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「お前なー、ついてこなくってもいいんだぞ」
犬と一緒に三歩前をてくてくと歩きながら、岳人が振り返って云う。
「大丈夫です。夕方だし、薬飲んだし」
白いマスク越し、後ろを歩く日吉が、
薄手のコートのポケットに両手を突っ込んだまま少し鼻声でそう返す。
ぼんやりとした春の夕暮れの中、薄淡い茜色に包まれた人気の無い公園を二人と一匹は歩いていた。
向日家では朝は両親が、夕方は兄弟が交代で飼い犬の散歩を行うのが日課となっているので、
本日散歩当番にあたっている岳人がこうして自宅近辺の公園を歩いているのは、別段おかしな事ではない。
しかしそんな自分の後ろを当然のようについてくる男が、岳人にとっては少し問題なのである。
「大丈夫って、」
「気にしないで下さい」
とか云いながら眼鏡のレンズから覗く瞳は微かに潤んでいる。かゆいんだろー!絶対かゆいんだ!
岳人は、授業中たまに掛けているのだという余り見慣れない眼鏡姿(こうするだけでも花粉の侵入を防げるのだそうだ)
の日吉をひやひやしながら見上げつつ、早く切り上げるからさっさと帰れよ!と繋いでいたリードを犬の首輪から手早く外した。
しかしその直後、いつの間に距離を縮めていたのだろう、背後を歩いていた筈の日吉にぐ、と手首を掴まれる。
「嫌です。久しぶりに顔、見たのに」
岳人はぎょっとして後ろを振り仰いたが、マスクで顔が半分程隠れてしまっている正面の男の表情はよく分からない。
高校生になって最初の春休み、日吉は微妙に毎年アレルギー反応を示していたらしいスギ花粉に、とうとう本格的に煩わされ始めた。
初めの頃は興味本意からそんな彼をからかったりしていた岳人なのだが、次第に見ているだけでもつらくなってきて、
最近では、どうして自分は花粉症にならないんだろうと深刻に考えるようにまでなっていた。
同じ場所に居て、日吉はこんなにもつらそうなのに、自分はあっけらかんとしている。
そんな不公平な状態が続けば続く程、なんだかどんどん申し訳なくなってきたのだ。
とはいえこればかりは申し訳なくなってみたころで、どうする事も出来ないのだけれど。
今はだいぶ時期が過ぎたが、花粉が一番飛散したピーク時でも、彼は大丈夫ですの一点張りで平静さを貫き通した。
だけど明らかに大丈夫じゃない。口には出さないがしんどそうなのは見ればすぐに分かった。
だから春はあんまり外で遊べないなあと少しだけ残念に思っていたのだが、日吉はのこのことこうして散歩についてきている。
今日だって部活も無い久々の休みだったけれど遠慮して連絡しなかったのに、
いつも岳人が散歩をさせる時必ず立ち寄る公園の前に、何故か既に彼は居たのだ。
実はすごく嬉しかったのだが、直後たちまち心配になり、結局驚いたじゃねーか!という悪態が最初の挨拶となった。
「久しぶりって、部活ん時しょっちゅう見てるだろ?」
お互い高等部のテニス部に在籍しているのだから、去年とは段違いに顔を見て話す回数は増えている。
岳人がしどもどとそう口の中で呟くと、
「じゃなくって、こうやって会うの。最近誘ってくれなかったから」
日吉は掴んだ手首を離さずに淡々と告げる。いつもより少しだけ声が掠れていた。
岳人は日吉のいつもと違う怠さの混ざったその声が結構好きだった。不謹慎かなと思い、口に出して云った事は無かったけれど。
呆然と立ち竦んだまま、岳人はだってそれは…と続けようとして、
きょろきょろと周囲を見渡すと、ひとまず傍にあるベンチに日吉を座らせ自分も隣に腰を降ろした。
犬は誰も居ないのをいい事に、ペンキの剥げた大きなジャングルジムの柵に鼻を寄せたり、
