時間にすればたった5分。
     もっと短いかもしれない。たったそれだけ。
     それだけの時間で、感じるもの聴こえるもの目に映るもの何もかもが全部、変わってしまうなんて。

     こんなにも特別になるなんて。




     
no reason



     
もともとこの日は朝からついていなかった。
     タッチの差でいつも利用する電車に間に合わなかったり、
     早朝練習には間にあったものの僅かな時間のズレの所為で、
     自分の中であらかじめ予定していた物事がスムーズに流れなかったり、
     前日きちんと予約してあった筈の準レギュラー専用コートが、既に使用されていたり。
     こういう不満は滅多に表情へ出さない日吉も、たて続けに重なる小さな不運に思わずひそりと眉を寄せた。
     しかもコートを使用している二人が、正レギュラーの芥川慈朗と向日岳人、であったり。

     (なんで正レギュがこっちに来ているんだ…)

     ちらちらと、控えめに投げかけられている準レギュラー部員達の視線を颯爽と無視して、
     楽しそうに試合をしている二人を、同じように距離を取って眺めながら日吉がはあ、とため息を吐く。
     三駅分走ったお陰で筋肉は解れ身体は充分に温まっている。別に無理に代わってもらうような事もしたくない。
     そもそも相手があの先輩二人なのだ。

     (巻き込まれたくない…)

     それが正直な気持ちだった。
     氷帝テニス部が毎日行っている早朝練習は、用意されている簡単な基礎メニューを下敷きにして、
     それ以外は各部員が自分に合わせたメニューを組み入れるという自由度の高いものなので、終了時間も各々で自由に設定する事が出来る。
     練習を切り上げる事に決めた日吉は早々にコートから出ると、うっすらと浮かんだ首筋の汗をタオルで拭いながら、準レギュラー用の部室へ向かった。



      「そっかー。だから朝居なかったんだな先輩達」

     昼休み、連絡プリントを教室まで渡しにきた鳳が、扉に肩を預けるような格好でうんうんと一人大げさに納得している。
     束になっているズシリとぶ厚いそれを両手で受け取りながら、日吉がプリントに記されている文面に視線を落としたまま、口を開いた。

      「向こうのコートの方が、広いし数も多いんじゃないのか」
      「うん、でも今日は練習試合してたからなー。試合中に空いてるコート使うとプレイヤーの気が散るって跡部部長に」
      「追い出されたのか…」

     正レギュラーの中でも一際騒がしい二人がまとめてこちらに来ていた理由が、ようやく分かった。
     微かに刺を含んだストレートな物言いに対し、まあ多分そうだと思う…と穏やかに言葉を濁し苦笑を浮かべる鳳を、
     日吉は少しだけ冷めた瞳で見つめた後、くるりと背を向けた。

      「これ、部活の時全員に渡しておけばいいんだな」
      「ああ、うん、よろしく…!」

     分かっている。
     一番偉いのは正レギュラーだ。彼らは氷帝テニス部の頂点なのだ。
     悔しいが自分はまだその域にも達していない。
     だから、練習を邪魔されようが雑用を押しつけられようが仕方の無い事だし、黙ってやるだけだ。
     それは痛い程分かっている。
     けれど。
     心の奥でそっと毒づく。

     全くどいつもこいつも。

     彼の不機嫌は、時間が経つにつれ深くなっていくのだった。



     そして、放課後。

      「失礼します」

     正レギュラー専用部室の扉を開け、中に居た人物を捉えた日吉は、瞬間、心の底で静かに怯んだ。
     部屋の奥、設置されたソファに寝転がって一人雑誌を読んでいた岳人が顔を上げ、おっと声を発したからだ。

      「日吉じゃん。どうした?」

     苦手だ。
     口を噤みかけたが用件を思い出し、私情を頭の隅に寄せたまま速やかに述べる。

      「プリント、余りが出たので持ってきました」
      「なんだよーお前の事だからてっきり道場破りだと思ったのによ」

     つまんねえな!と一人勝手にそんな事を云いながら、岳人がソファからぴょん、と飛び起きた。
     同時にスプリングの音が耳に散る。ユニフォームに着替えているのだから早くコートに行けばいいのに。対する日吉も勝手な事を思う。

      「アレだろ?えーと…下克上!俺はいつでも受けて立つぜ!」

     くるくるとめまぐるしく変わる表情。
     いつだって元気が良くて、明るくて皆に好かれて。
     自分とは正反対の。
     だから。
     正直、誰よりも苦手だった。

