むっとした表情を浮かべる日吉にあっさり返された。
     なるほど、部長命令なら確かに納得がいく。だから不本意そうな顔をしていたのか。
     不真面目そうな態度とは裏腹に、本当は人一倍責任感の強いこいつの事だ。
     こんなアクシデントが無ければ、きっと云われなくても怒られに行くつもりだったのだろう。
     口許に浮かぶ笑みが苦笑になってしまうのを抑えられず、ふうんとかなんとか相づちを打っていると、
     日吉はますます怪訝なものを見るような目つきをこちらに寄越した。
     わざわざ付き添った挙げ句、張本人になんでいるんだ、なんて訊かれて。悪かったかな。悪かったよな。
     ずりずりと移動し、枕を挟んだベッドの背あてに上体を凭せ掛けると気を取り直して再び日吉の方を見上げた。
      「だけどマジな話。俺、もう大丈夫だからさ。戻っていいぞ」
      「あんた、38度あるんですよ」
      「へーきだって。もともと平熱高いし。これくらいの熱よく出すし」
      「だからって、試合の後にぶっ倒れるのは初めてでしょう」
     もっともな切り返しにう、と思わず返答に詰まる。
     そんな自分に有無を云わせないよう、日吉はすっと息継ぎをして次の言葉を続けようとしていた。
     汗はもう随分前に引いている筈なのに、試合会場からの帰り道、雨に降られた所為か奴の薄茶の髪の毛は未だしっとりと濡れている。
      「それに肩、かなり腫れてます」
     酷く深刻そうに、俺の所為です、と。
     日吉は微かに俯き、聴こえるか聴こえないかの声音で、すいません、と小さくぽつりと呟いた。
     やや長めの前髪から覗く両目は伏せられ、表情は窺えなくなる。
      「肩……」
     あの時、多分、試合の流れを変えたあの瞬間。
     日吉は諦めかけた自分の左肩に足を掛け、その反動を利用して乾の打ったロブを返した。
     まだ諦めんじゃねぇ、と叫びながら上空に向け飛んだ日吉。
     よく考えればお互いにとって危険極まりないプレイだったけど、あの選択は正しかったと今でも思う。
     左肩のあたりをそっと触ると、湿布が貼られているのかざらりとした感触が、痛みを伴って掌に伝わった。
     この左肩で、日吉の全体重を一時的に受け止めたのだ。
     試合が終わってもずっとこのあたりから熱が引かなかったのは、これが原因だったのか。
      「確かに腫れてんなー」
      「……」
     日吉は黙ったきり何も云わない。
     だけど、先程までは無かった堅い緊張感が奴の全身を包んでいるような気がした。
     もしかして、内心大変な事をしでかした、なんてヒヤヒヤしてたりするのだろうか。
      「気にすんなよ。こんなのすぐ治るんだから」
      「…けど、向日さん」
     弾かれるように顔を上げてこちらを見つめてくる日吉は、なんだか酷く頼りなく、困っているように見えた。
     あ、年相応。思わずそんな言葉が頭の中に浮かぶ。
     先輩に怪我を負わせた、という事実は、多分怪我した自分以上に日吉に重たくのしかかっているのかもしれない。
     なんだかんだ生意気な口を利いたって、下剋上を目指していたって、日吉はひとつ年下なんだ。それはきっと変わらない。
      「大丈夫だって。ほら、ケガノコーミョーって云うじゃん!俺のはまさにこれだ」
      「……」
     合ってるよな、多分。漢字分かんないけど。
     すぐ傍に座っている男は、瞳に少しだけ驚いた色を浮かべこちらを見つめ続けているけど、気にせず笑って喋った。
     熱があるから多少テンションもおかしくなってるのかもしれない。
     だけど、多分これは今、きちんと日吉に云っておいた方がいい事だと思ったのだ。
      「お前があそこで諦めなかったから、俺すごく頑張れたんだぜ。そりゃもーボロボロだったけどさ」
     折れそうになった気持ちは、日吉が叫んだ言葉を聴いた瞬間、確かに再び火がともった。
