自分達をとりまく全てが邪魔だと感じた時。
互いの身体の隔たりさえ、我慢出来ない時。
ひとつになりたい時。
こういう時、きまってどうすればいいのか分からなくなって、たまに二人で途方に暮れる。
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「メール、届きましたか。先に帰ってくれっていう…」
薄暗闇の夜気に包まれた中等部の正門で小さく佇んでいる岳人を見た瞬間、
まず最初に自分の連絡ミスを疑った日吉が開口一番声に出したのは、そんな言葉だった。
門の白い石柱に背をもたせ掛けてこちらを見上げた岳人は、うん。と赤い鼻を啜りながらゆっくりと頷いた。
「だったらどうして…身体、冷えてるじゃないですか。向日さん…」
小走りで彼の許へと辿り着いた日吉は、
素早い動作で自分よりも一回り小さな手を取り、体温を確かめる。
「うん」
「うんじゃないでしょう。遅くなるから、帰ってくれて良かったのに」
「だって、俺最近ずっとお前の顔見てない」
返事に詰まり、困った顔で見下ろす日吉を、更に困ったような、そして僅かに不満そうな顔で岳人が見返す。
確かに、しばらくずっと会っていなかった。
携帯電話越しの声やメールの文字ばかりで、顔を見ない日々が続いてしまったのは、
日吉が運悪く文集委員のクジを引き当ててしまい、この時期卒業を控えたクラスの仕事で忙しく、
また部活の最終引き渡しの件などもあり、学校が終わってからもすぐに帰れなかったからだった。
「だから、お前が良くても俺が良くねーの」
毛糸のマフラーに半ば埋もれた口許でもごもごとそう云って、
鞄を肩に掛けダッフルコートの中に両手を突っ込むと、岳人はすたすたと正門を出ていった。
彼の後を追いかけるように、日吉もまた無言で歩く。しかし歩幅の差から、すぐに二人の背が並んだ。
「…怒ってますか」
横目で相手の様子を窺いながら、覚悟を決めた日吉はそっと口を開いた。
けれど相手は真っ直ぐ前方を見つめたまま、つれなく別に、と返す。心持ち早足だ。
「怒ってるじゃないですか」
「怒ってない」
なんでこの人はすぐバレる嘘ばかりつくんだろう。
想いが通じて、恋人同士という何だかふわふわと捉えどころの無い甘い名前の関係になって
(とはいえ何かが劇的に変わる訳では無い事も知って)、日吉が彼に対し不思議に思うのは、大抵こういう時だった。
嫌な気がするのではなく、ただ純粋に不思議なのだ。
根が素直過ぎる所為だろうか、岳人は嘘をつくのが壊滅的に下手だった。
それでいて、本人は絶対にバレていないと何故か確たる自信を持っている。
本当に、なんというかこの人は。
優しい諦めと共に白いため息を吐くと、日吉は右手を伸ばし、
隣を歩いている岳人の左ポケットの中へ進入し、冷えた左手を黙って思いきり強く握り締めた。
「わ!」
瞬時に顔を上げ、何するんだ!と大きな目が表情豊かに語ってくるが、日吉は無視して歩いた。
手が冷たいのも怒っているのも怒っていないと嘘をつくのも、自分の所為だと感じたからだ。
「機嫌治して下さい」
「だから怒ってないって…」
「向日さん。嘘をつかれるのって結構きついです」
「……」
しん、と訪れすぐに夜に溶けて混ざる、沈黙。
正門から一般車道に出るまでにたっぷりと植えられた情緒ある銀杏の並木道の中で、
岳人が突然立ち止まる。続いて日吉も歩みを止めた。
左手をポケットの中で掴まれたまま、彼はじっと落ち葉に濡れた黒い地面を見ていたが、ふいに視線を上げた。
「……怒ってる」
「じゃあ、どうすれば機嫌を治してくれますか」
手が冷たくなるまで待っていてくれたお陰で、こうして一緒に帰る事が出来たのだから、
やっぱり嬉しそうな顔が見たい。ほっとするような笑顔が。その為には自分は努力を惜しまないと思う。
そんな日吉の静かで切実な問いに、岳人は俯いてしばらく何事か考えていた様子だったが、良い案が浮かんだのか、
弾かれるように顔を上げると、まばらにぽつんとともる電灯の下以外、闇の色が占めている周囲を注意深くきょろきょろと見回した。
「?向日さ…」
そして、そんな挙動不振な彼に声を掛けようとした日吉は、
岳人の空いている右手によって首に巻いていたマフラーを掴まれ、そして勢い良く引っ張られた。
ぐ、と。
近くなった頬に、岳人の冷たい唇が触れる。
「…」
掠めるようなそれを日吉がキスだと感知するより早く、相手のマフラーをぱっと手離した岳人は、
恥ずかしいのか視線を地面斜め下にずらしたまま、治った。と口の中でぼそりと小さく告げた。
「から、帰るぞ。日吉」
けれど名を呼ばれた男はその場に立ち止まったままで、傍に居た岳人を何も云わずに抱きすくめる。
腕の中でほつれるピンク。持ち主の性格を反映しているその真っ直ぐな髪や、
芯から冷たくなってしまった白い額や柔らかな頬に、鼻先を、そして唇を押しつけ、
向日さん。と静かに低く名前を呼んだ。向日さん。途端小さな身体がビクリと震える。
「…っ、お前な、誰か来たら…っ、ん…」
抱き込んだ胸の中から伸びてきた手に、わし、と乱暴に髪を掴まれたが、無視して唇にキスを落とす。そのまま舌を。
「……っ、ふ…」
侵入する他人のそれを受け入れるだけで強張る小さな背中を、ゆっくり撫で上げる。
ぴちゃ、と唾液の濡れた音が互いの顔のすぐ傍で聴こえるたび、岳人は弱々しく眉を寄せた。
足りない。全然足りない。
もっと欲しい。この人をもっと。
けれど未だ深いキスに慣れず、息が上手く出来なくて、苦しそうに首を振り始めた相手から唇を離し、
ようやくその両腕から解放してやると、ふらついた足どりで息を弾ませた岳人は慌てて日吉から離れた。
しかし少しだけ逡巡した後再び傍に来て、自分よりも広い後輩の肩に、上気した赤い顔を黙って埋める。
その時。タイミングを計ったようにぱら、と雪混じりの冷たい雨が、紺色の湿った上空から黙ったままの2人に落ちてきた。
「…降ってきましたね。濡れない内に帰りましょう」
「俺は帰るって、云ったぞ」
「すみません」
本当に恥ずかしいヤツ!と一人怒りながら、それでも岳人は日吉の傍から離れようとしなかった。
□END□