いつか春がきたら



     本当の事を云えば、高校の制服を身に纏う彼を見るのは、余り好きではない。
     楽しそうに笑えば笑う程、それは自分にとって果てしなく遠いものに思えてしまうからだ。
     手を伸ばしたらすぐにでも届きそうなのに、流れる時間は残酷な程平等で、彼と自分を引き離していく。
     彼が無邪気に笑う。そのたびになんだか置いていかれるような気がして、嫌だった。
     かといってそんな子どもじみた感情、もちろん云える訳も無くて。

      「ほい、みやげ」

     聴き慣れた声と共にトン、と目の端にペットボトルが置かれる。
     机上のノートに向けられていた意識が不意に途切れ、日吉は顔を上げた。

      「…向日さん」

     刻々と空の色が変化していく冬の夕暮れ、部活が終わり、
     自分以外誰も居ない筈の正レギュラー専用部室に、何故か岳人が入り込んでいる。
     首に巻かれたマフラーを、指先がかじかんでいるのかもたもたと解きながら、名を呼ばれた彼は、よっ、といつもの調子で挨拶を寄越した。

      「…いつ、来られてたんですか?」

     まばたきを何度か繰り返して、本物かどうか、確認をして。
     日吉は突然視界に飛び込んできた人物に少しだけ面食らっていたが、しかしそんな様子を気取られないよう努めて冷静に質問する。
     うかつだった。扉が開く音さえ聴こえないなんて。首から手に移しかえた暖かそうな毛糸のマフラーを間近にあった椅子の背に掛け、
     そのまま日吉の正面となるそこに腰を降ろした岳人は、明朗に答える。

      「ついさっき。お前ぜんっぜん気づかねーんだもん」

     彼の大きな瞳には、してやったり、と楽しそうな色がはっきりと浮かんでいた。
     岳人にしてみれば、いつも全く隙を見せない後輩の、珍しく無防備な面を覗いたようで嬉しいのかもしれない。
     少しだけきまり悪さを感じた日吉は、それをごまかすように持っていたペンを開いたノートの紙面に転がすと、
     先輩からの差し入れである緑茶の入った小さめのペットボトルを自分の方へ引き寄せる。
     あたたかい。
     指先から掌にゆっくりと伝わっていく温もりに、日吉は思わず吐息を漏らした。

      「そういう現れ方も、出来るんですね」

     突然自分に向けられた言葉の意味を取り損ねているのだろう、岳人が不思議そうに彼の方を見る。

      「いつも騒がしい登場の仕方しか、見た事なかったから」

     補足するように告げると、不思議そうだった顔つきが途端に不機嫌になっていった。
     なんだそりゃ、眉をハの字に寄せた岳人がふてくされたように云う。悪かったな、いっつも騒がしくって。
     ひとしきりそのような事をぶつぶつと口の中で呟いていたが、最終的には片手で机上に頬杖をつき、ふい、と横を向いてしまう。

      「っとに可愛くねー後輩だぜ」

     ひとりごちるように小さく呟かれたその言葉を、日吉はしっかりと耳に捉えた。
     ボトルのキャップを捻って開けながら、口許には知らず意地悪な笑みがこぼれてしまう。

      「可愛くない後輩の為に高等部からのご来訪、わざわざどうも」

     正面に座っていた小柄な身体が、途端奇妙に強張る。顔にも態度にも出過ぎ。本当に分かりやすい人だ。
     ぬるくなった緑茶を一口、喉を潤した日吉は持っていたそれを再び机上へと戻し、ペンに持ち換えクルリと回した。
     会いたかったのなら、素直に云えばいいのに、なんだかんだと理由をつけて、岳人は高等部が部活休みの木曜日、
     ほとんど必ず日吉の許にやってくる。本来ならば、この場所は部員及び関係者以外立ち入り禁止なのだ。
     部長である日吉は再三彼に注意を促したのだが、卒業生なんだからいいだろと無理矢理押し通されてしまった。
     卒業生だからって、こんなに入り浸るのはあんただけですよ、と苦言を呈しても聞く耳はもちろん持ってくれない。
     しかし彼にもきちんと分別はあるらしく、部室に残っているのが自分一人になるまでは、けしてここには現れなかった。

      「…あぁ、でも」

     日吉の腕の下に敷かれている、新部長にあてた引き継ぎ内容が膨大に書かれたノート。
     自分の時はそんなものは無きに等しく、分からなかったら樺地に訊けの一言だった。
     それでも何とかやってこれたが余りにも手探り状態だった為、自分の時は必ず控えのノートを作ろう、と心に決めていた。
     練習メニューや試合データなどは部内で使用するパソコンにも保存済みだが、こちらにはもう少し実践的な事が書かれている。
     予算の効率的な割り振り方だとか、部を率いていく為最低限必要な知識、だとか。
     約200名を統率した経験から得たものを、残しておこうと思ったのだ。
     事実上、自分達三年が引退した後からずっと書き記してきた、もう少しでまとめ終わるそれに視線を落としながら、
     思い出したように日吉はぽつりと呟いた。

      「向日さんの騒がしさは、俺、そんなに嫌いじゃないです」

     かといって大好き、だともはっきりとは云い切れないのだが。
     そんな事をつらつら考えていたのだが、やけに視線を感じるので顔を上げると、
     横を向いていた筈の岳人が、ぽかんと口を開けてこちらを見ていた。それは凝視、といっていい程。
     先程まで、あんなに不機嫌そうな顔をしていたのに、今ではその険しさなど見る影も無く、ほんの少し、間が抜けてさえいた。

