スパイラル



     向日さんと喧嘩をした。

     否、喧嘩をしている。といった方が正確かもしれない。現在進行形で未だその状態は続いているからだ。
     主だった原因はもう良く覚えていない。おそらく向日さんもそうだろう。
     いつも、後から冷静になって考えてみると、
     こんなくだらないものが火種になっていたのか、と自分達でも呆れてしまうものが数多いからだ。

     終わりそうも無い沈黙の底の中で、正面に座る向日さんをちらりと盗み見た。
     何かをひたすら考えている時のクセである、大きな目を少しだけ痛そうに細めた表情で彼は頬杖をついている。
     視線は窓の外らしかった。今にも雪の降りそうな暗い曇天。向日さんが高校生になって、けれど自分は中学生のままで。
     環境が少しだけ変化し、どうしても今までと同じとはいえなくなった。時間がずれて、会えない日も多くなっていったから、
     自然帰りの時間を互いに合わせるようになった。どちらかが提案するでも、示し合わせるでも無く、
     けれどそれはいつの間にか二人にとって沈黙の習慣となり、当たり前になっていった。
     そして帰り道は、9割方向日さんの気まぐれと思いつきで本屋やレンタルビデオ屋を中継したり、
     学園と主要道路に出る交差点との間にあるファーストフード店に目的地を変更したりする。今日の寄り道ルートは後者だった。
     喧嘩をしたのは確か三日程前だった筈だ。だから一昨日の午後から昨日一日は顔を見ていないし、
     弾む声で掛かってくる電話越しの声も、文字の羅列の筈なのにまるでそこから人柄がにじみ出ているようなメールも、音沙汰が無かった。
     静けさを愛する自分としては落ち着きを取り戻す事の出来る有り難い状況である筈なのに、この二日間全然落ち着かなかった。

     そして今日、どこか重たい気分で校舎を出ると、校門の所にやたら目につくピンクが見えたのだ。
     一瞬目の錯覚かと思い、疑心暗鬼でゆっくり近づいてみると、
     次第に小さかったそれは大きくそして明確になり、最終的に目につくピンクはふてくされた向日さんの髪の毛になった。
     こちらに気がつくと、よ、と口の中でくぐもった半端に小さな挨拶を呟く。
     それを受けて自分も何かを云おうと頭の中で三日ぶりの言葉を組み立てていたのだが、
     それよりも早く向日さんはくるりと振り返り、小さな背中をこちらに向けてすたすたと勢い良く校門を抜けて歩きだした。
     結局何も云う事が出来ず、それでも黙ったまま同じようにすぐ後ろをついていきながら、彼の行動の真意を考えていた。
     喧嘩の続きをしに?謝りに?ただ会いに?分からない。
     性格からいって一番最初の考えが一番近いような気がするが、だとしたら会った瞬間文句をふっかけてくる筈だ。
     実はそれは何度か経験済みである。けれど今回会った時の反応はいつもと全然違った。
     考えが読めないな、と少しだけ眉を顰めると、急に何かを思い立ったのか、
     前方を歩いていた向日さんのまっすぐな姿勢のいい背中がぴたりと止まる。

      「日吉、時間あるか?」
 
     「…はい」
 
     「なら何か食おう」
 
     「…はい」

     そして舞台はいつものファーストフード店になった、という訳だ。
     注文を終え、混み合う時間帯から運良くずれたのか人気のまばらな店内左の角テーブル、
     気づけば二人の指定席になってしまった場所に今回も落ち着く。こうしていると何も変わった事は無いみたいだ。
     けれど、いつもならこの席に座るのももどかしいくらい賑やかに喋り始める向日さんは、
     今日はじっと黙ったままで、考えが、想いが上手く、掴めなかった。
     元々自分も口数が多い方では無いから、正直こうして二人で居る時の会話は向日さん任せだった。
     彼が話題の発端になり、自分がそれを展開していく。
     当たり前のように行っていたそれは、向日さんあってのものだったのだと心の中でこの時痛感した。
     沈みそうな重たい沈黙を破るように、タイミング良く店員が現れ注文の品を机上に並べていく。
     向日さんは何か食おうと誘ったにも関わらず珍しく飲み物だけで、
     しかも自分の前では今まで一度も興味を示した事の無いアイスコーヒーを頼んでいた。
     この人コーヒー飲めるのか、この時期にアイスコーヒーとは豪気だな。
     と取り留めの無い妙な感心をしながら自分は湯気のたつカフェオレの入ったマグカップに口をつける。
     向日さんはコーヒーにミルクとガムシロップをたっぷり入れ、手にした色つきストローでがらがらと中をひとしきり撹拌すると、
     満足したのかようやく飲み始めた。飲みながら、片手でごそごそと隣に置いた鞄の中を探っている。
     相変わらず忙しい人だな、とぼんやりその様子を眺めていると、目の前に突然にゅっと、薄い黄色の袋に入った四角い物体が現れた。

