ゴンドラの鳥



     その観覧車は、側面はおろか床まで全て透けていた。
     ただ透明なだけで床はきちんと存在しているのだ、と頭では理解出来ているのだが、
     触れた靴の真下がらんと抜けるように広がる景色に、知らず背筋の辺りがひやひやする。
     高所恐怖症では無い筈なのに、人間は普段と異なる状況に順応するには、
     やはりある程度時間の掛かる生き物なのだな、と日吉はそんな事を無表情で思った。
     ゆっくり、ゆっくりと、動いているのかいないのかそんな感覚すら分からない程ひどく緩慢に上っていく巨大な観覧車。
     すぐ正面には興奮しきった様子で、岳人が透き通った窓にぺたりと貼り付いている。彼の両目はいつになく輝いていた。
     男二人で観覧車に搭乗する、なんてぞっとしない状況に何故今陥っているか。それは今朝まで遡る。

     休日でも欠かさない朝稽古から帰ってきた日吉を待っていたのは、岳人からのメールだった。
     買い物につきあえ。と、命令口調のその内容をしかし日吉はあっさりと無視して食事をしに母屋へと向かう。
     30分後、再び自室へ戻ってきた日吉は、いささかうんざりした表情で机上に置いたままの携帯電話を開いた。
     件の相手からの受信メール数は増え、それは更に着信履歴となって日吉の携帯ディスプレイを侵略している。
     直後、着信音が鳴った。例え居留守を使っても侵略被害が増えるだけだと思い、日吉は諦めて応答ボタンを押した。
     今思えばそれが運の尽きだったのだろうと、後になってしみじみと思う。

      「ぎゃあ!すっげえ景色!ひろい!でかい!」

     額を窓に押しつけんばかりの勢いで、岳人は四方に広がる絶景を大騒ぎしながら堪能している。
     日吉はそんな彼を横目に、同じようにゆっくりと一定の速度で上っていく周囲のカラフルなゴンドラに視線を向けた。
     家族連れや恋人達の乗っているそれは至って通常のものだ。透明のゴンドラはこの巨大な観覧車の中でたった数基しか稼働していない。
     整理券まで配る程の人気ぶりらしいが、日吉には到底理解出来なかった。全くもって訳が分からない。
     何故自分がこんなものに乗っているのか。そして相手がよりにもよってこの人なのか。

     岳人曰く、今日は狙っていた限定アクセサリーの発売日なのだそうだ。
     他の部員達にも声を掛けたのだそうだが、用事があるからと皆に断られてしまったらしい。
     一人で行けばいいじゃないですか、と云えば頭数は多い方がいいんだよ、と良く分からない押し切り方をされた。
     正直この先輩に付き合う義理など自分には微塵も無かったのだが、もうお前しかいないんだ、
     お前だけが頼りだと切羽詰まった声で繰り返されると、奇妙な重圧感が肩にのし掛かってくる。
     断るのは容易い。しかし、断ったら断ったできっと今以上に面倒な事になるのは、経験上嫌という程知っている。
     今後部活で顔を合わせるたび、恨みがましい事を云われるよりは少しつき合って恩を売っておいた方が得策か。
     考えをそう切り替えて、日吉は渋々といった声音でいいですよ、と短く了承した。

      「なんか揺れませんかこれ」
 
     「周り海だからなー、すげーなほんと!」

     岳人の云う通り、確かに観覧車の周囲に遮るものは何もなかった。
     臨海都市であるここは未だ開発途上中で建造物も少なく、海に囲まれている為、風がまともに観覧車を直撃するのだ。
     駅で待ち合わせ、ショップで目当ての品物を無事手に入れた岳人は、日吉を率いたまま上機嫌に輪を掛けた上機嫌さで建物から外に出た。
     照りつける夏の陽差しをものともせず、跳ねるように歩くその小柄な後ろ姿を見つめながら、ようやく解放されると思っていた日吉だったが、
     先を歩いていた岳人が不意にぴたりと立ち止まり、振り返って斜め前方辺りを指さした。大きな瞳に滲む、嬉々とした色。
     怪訝に思って指の先を視線で辿れば、そこにはゆっくりと回る観覧車があった。

      「あれ乗りたかったんだ!頂上がすげー高いんだって」

     喋る暇を惜しむように、岳人はまばらに出来た人の流れをかき分けて、ぱたぱたとそちらに向け走っていく。
     冗談だろ、と思った。しかも速い。そういえばこの人短距離のタイムが半端無くいいんだった。
     そんな事を頭の隅に浮かべている間に、みるみる離れ小さくなってしまった彼は既に乗り場の前に到着しようとしている。

      「用、済んだんなら俺は帰ります」
 
     「なんだよ、ここまで来たなら最後までつき合えよー」

     追いついてそう云えば、岳人は眉を寄せ不満そうな声を出した。
     しかし、情けは無用とばかりに日吉が、もう十分つき合ったでしょ。と素っ気なく返す。
     貴重な休日、思えばやる事も沢山あった筈なのに、断れば済む話だったのに、
     暑い中なんだかんだとのこのこ彼について来てしまった自分にこの時少しだけ後悔する。
     良く考えればこの人は、恩を仇で返すタイプではなかったか。しかし後悔先に立たず、
     岳人は、じゃあつき合ってくれた礼に奢ってやるよ!と方向違いな男気を発揮し、強引に日吉の分を含めたチケットを買ってしまった。