      「…そんなに驚かなくても」

     岳人のリアクションに、思わず日吉も力が抜けてしまう。
     何なんだろう。お互いの一挙一動に目を奪われて、そのたび揺れて。
     だけどそれは嫌なものでは無くて、むしろ心地良くて。こんな感情、知らなかったのに。
     この人も、そうなのだろうか。日吉はこちらに視線を向ける岳人を、まじまじと見返した。
     開いていた口はいつの間にかもう閉じられていたが、黒い大きな両の瞳はなんだか小動物のようで、相変わらず落ち着きが無い。

      「…お、驚いてない」

     大嘘。思わず吹き出しそうになる衝動を必死に堪えた日吉は、ペンを指に挟んだままで、
     ペットボトルを手に持つと、そのまま正面、岳人の額に柔らかなカーブを描く底の部分をごち、と緩くあてた。
     冷静な後輩とは思えないその突飛な行動に、なんだ!?と額にあたたかなものを押し当てられた岳人が狼狽える。

      「向日さん」
 
     「なんだよ」
 
     「あと少し、待っていて下さい」
 
     「なにをだよ」

     ゆっくりと、ペットボトルが離れていく。
     その所為で、切り揃えられたピンク色の前髪が軽く乱れてしまったが、
     囁かれる声がすぐ傍で聴こえて、岳人は髪を直す事も文句を云う事も出来なかった。
     気づけば日吉がぐ、とこちらに顔を寄せていたからだ。長めの前髪、薄茶のそこから覗く落ち着いた、静かな眼差し。
     微かに真剣味を帯びたそれは、岳人の身体をあっけない程簡単に動けなくする。

      「俺が高等部に行くまで」

     冬が終わって春がきたら。
     そうしたらもう、こんな事しなくても、一緒に居られますから。
     静かな声で言葉にしながら、まるで自分自身に云い含めるように。
     日吉は、途中から俯いてしまって表情を窺う事の出来ない岳人を見つめながら、ゆっくりと告げる。
     上着もタイも今は違う、だけどすぐに同じになる。一年先に彼はまた、それを脱いでしまうけれど。

      「……俺、お前にこうやって会いにくるの、結構気に入ってたんだぜ。懐かしいし、楽しかったし」

     そろそろと、顔を上げる。逃げ惑っていた岳人の瞳が、日吉の言葉でようやく定まる。
     向けられる眼差しをまっすぐに受け止めながら、頭の中に浮かぶ言葉を選び取り、時間を掛けてぽつぽつと繋げていった。
     懐かしくて、楽しかったけど、いつもそこに一人で居る日吉を、いつだって連れていきたいと思ったのも本心だった。
     会いにきて欲しいなんて、この愛想も無く素直じゃない後輩は、口が裂けても云う筈無い。だから。だけど。

      「…でも、さっき、俺がここにくる時、ちょっと雪降ってた」

     その言葉に、こちらを見ていた日吉の眉が、ふ、と微かに動く。
     誕生日が終わって、互いを隔てる一年の差はけして変わらない筈なのに、目の前の男は自分よりもどんどん大人っぽくなっていく。
     岳人は彼のそんな無意識な仕草にすら心臓が痛くなる自分に対し、云い知れない気恥ずかしさを覚えた。

      「冬だし、雪降ってるし、春なんてもうすぐだぞ、日吉」

     あと何回か雪が降り、そして止めば。日吉はここを出る。この部室を、この学校を。
     そして、また同じ制服を着て、可愛げのない憎まれ口を叩きながら、それでも自分の隣に立つのだろう。
     そう程遠くない未来予想図を頭に描き、自分なりに気持ちを整理して喋っているつもりなのだが、
     結局、単語の羅列のような頭の悪い内容になってしまい、岳人は密かにしんみりと落ち込んでしまう。
     しかしそんな岳人を黙って見ていた日吉の口許には、穏やかな笑みが滲んでいた。
     至近距離にあった顔をゆっくりと離し、椅子に背をつけ上体を戻した彼はそうですね、と静かに頷く。

      「もうすぐですよね」

     返ってきた言葉が耳に触れた瞬間、岳人が弾かれたように彼を見上げた。
     大きな両眸、意思をしっかり含んだ瞳。それから目を離さずに、日吉は思う。
     こんなにも何かを強く願ったのは初めてで、それなのに現状は変わらなくて。
     ピンク色の髪が見えない校舎にも全然慣れなかった。無意識で探してしまう自分の学習能力の無さに腹が立って、
     挙げ句高等部の制服を着る彼の姿を目にする事さえ苦しくなるだなんてドツボにはまって。だけど、春は来る。
     彼の云うとおり、それは必ず誰の許にも平等に、訪れるのだ。

      「あっという間だぜ」

     日吉からの肯定の言葉に後押しをされた岳人が、云いながらガタンと席を立った。
     手には差し入れたペットボトルをしっかり掴んで。突然立ち上がった彼を、着席したまま日吉が視線だけで追いかける。
     岳人はそんな彼のまるい薄茶の頭を見下ろし、先程のお返しだとばかりに、それでぽんと軽くたたいた。
     いつものように、不安を打ち消す勝ち気な笑みを浮かべて。

      「きっとな」

     春はもうすぐだ。

 

 

     □END□

 

     

     あいうえお作文*こしてる