あれから向日さんとは、相変わらず喧嘩したりぶつかったりしながら、
それでも何故か一緒に過ごす時間が日々少しずつ増えている。
全国大会準々決勝で因縁の青学に惜敗して、それが事実上中学最後の試合となった跡部部長達三年生は、
着々と自分達二年生に引き継ぎを済ませると九月には正式にテニス部を引退してしまった。
お前が次の部長だ。と、彼に告げられてから半月、未だにこの責務に慣れる事は無く、
不本意だったが樺地や鳳のサポートを受けてようやく大規模な人数を擁する氷帝テニス部が稼働しているという状態だった。
「云っておくが、お前に拒否権は無い」
監督の部屋に呼び出し差し向かいでソファに背中を預けていた彼は、
受けられないと告げた自分を瞳を細めて眺めた後、そう云ってゆったりと脚を組んだ。
「これは部長である俺と、俺達氷帝レギュラーの総意だからだ」
両膝に置いていた拳から、視線を上げる。二年にはこの人お気に入りの樺地だっている、鳳だって。
それなのに、関東でも全国でも勝てなかった自分が何故部長に指名されるのか。
結局、目の前に凛と佇む、氷帝テニス部員200人の頂点に立つこの人を一度も追い詰め引き摺り落とす事すら出来ず、
下剋上を果たせなかった自分が。
「ですが、俺は…」
「お前はもう、学んだだろう?」
「…え?」
自分に対してきっぱりと投げ掛けられた言葉の真意が掴めず、無意識に困惑の滲んだ声で訊き返してしまう。
彼は大理石の机に置かれた紅茶の入った華奢なカップをそっと持ち上げると、優雅にその薄い白磁のカーブに口をつけ、艶然と微笑んだ。
「あいつと組んで、上を目指すだけがテニスじゃないと」
拳に、思わず不自然な力がこもり、それを自覚した途端心の裏側がひやりとした。
思考の片隅に蘇った鮮やかなピンク色の髪の毛。あくまでもシングルスに固執し続けた自分に、
ダブルスの楽しさと可能性を教えてくれた、騒がしく、奔放で、負けず嫌いなあの先輩。
彼とダブルスを組んで、見えていなかったものが沢山あった事に気づかされた。
試合は負けてしまったけれど、その中で得たものは多く、自分の糧になったと思う。それは確かに事実ではあるが。
「しかし、俺は皆を率いていくようなタイプでは…」
「今から完璧にやれなんて云ってねぇよ。形になってくるのは来年だ。それに」
そこで一旦言葉を切りカップをソーサーの上にことりと置くと、
彼は凭れていたソファから背中を離し、改めて自分と視線を合わせた。
整い過ぎた容貌、その両眸から射るように発せられる眼光はまるで凍てついた氷のように見る者の心を刺す。
「与えられたトップが嫌なら、お前が新しく作り変えていけばいいんだ。俺が作った以上の氷帝テニス部をな」
これも一つの下剋上だぜ?そう云って挑発するように口角を引き上げ笑うと、
彼は有無を云わせずその日の内に自分を部長に任命したのだった。
□
「しかし、やっている事は地味以外のなにものでも無いな」
昨年度の予算案や運営報告、そして部員名簿のデータがプリントアウトされた用紙をファイルに挟みながら、
一人ごちたついでにはあ、と溜め息を吐く。本日は部活が休みだったが、
未だ山積みの仕事を片付けるべく下校時間まで教室に居残る予定だった。
放課時間になった後、部室に行く事も考えたけれど、一度こうして机にプリント類を広げてしまうと、
これらを片付けて移動する時間も惜しくなる。本来こういった雑務は樺地に任せてあるのだが、
先週から彼に付き従ってドイツに行っている為、その間は全て自分が処理しなくてはいけない。
せめて部が落ち着くまで置いていけよ。と胸中毒吐いたが、
前部長がそのような配慮の出来るような男で無い事は二年間下にいて身に染みて充分理解している為、
つまりこれは単なる八つ当たりなのだ。必要な書類を選り分け、黙々とファイリングしていると、