      「なんだよ、まだ怒ってんのかよ」

     乗った後、普段以上に寡黙になってしまった後輩を見かね、
     岳人は惜しむようにじりじりと窓から額を離して困ったように云う。

      「怒ってないです」

     嘘つけ絶対怒ってる。岳人には、日吉の口調にも眼差しにも、
     先程からどこか刺々しい雰囲気が見え隠れしているような気がしてならない。
     ずるずるとかたい背もたれに身体を預けて、岳人はその時何かに思い至ったのか、ア。と小さな声を出した。

      「…もしかして高いとこダメ?」
 
     「まさか。苦手なら断固拒否しますよこんな乗り物」
 
     「そうか〜?お前そういうの絶対云わないじゃん」

     苦手な物とか苦手な事とか。
     弱味を握られるようで嫌なのか、日吉はけして自分達の前でそういう部分を見せようとしない。
     弱いところも。だから、関東大会で目にした日吉のあの姿は、岳人の中に何か特別なものとして頭の中に灼き付いてしまっていた。
     いつも冷めてて、生意気で。そのくせがむしゃらに、容赦なく敵を蹴落とし真っ直ぐに頂点を目指す、そんな男が見せた涙だったから、
     ひどく驚いて、そして、たまらなく痛々しかった。

      「…向日さんは好きなんすか?観覧車」

     ふ、と日吉が横を向く。海からの風で透明のゴンドラは必要以上にぐらぐら揺れた。
     十分以上掛けて一周するというこの観覧車は、四分の一辺りを過ぎのんびりした速度で上がっている。
     頂点にさしかかるまで未だ距離は残っていたが、つられるように岳人も横を見る。

      「大好きだな、なんか知んねーけどちっさい頃から。何周もねだっちゃ親父に怒られてたなぁ」

     あぁ、なんか想像つきます。そう云うと、日吉は横を向いたまま少しだけ可笑しそうに笑う。
     笑い話じゃねえぞ必ず拳もオマケでついてきたんだから、と内心こっそりしかめ面になりつつ、岳人は首を捻った。

      「なんでだろうな。絶叫系も好きなんだぜ?高いし速いし。でもやっぱ一番これが好きなんだ」

     遊園地に行くといつだって華々しくスピード重視の派手な乗り物に目移りをして、
     それなのに終園間際、最後に足を運ぶのは決まって観覧車だった。少しずつ、高くなる。少しずつ、視界が変わる。
     夕暮れ掛かった空とライトアップされた街の溶けそうな境界に見とれては、幸せな気持ちになった。
     岳人は最後に観覧車に乗った時の記憶を甦らせながら、トン、と再び頭を窓際に寄せる。
     真下に広がる海は、雲一つ無い晴天の為か深い紺碧の色をそこに映し出している。

      「あ、ここ」

     その声に、日吉が岳人の方を見る。

      「一番高いとこ」

     そう云ってどこか得意気に笑う岳人は、今まで見た事がないくらい嬉しそうな表情を浮かべていた。
     不意に、日吉は彼の好きな生き物を思い出す。今日購入していたアクセサリーも羽をモチーフとした物だった。
     地に立つ人ではけして見られない、そんな景色をこの乗り物は見せてくれる。少しだけ、鳥になったような夢を。
     しかし、そう思っている傍から、自分達の乗った透き通ったゴンドラは、静かに頂点の座から退いていく。
     多分。日吉が突然、ぽつりと短い言葉を口にした。今度は岳人が彼の方を見る番だった。

      「他の乗り物よりも、滞空時間が長いからじゃないですか」
 
     「え?」
 
     「観覧車、なんで好きかって…」

     そこまで口にしたが、岳人の食い入るように見つめてくる視線に気圧され、彼の語尾は少しずつ小さくなっていった。
     思えばこれは自分勝手な憶測で、当たっているかどうかも分かりはしないのに。
     日吉は再び後悔した。そして盛大に笑い飛ばされる覚悟を胸に決める。
     しかし、返ってきたのは笑い声ではなく、「すげーな!」と軽く興奮した感嘆の声だった。

      「そうかも。そうだ。俺せっかちなのに、観覧車のこのとろとろした時間は全然気にならねーし、むしろ好きだし」

     なるほどな〜なんか納得したかも。とぶつぶつ一人ごちて、
     岳人は自分達を囲む透き通ったゴンドラの壁面をぐるりと仰ぎ見ながら楽しそうに笑う。

      「空に長い事居られるからだな、きっと」

     その言葉につられるように、日吉も軽く顔を上げ周囲をゆっくりと見回した。
     360度空中という不思議な情景は相変わらずだったが、少しずつ順応出来たのか背中の辺りのひやひやしたものも、
     靴底から力が抜けていきそうな不安もいつの間にか消えている。結局、こんな所までつき合わされた挙句この人の心の謎解きまでして、
     一体自分は貴重な休日に何をやっているんだろうと日吉は力無く呆れつつ、しかし眼前に広がる見晴らしの良い景色と海風、
     そしてなにより最高に楽しそうな岳人を眺めていると、そんな気持ちを抱いている自分が妙に馬鹿馬鹿しくなってしまった。
     既に頂点を過ぎ後は地上へ降りていくだけという安心感もあるのかもしれない。
     岳人に感化された訳ではないが、日吉は陸地に到着してしまうまでに出来るだけ外の景色を追っていく事にした。
     陽差しの眩しさに、それでも目を凝らして。その行為の中にほんの僅かな名残惜しさを含んでいる事に、彼はまだ、気づいていない。

 

 

     □END□