      「俺はシングルス狙いですから」
      「から?関係ないだろそんなの」

     無理矢理会話を断ち切ろうとする日吉を逃がさないように、立ち上がった岳人が腰に手をあてた格好で見上げる。
     少し機嫌を損ねたような表情。オーバーアクションで話す為、切り揃えられたピンク色の髪が動くたび小刻みに揺れた。

      「要は実力だしな。やってみないと分かんねーし、それに」

     トン、と爪先で床を軽く蹴る。その勢いで跳んだ岳人が日吉のすぐ傍まで、ぐんと近づく。
     好戦的な笑みを口許に浮かべ、大きな瞳で射るようにじっと相手を見つめた。

      「お前みたいに上ばっか見てると、いつか足許掬われるぞ?」

     日吉は無言のまま、自分より小柄な先輩を静かに見下ろす。
     彼の云う事はもっともだと思う。
     それなのに、彼の放つ言葉を素直に受け入れられない。
     何故。どうして。図星を突かれたから。いや、自分でも気づいていなかった焦りを云い当てられたから。
     よりによって苦手な相手に。頭は冷静だ。ひどく冷静で落ち着いているのに、どうしても感情がついていけない。認められない。
     そして、そんな自分に対し苛立っている筈なのに、いつの間にか攻撃対象は目の前にいる彼に知らず移っていた。

      「なーんつって!ま、俺らも忘れんなって事だよ」
      「……に、…何が分かるんだ」

     バラバラッと不規則に落下しては床に白く散乱していくプリント。
     拾えなかったのは、感情がこぼれ、呼応するように小さく震え出した両拳を、懸命に握りしめたからだ。

      「え?」

     不思議そうに顔を覗き込む岳人の細い肩に、日吉の指がきつく食い込む。
     その勢いに驚き、痛みに思わず顔をしかめた岳人が視線だけを上げる。そこには、見た事の無い後輩の顔があった。

      「正レギュラーのあんたに、一体俺の何が分かるんだ…!」
      「……」

     なにか。
     時間が止まったように感じた。
     なにか云わないと。
     日吉の顔が、とても近かった。
     なにか。
     正面に見える苦しげな表情。足掻いて、焦って、それでも届かない相手に対しての。
     その真剣な両眸に引きずられ、考えがまとまらない内に開こうとした岳人の口に、突然唇が重なる。

      「…っ!?」

     最初、ヒヤリと触れた温度の低いそれが他人の、日吉の唇だと分からなくて、
     自分が何をされているのかも分からなくて、間抜けにもじっと固まった状態で受け入れてしまったが、
     呼吸をしていない事を思い出し、ようやく我に返る。しかしそれよりも、日吉が正気に戻る方が先だった。
     彼は岳人の肩を掴んでいた両手を、まるで突き放すように引き剥がすと、悄然とした表情のまま黙って見下ろしている。
     対する岳人も、微かに驚きの混ざった大きな瞳で、今起こった出来事が理解出来ないというように、茫然と相手を見上げている。

      「…」
      「……」
      「………な、」
      「すみません」

     え?と聞き返すより早く、日吉は踵を返し部室の扉を開いた。
     すみません。目も顔も合わせずに、それだけをもう一度呟くように云って、扉は閉じた。
     唐突に訪れる静寂。途端に全身を襲う脱力感。
     まるで局地的な嵐にでも遭ったように、プリントが散乱した床の上へ、ずるずると岳人が座り込む。
     弁解もいいわけも無く、本当に何も無く、ただ謝罪だけを一方的に残していった日吉のキス。

      「…キス……か?」

     思わず疑問を抱く程、良く分からないタイミングで交わされたそれは、本当に嵐のようだった。



     同じ頃。
     扉の外で、その嵐を起こした張本人も、口許を片手で覆ったままその場に佇んでいた。
     たった、数分間の出来事が現実感の無い夢のようで、未だに信じられない。
     それでも、唇の感触はきちんとリアルに存在して、それは自分のしでかした事を決定づけていく。

     どうして。

     頭の中で原因を探すが、あの時の唐突な行為の裏に何も無い事を、日吉は知っていた。
     一番近い感情は衝動。岳人にキスをする理由なんてひとつも無かった。それなのに何故。

      「………」

     考えても全く埒が明かない事を悟った日吉は、早足で扉を後にした。
     自分の靴音を聴きながら、次に彼に会った時の対応を必死で考える。
     しかし考えれば考える程、靴音よりも自分の胸の鼓動が大きく、強くなっていく。
     そのまま階段を降り、走ってテニスコートへ向かった。耳にあたる風がやけに冷たかった。






     □END□