廊下を誰かが走ってくる音を耳が捉えた。足音は騒々しく忙しない様子でこちらに向かって近づいてくる。
クラスメイトが忘れ物でも取りに来たのだろうか。視線は用紙に張り付けたままそんな事を考えていると、
ガラ、と勢い良く教室の扉が開く音とほぼ同時に、
「おっしゃ日吉見っけ!!」
大きな声が室内に響き渡った。突然名前を呼ばれ何事かと思い顔を上げると、
開け放たれた扉の傍には見慣れたピンクのおかっぱの、何故か体操服に身を包んだ向日岳人が息を切らして立っていた。
「…なんすか、一体」
「ナンスカじゃねーよバッカ!お前今日体育祭の組分け訊きにくるっつってただろ?」
「…は?」
顔を合わせた途端いきなり罵られ眉を寄せたが、
彼が喚きながら口にした体育祭の組分け、という言葉である事に思い至った。
そうだ、報道委員である自分は、来月行われる体育祭の組分け抽選会について運動活動委員に詳細を訊く予定を本日組んでいたのだ。
身近に居る活動委員がちょうどこの人だったので、これ幸いとばかりに昨日約束を取り付けておいたのだけど。
完全に失念、というよりも既に忘却の彼方だった。
「あ…。すいません忘れてました」
慌てて机の中から記事の下書きの入ったファイルを取り出す。
向日さんはまじかよ〜、と気の抜けた声で云いながら、相変わらず小気味良い軽やかなステップでこちらに近づいてきた。
「記事、あさって締め切りとか云ってなかったか?」
「ですね。今までそっちに充てる時間無かったんで…」
「忙しそうだな〜日吉部長」
にやにやと楽しげな笑みを浮かべつつ、彼は自分の前の席へ座ると身体を捻りをこちらを向いた。
「雑務が少し、面倒なだけです」
ようやく運活委員に対する質問の書かれた紙を見つけ出した途端、ひょい、とそれは正面に座る先輩に奪われてしまう。
視線を向けると、俺が直々に書いといてやるよ、と何故か偉そうにふんぞり返って云われた。
約束を忘れてしまった自分をわざわざ探しにきてくれた上に、時間短縮にまで協力してくれるとは。
明日は槍でも降るのではないだろうか、と警戒する反面、素直に感謝の気持ちも抱いたのだが、
おそらくそれをほろりと口に出したならば、半年以上ネタにされるので黙って軽く頭を下げるだけにしておいた。
「読める字で」
「わーかったよ!ばかひよ!」
ひとしきり悪態をついた後、向日さんは机に置いてあったペンを勝手に使い、
用紙にさらさらと説明事項を書き記していった。その様子をひとしきり見届けた後、
自分もやり掛けていた仕事に戻ったが、気になっていた事があったので手を動かしつつ口を開いた。
「そういやなんで体操服なんですか」
「あー、運活で色々準備してたから」
「体育祭の?」
「そーそー」
本番はまだ二週間以上先だが、氷帝学園は人数、敷地共に規模が大きい為、体育祭の準備期間が長く取られている。
彼が属している運動活動委員会は、生徒会と共に中心となって体育祭全般の指揮をとる為、こうして秋口になると途端に忙しくなるのだ。
「大変ですね、これから」
完成した三冊目のファイルを脇に置き、部員の暫定新名簿を手に取る。
三年生の名前が全て無くなり、一、二年だけになったこれを確認すれば仕事は終わりだった。
早く身体を動かしたいと、切実に思う。
「ん〜、でもまあ身体動かせるし。俺は助かってるかな」
「……」
考えていた事を声に出されたような錯覚に、ふと手が止まった。
名簿から顔を上げると、視線に気づいた向日さんは「ん?」と大きな黒い瞳をこちらに向け、不思議そうな顔で笑った。
気持ちを読む、なんて。そんな事はある筈ないのに、どうやら余程疲れているらしい。
「やっぱさ、今まで授業終わったー部活だーって習慣がついてるから、なんか変な気分だぜ。引退って」
