no patience



      「…よし」
 
     「……」
 
     「…ひーよーし…」
 
     「……なんですか」

     すぐ間近にある薄茶の髪に指を絡ませ、ゆっくりと引っ張る。
     囁くような声とささやかな痛み。
     それに反応するように、シーツの中で日吉がくぐもった小さな声を出した。
     ベッドのすぐ脇の棚に乗せてある目覚まし時計は、もう30分も前に鳴っている。
     それを足で蹴って二度寝をして(普段こんな事をすると日吉に怒られるので、彼が眠っている時前提だけれど)、
     そういえばこいつ、今日一講目入ってるって云ってなかったっけ、
     と半覚醒の頭で思い出した岳人は、いたずらに指に絡ませていた髪を解き、ゴソリと上体を起こした。

      「学校…遅れるぞー」

     閉め切ったカーテンの隙間から細く漏れる淡い光。春先とはいえ、まだ朝は寒い。
     何も着ていないならなおさらだ。薄暗い朝の、冷ややかな粒子を含んだ空気に、出した腕、表面の皮膚がそっと震える。
     そのまま岳人は大きなあくびをひとつした後、ベッドの上に両膝を立てて体育座りの格好になると、
     両肩を竦め小さな身体を丸めて、もぞもぞと遠慮無く上布団をたぐり、自分の方へと引っ張り寄せた。
     その所為で、未だ横で眠っている日吉の、広い背中が露わになる。

      「日吉ってば」
 
     「…休講になりました」
 
     「嘘つけ。そんなの云ってなかったじゃん」

     きれいに均整のとれた肩胛骨と、周囲の筋肉が、く、と静かに隆起する。
     微かに身じろぎした日吉が片方の腕を伸ばして、岳人の立てた両膝に掌を乗せたのだ。

      「メール、きてたんですよ。あなたが眠った後に」

     云いながらそろ、と薄い膝頭を撫でた掌は、
     傍にあった岳人の指に移動し包むように軽く握って優しく触れた。

      「…ふうん。でも、もう起きちゃったからな。俺」

     しかし岳人は慌てて握られた手を振り解く。
     こういう事をした後、すぐ日常に戻りたがるのは岳人で、その逆が日吉だった。
     照れや恥ずかしさがどうしても先だってしまい、雰囲気に浸れない。そんなの自分のキャラじゃない。
     かつて岳人は何度もそう主張して甘い余韻を消そうとしたが、相手はけしてそれを許してはくれなかった。

      「まだ早いでしょう」

     いつもより眠たそうな、少しだけ甘い声。
     元々寝起きが良く、その為今朝も既にすっかりと目が冴えてしまった岳人だったが、
     寝転んだままこちらを見上げる眠そうな日吉の表情がなんだか幼くて、妙に可愛いと感じてしまった。

      「駄目。お前も起きる」

     ぐらつきそうになる気持ちを吹っ切るように、わざと大きな声でそう云うと、
     わしわしと薄茶の髪を掻き混ぜて、相手の端整な顔を崩してやる。しかし相手は周到で、
     伸ばされたまま傍に潜んでいた腕であっさりとその手首を掴み、シーツの中に引きずり込んた。

      「おわ!」

     形勢逆転。そんな得意気な表情を瞳の奥に覗かせながら岳人を組み敷いた日吉が、
     先程相手にされたようにピンクの髪の毛を大きな掌でゆっくりと掻き混ぜ、顔を近づける。

      「駄目。向日さんも寝る」

     わざと同じ言葉をなぞり口許に笑みを乗せたまま、露わになった額にキスを落とし、
     そのまま頬に下った後、文句を云われる前に唇を塞いだ。いつの間にか主導権を奪われ、
     今まで眠っていた相手に軽々と先手まで取られた岳人は、彼の身体の下で軽く脚をばたつかせて暴れるが、
     本気ではない事をお互い知っている為、日吉も無視して口づけをより一層深くしていく。

      「…っは、」

     絡み合ってゆるゆると口内を刺激する舌は、濡れた熱さで再び岳人を甘い余韻に引き戻そうとする。
     そんな遠慮の無いキスに、次第に息苦しくなり首を弱く振って抵抗を示すが、
     湿った吐息と共に下唇を甘噛みされて、身体の芯からビクリと震えた。

      「ばか…やめ……っ」

     存分に中を味わった舌が出ていき、ようやく自由になった口で制止の言葉を投げつけるが、相手は全く意に介さず浮いた鎖骨に唇を落とす。

      「やめません」

     きっぱりと云い放たれ、岳人がこくんと息を飲む。気づけば喉がカラカラだった。
     押し戻そうと肩を掴んだ筈の手は、その間も全身に落とされる丁寧なキスによって、指先からずるずると力が抜けてしまう。
     温度の低い乾いた掌が腹部を撫で上げ、呼応するようにゾク、と肌が粟立つ。
     けれどそれよりも全身を包む気持ち良さとくすぐったさで、思わず笑い声が漏れてしまった。

      「ひーよーしー!」

     押し戻そうとしていた両手を肩から外すと、岳人は一度ぱたりとベッドの上に腕を投げ出したが、
     すぐにそれを伸ばし、名を呼ばれ顔を上げた彼の首に絡めて自分から抱きついていく。
     こうされると密着し過ぎて日吉はキスが出来なくなる。
     少しだけ不本意そうに、けれどされるがまま抱きしめられている相手の頬に、今度は岳人が軽くキスをした。

      「腹減った」

     そんなムードの欠片も無い言葉に、日吉も薄い胸の上でくすりと笑う。
     ひとしきり二人で笑い合った後、ギシリとスプリングを軋ませ彼は結局岳人を解放した。
     これ以上誘っても効果は無いと踏んだからだ。それにこんな健康的な台詞を云われてはこちらの気も抜けてしまう。
     本当はずっとこの小さく温かな身体を抱いて眠っていたいが、だからといって無理強いもしたくない。

     けれど。

      「…起こした責任は、朝飯で取って下さい」

     これくらいの我侭は許されるだろう。

     ベッドから降りて立ちあがった日吉はそう云って振り返り、
     嫌そうな顔をしている岳人に対し、みそ汁は豆腐とワカメがいいです。と更に言葉を追加して、笑った。






     
□END□