     身体が追いつかなくて、点差がどんどん開いていっても、気持ちだけは絶対に、この勝負を諦めなかった。
     そうさせてくれたのはペアを組んだ日吉のおかげだ。奴がいたから頑張れた。悔いのない最高の試合が出来た。
      「だから、お前の所為じゃない。責任感じなくていいんだからな」
     お前はもっとふてぶてしく、偉そうにしてたらいいんだ。
     言外に示す筈がついつい弾みで口に出してしまうと、黙って話を聞いていた日吉がそこでようやくひっそり肩を震わせた。
     小刻みに振動する肩口。それでいてずっと俯いたままでいるから、もしかして泣いてるのか?と焦って顔を覗き込んだら、
     上体を微かに折り曲げて、奴はくつくつと噛み締めるように笑っていた。
      「あんたって人は、本当に理解出来ないな…」
     肩を踏み台にされ、見事腫れて熱が出たにも係わらず、怪我の功名だと云って笑う。
     責任なんて感じなくていいから偉そうにしてろ、なんて。どれだけ底抜けのお人好しなんだ。
      「なんだよそりゃ」
     日吉はこみあげる笑いの発作をなんとか抑えながら、
     おそらく先程の奴と同じように、怪訝そうな顔をして視線を送っているであろう自分を、じっと見返した。
      「だけど、……いや、何でもないです。荷物、先に取りに行ってきます」
     しかし、視線はそのまま壁時計の端を捉えたかと思うと、
     日吉は云い掛けた言葉をあっさり中断し、さっさとイスから立ち上がってしまった。
     中途半端に云い掛けて止めるなよと続きの言葉が気にはなったが、大人しくベッドに潜る事にした。
     そろそろミーティングが終了する頃なのかもしれない。多分、日吉がここまで荷物を持ってきてくれるんだろう。
     なんだか使わせてしまって悪い気もするが、ケガノコーミョーだし、戻ってくるまで少しだけ寝ていよう。
     くらくらと熱っぽさが身体の中で存在を主張し始めたので、
     保健室から出ていくジャージ姿の日吉の背中にじゃー後は頼んだ、と一声掛けた後、もぞもぞと上布団を頭からかぶった。
     その後ノブを捻る金属音と、ギ、と扉を開ける軋みが布越しに響いてきたのだが、一向に閉まる音が聴こえてこない。
     不思議に思ってもぞりと上布団から顔を出したら、後ろ姿のまま、日吉は半分程開き掛けた扉の前に立っていた。
     何やってんだ。声を掛けようとして、口を開く。だけどその前に日吉の声が、出そうとしていたこちらの言葉をさらった。
      「…負けるのも、連帯責任も絶対に御免だと、ずっと思ってたんです」
      「……」
      「シングルスなら責任は全部自分に返ってくるけど、ダブルスは他人の感情が絡むから面倒だって。だけど」
     そう云って日吉はすっと振り返ると、こちらを見た。
      「あんたを見てると、そんな事考えてた自分が、ばかばかしくなりました」
     云って微かに笑みを乗せ、浅い礼をこちらに向けた後、日吉はこちらの言葉も聞かずに保健室から出ていった。
     残された自分は、上布団から両目を出したまましばらくぽかんと閉められた扉を眺め続けていたが、
     一方的に残していった日吉の分かりにくい言葉をなんとか解読する内に、またしても無意識に苦笑が口許に広がっていくのを抑えられなかった。
     シングルスしか受け入れられなかった日吉が、ダブルスの試合を経て、見えたもの。
     微かに、けれど確かに変化した気持ち。
     本当に、なんて分かりにくい、素直じゃない、面倒臭い奴なんだ。
     確かにふてぶてしく偉そうにしてろ、とは云ったけれど。そのままごろりと横になって、慣れないかたいベッドに背中を押しつける。
     熱で頭はふわふわだし肩だって痛い。耳を澄ませば、窓の方で断続的に雨が落ちる音が聴こえてくる。
     それなのに、何故か心の中はすっきりと、妙に晴れ晴れしていた。

     

 

      - - - - - - - - - -