      「…?」
 
     「CD。お前に貸すって云ってただろ」
 
     「あ…。ありがとうございます」

     乱暴に突き出された手の中からそれを受け取り、ひとまず礼を述べる。
     気に入りのCDを貸してくれる、という話は喧嘩に発展する前の話題、だった筈だ。
     本当に、一体どこから会話がズレていってしまったのだろう。
     CDの入った袋を丁寧に自分の鞄の中へ収めている途中、なあ日吉い。と少しだけくたびれた感じの声が聴こえた。
     顔を上げると声の主である向日さんは、ぐるぐると指先でグラスに入ったままのストローを弄びながら、ちらりと視線だけをこちらに寄越した。

      「俺、なんでか分かんないんだ」
 
     「…何がですか?」
 
     「なんであの時あんなに怒ってたのか」

     云って、向日さんは俯いていた顔を少しだけ上げる。視線だけだったそれが、きちんと向き合う形になる。

      「すげえ怒ってたんだよ。もう口きかねえって、顔も見たくねえって」
 
     「云いましたね」

     捨て台詞のように。もっともそれらは彼が喧嘩をして激昂した際投げつける定番の言葉なのだが。
     ぐるぐるとせわしなく動いていたストローの速度が次第に落ちてゆっくりになり、そして止まる。

      「…でも分からなくなった」
 
     「だから俺に会いにきたんですか?」
 
     「なんで、喧嘩になるんだろな」

     向日さんは心底不思議そうな顔をして首を僅かに傾げながら、そんな疑問を口にした。
     おそらく原因は数あれど、なかなかに答えにくい質問だ。
     それを真正面からぶつけられ、それでも無言で頭の中から適切な言葉を探し出す。

 
     「なんで、俺はお前が好きなのに」

     喧嘩ばっかりなんだろう。
     耳をよぎった言葉に、一瞬だけ思考が停止した。
     再び顔を上げると、今度は心底不思議から心底困った、といった風な表情を浮かべている向日さんとしっかり目が合った。
     正直、驚いていた。いつもは絶対に、頑なに自分の気持ちを隠したがるクセに、そんな彼がこんな風にサラリと好きだと云ってのけた事に。
     それだけ真剣に、この問題について悩んでいる、という事なのだろうか。

      「向日さん、これは俺の見解ですが」

     好きだから、喧嘩になるんじゃないでしょうか。
     向日さんがきょとんとした顔でこちらを見つめている。
     自分で云っておきながらかなり疑問点の多く残る回答だったが、無視してそのまま続けた。

      「多分、互いが互いに融通がきかな過ぎるんです。
 
     相手に何の関心も無かったら喧嘩してまで無理に自分の気持ちを突き通そうとはしません。でも」

     分かって欲しいから、接触する。
     拒まれても、摩擦が起きても、それでも。だから。

      「向日さんは俺の事が好きだから」

     瞬間、臑に強烈な蹴りが入った。同時にドカ、と派手な音がして机が僅かに浮き上がったような気がした。
     どうやら向日さんがこちらに蹴りをくれた後、脚を戻そうとして勢い余って机のスチール部分にぶつけたらしい。

      「さっき向日さんが云ったんじゃないですか、自分で」

     座っていたソファにしがみつき、俯き無言で痛みに耐えていた向日さんがその言葉に顔を上げ、小声で怒鳴り返す。

      「云った!けど繰り返すな!恥ずかしいだろ!あとなんか俺だけ好きみたいに云うな!」

     あくまでも小声で、しかし凄い剣幕でそこまで喋り終えると、
     向日さんは机上に置かれたグラスを掴み、残っていたアイスコーヒーを一気に飲み干した。
     くるくると面白い程変わる表情、いつまで見ていても読めない行動、そして言葉。

      「好きですよ」

     無意識に、口から出ていた。云ってしまった直後、襲った羞恥に少しだけ後悔したが、
     ぎゃーばか!!と何故か云われた向日さんの方が更に軽いパニックに陥っていたので、結局その後悔はうやむやになった。
     こんな小さな諍いはお互いにとって日常茶飯事だから、すぐに忘れて気がつけば深め合って結局は上手に乗り越えている。
     もっと怖いのはきっと別の事だ。喧嘩なんかじゃない。
     けれど。

      「俺も。ちゃんと」

     言葉をゆっくりと付け足しながら、温くなってしまったカフェオレを口に含む。
     けれど、この気持ちとこの言葉があるなら、それをちゃんと伝える事が出来るなら、大丈夫だ。
     舌には苦みだけが残ったが、何故か気持ちは清々していた。向日さんはまだ、怒ったままだった。






     
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