夏が過ぎ、秋が来て。頭では割りきっているつもりでも、正直な身体はついていかない。
本当はあの時の敗北を今も悔い、引き摺っていたとしても、自分達はまた動き出さなくてはいけないのだ。新氷帝テニス部の為に。
しかし向日さんは、そして彼らはそうじゃない。まだコートに居たい、ラケットを持ちたい。
どれだけ願っても、それはもう、この中等部では叶わない。
三年生がぽっかりと抜けた名簿を見つめながら、気づけば静かにぽつりと呟いていた。
「俺は、」
視界の片隅で回っていた向日さんのペンの動きが、緩やかになる。
「跡部さんと、レギュラーの総意だから部長になれと云われて、ほとんど強制で引き継ぎました」
緩やかになって、そして止まった。
「本当はまだ釈然としていないし、納得もいってない。俺は関東でも、あんたと組んだ全国でも勝てなかった」
彼らの引退を早めた一因は、確実に自分にもある。それなのに。それなのに皆、どうして。
「そんな俺に、レギュラーの総意だから部長になれって。訳分かんないですよ」
止まらない。違う。駄目だ。こんな事をこの人に云っても仕方が無いのに。
あの時からずっと内に秘めていた言葉は、しかし一度決壊してしまえば簡単に止めどなく口から滑り落ちてしまう。
声に出せば出す程、視界に映っている筈の名簿はなんだか全然意味を成さないものに見えた。
「日吉」
名前を呼ばれ、ピクリと肩が震える。そろそろと視線を上げると、
向日さんが表情から笑みを打ち消し真顔でじっとこちらを見ていた。
その眼差しはしっかりと、そして大人びていて、そういえばこの人は、
自分より年上なのだと何故かこの時当たり前の事実を改めて、認識する。
「俺がお前を部長に選んだ理由は、単純だぜ?一番俺と喧嘩したからだ」
放たれたその言葉に面食らう自分を見て真剣な表情を崩し、にっと勝ち気に笑うと、彼は続ける。
「負けず嫌いな俺と張り合えて、ふてぶてしくて、くそ生意気で、そして絶対勝負を捨てない。だから選んだ」
「……」
「レギュラーの総意っていっても、みんな色んな理由でお前を選んでるんだ。
納得いかねーならそれぞれにちゃんと理由訊いてこい。それでも納得いかなかったら俺のとこへ来い」
「…どうするんすか」
訊きながら、なんとなく答えは分かっていた。分かっていたけど聞きたいと思った。
向日さんはその質問を受けて、ペンを持っていた左手でぐ、と拳を作るときっぱりと告げた。
「殴って云う事きかす」
そしてまた、準レギュラーのコートのような出来事が繰り返されるのか。
あの時の、真剣にどうしようもなく仲の悪かった自分達を思い出してブ、と吹き出してしまった。
「お前なー!せっかく人がいい話してんのに!」
左の拳はそのままに、怒り出す向日さんにすいません、と笑いで上擦る全然反省してない声で告げて。
ダブルスのオーダーが出た時は本気で絶望して、あれだけ顔も見たくないと思っていた先輩だったのに、
何の因果か偶然か、気づけば数ヵ月で慣れてしまった。自分の抱く印象や想いが、どういう方向に転じて変わるかなんて、
本当は自分自身でも分からないのだ。その時が来なければ。それなら。
「…分かりました。納得しときます。とりあえず、もう喧嘩はしたくないんで」
その言葉に、一瞬肩透かしを喰らったようにきょとんとした表情を浮かべていた向日さんが、
ゆっくり笑顔になっていく。氷帝200人のトップに立つ。それには覚悟が必要だし、とても時間が掛かるだろう。
それでも、自分が部長としての自分に納得がいくまで、その時が来るまで、彼の言葉を信じてみようと思った。
全国大会準々決勝、自分達の試合が終わりベンチで人知れず涙した、最後まで氷帝レギュラーであり続けた、彼を。
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