緩やかにしっぽを揺らしたりしながら機嫌良く散策を続けてている。
「だって、お前のそんな顔見てたら誘える訳ねーだろ」
花粉飛び散るこんな時季にわざわざ外へ呼び出すなんて、鬼のような所行、だと思う。
日吉は隣で黙ったままじっと岳人の言葉に耳を傾けていたが、不意に何か喋ろうとして、
しかし鬱陶しかったのか鼻と口を覆っていたマスクを取り去ってしまった。
無造作にもポケットに突っ込もうとしているそれを見て、逆に岳人の方が慌てふためく。
「ぎゃー!お前!花粉!」
「いや、ですから今日は本当にひどくないんです」
薬も効いてきたから。と日吉は云うが、岳人は気が気ではない。
というよりもどうして当人よりも自分の方がこんなに花粉に対し過敏になっているのかも良く分からない。
軽く混乱しかけた頭はぐるぐると渦を巻いたが、あ違う。と岳人はすぐに良く分からないものの正体を見つけた。
違う。こんなにも気になるのは、日吉がつらい姿を見るのが嫌だからだ。
でも日吉は大丈夫だと云う。だけど。やっぱりぐるぐるした。
「俺に気をつかってくれるなら、まずちゃんと俺に云って下さい」
シンプルな黒。華奢なフレームに骨張った指を引っ掛けながら、日吉が眼鏡を押し上げる。
追加で、あんたらしくもない、とも云われた。岳人は思わず云い返そうとしたが、
日吉の顔を見た途端ぐっと言葉に詰まってしまう。全然雰囲気が違うから慣れるまで時間が掛かった。
今でもちょっと、どきっとするのも事実だ。
「だってさー…」
「向日さんは、俺に会いたくなかった?」
急に話の矛先が変わって、更にどきっとした。ずるい。
岳人は途端に落ち着きを無くし、しばらくなんだかんだとぐずぐず言い訳をしていたが、
向日さん。と再び呼ばれ、頬に軽く手が触れたかと思うと、強引に視線を合わせられる。日吉の指先は、いつもひんやりと冷たい。
ほんのりと淡い茜色だった空はどんどん深い紫に染め変わり、薄闇に暮れかけようとしていた。
相手からの突然の所作にかちんと固まってしまっていた岳人だったが、
ようやく決心がついたのか、ふる、と小さく首を振って意志を伝える。
会いたくない訳、無かった。
「よかった」
ふ、と軽く息が吐き出される音。
けれど未だ頬に触れる指が解かれないので不思議に思っておずおずと視線を上げると、間近に日吉の顔があった。どきりとする。
「花粉が障害なんて、馬鹿馬鹿しいから」
向日さんはちゃんとワガママ云って下さい。
後半はほとんど吐息だけで、気づけば唇が触れていた。
いつだって突然で、なのにいつも周到なそれに驚いて、
そしていつもより違和感のある角度と視界にくらつきながら、我に返った岳人は首を捻ってぷは、となんとか唇から離れる。
日吉のキスは怖いくらい気持ち良くて、だからここが公園という公共の施設である事を忘れそうになったからだ。
思わず握っていたリードでぺち、と彼の膝を叩き、むやみに外でそういう事をするなと怒ったが、
日吉はすみません、とすまなさそうな素振りが全然見えない謝罪をした。とはいえ機嫌は直ったようだ。
キスひとつでなんて簡単な、と思ったが、よく考えてみると、
家を出る時にはもやもやと確かに存在していた胸の奥の寂しさが、
いつの間にかすっかり消え去っている事に気がつき、岳人はなんだか酷く恥ずかしくなった。
簡単で単純なのは、どうやらお互いさまらしい。
「…っと、とりあえずメガネは障害だと思うぞ」
キスする時ぶつかったからな!と照れ隠しなのか何なのか分からない言葉をぶつけると、
日吉はなら今度は外してしましょう、と眼鏡を指でずらし意味深に笑った。
岳人はそんな事をのたまう彼の膝を、結んだリードで再びぺち、と叩く。
簡単で単純で、互いの事が好き過ぎて、もう本当に、手に負えない。
□END□