缶ジュース、君と一缶



     終業の鐘が鳴った後、喧騒と共に教室から吐き出され玄関へ向かう生徒達の流れと一人反対方向に歩きながら、
     日吉は階段を降り校舎を抜けると、外の渡り廊下を越えたすぐ向こうに位置する中庭を目指した。
     空調が完璧に整えられた学園から一歩足を外へ踏み出すと、
     途端うだるような暑さに襲われ、湿気を帯びた温い空気が半袖のシャツから伸びる腕にじっとりとまとわりつく。
     その感覚に日吉は無意識に眉を寄せたが、気を取り直すように眼鏡を押し上げた。
     今はまだ初夏と呼ばれる季節だが、これから日を重ねるにつれ容赦なく暑さは増していくのだろう。
     夏は余り好きではない。稽古や部活で集中してしまえば気にならなくなってしまうが、
     陽射しも湿気もむせかえるような独特の濃密な空気も、自分にとっては心地好いものとは云い難かった。
     しかし、以前そういう話をひとつ年上の、こちらとは正反対で夏が大好きな先輩にした際、
     納得出来ねえ、と怒られた挙げ句お前は冬生まれだからそういう事云うんだろ、と訳の分からない攻撃をされた。
     自分だって秋生まれの癖に。
     そんな事を思い出しつつ、片手を翳し額の傍で陽除け代わりにしながら日吉はようやく中庭に到着した。
     コの字型に建てられた校舎にぐるりと囲まれるように、高等部の中庭は作られている。
     庭と一言でいってもその敷地はかなり広く、中央のスペースにはゆったりと休憩出来るテラスが完備されており、
     奥では飲み物や軽い食事も出来る。勿論校舎の中にも同じようなカフェテラスはあるが、こちらの方がより生徒の出入りが多いのは、
     季節ごとに庭を彩る花々の美しさと、充実した緑に囲まれ束の間の解放感が味わえる所為かもしれない。
     しかし日吉は軽く周囲を見渡すと、生徒達が多く利用しているテラスでは無く、
     そこから更に奥へと続く小路を通って少し離れたベンチの並ぶ場所まで歩いていく。
     気温は高いが、この辺りまで来ると庭を形作る木々の背は高くなり葉も多く繁ってくる為、陽射しを充分に軽減してくれる。
     額に翳していた手を戻し、周囲を良く見ると、等間隔に設置されているベンチには他に誰もおらず、
     目立つピンクの髪の生徒が、そこに一人座っているだけだった。探す手間が省けて良かった。
     日吉はそう思いながらピンクの髪の生徒に近づいていく。足音に気づいていないのか、
     ベンチに座る彼は顔の上に教科書を載せたまま、だらりと首を後ろに反らせていた。

      「向日さん」

     名を呼ぶと、おー、とひどく力弱い声が教科書の向こうから聴こえてきた。
     なんだろう、この瀕死状態は。
     思わず苦笑を浮かべながら日吉は鞄を傍に置くと、隣に腰を降ろす。
     間には彼が買ってきたのかプルタブがはね上げられた缶ジュースが無造作に置かれていたので、
     誤って落としてしまわないよう少しだけ間隔を空けた。

 
     「起きて下さい。帰りますよ」
 
     「ひよしー俺はもうダメだ…」

     くぐもって消え入りそうな言葉と共に、教科書が顔からずるりと膝の上に落ちる。
     数日ぶりに見た岳人の顔は、泣きそうな程に憔悴していた。
     日吉は腕を伸ばすと彼の膝に落下した教科書を手に取り、ぺらぺらとページを捲る。

      「なんで高校最初の試験の俺より、あんたの方が疲れきってるんですか」

     つい一週間程前までは宍戸やジロー達とつるみ、
     部室で鬱陶しいくらい定期試験のアドバイスやら何やらを自分に吹き込んできたのに、
     いざ試験が始まると顔色が変わったのは先輩である岳人の方で、
     明日で試験日程が全て終了する今となってはもう以前のはしゃぎようなど見る影も無い。

      「いや…もうダメだ…もう無理なんだ…」
 
     「物理ですか?これ」

     泣き言をあえて無視した日吉が、興味深そうに持っていた教科書へ視線を落とす。
     物理は一年生では習わない教科のひとつだった。文理選択は二年に進級する際に行われ、岳人や忍足は理系に進んだ。
     その為一年と二、三年では定期試験の時間割も教科の量も全て異なっている。

      「最終日なんて化学だぜ…俺はもう化学式なんて見たくねえ…」

     余りに悲痛な嘆きについうっかり同情しかけたが、
     しかし良く考えれば好きで選択した理系の生徒が放つ言葉ではないような気もする。
     ああ、でもこの人は自然科学の方が得意だったか。日吉は物理の教科書を岳人に返却しながら口を開く。

      「忍足先輩に見てもらってたんじゃないんですか?」

     試験が始まってから、岳人は同じ理系科目を選択している忍足に泣きついて、
     可能な限り図書館にこもり勉強を見てもらっていたのだ。その為こうして時間を合わせ一緒に帰るのも実は久しぶりだったりする。

      「もらってたー…けど、どうにもならない事もあるんだ、という事を俺は知った…あと眠い…」

     なんだか云っている事が次第に滅裂になってきているような気がして、日吉がそっと岳人の方を窺い見た。
     これはもう、さっさと連れて帰った方がいいのかもしれない。

      「向日さん、もう帰りましょう」
 
     「あー、うん。…ん?」

     空を仰いでいた顔をのろのろと戻し、
     手元に戻ってきた教科書を鞄に収めた岳人は、この時ようやく隣に座る日吉と初めて目を合わせた。

      「あれ。珍しーな、どしたの?眼鏡」
 
     「あぁ…なんかコンタクトの調子悪くて、途中で外したんです」

     部活がある日ならスペアのコンタクトレンズに変えるのだが、今日はこのまま帰宅するので持ってきている眼鏡を掛けた。
     自宅ではほとんどこの姿で過ごしているから自分では特に違和感は無いのだが、改めて指摘されると、なんだか少し妙な気持ちになる。
     というより、岳人から向けられる視線が真っ直ぐ過ぎて、対応に困る。

      「なんか、やっぱ雰囲気変わるよな〜」

     そんな後輩の気持ちを知らず、まじまじと彼の顔を見つめながら、岳人が感心するように呟く。

      「そうですか?」
 
     「うーん。頭良さそうに見える」
 
     「なんですか、そりゃ」

     彼らしいストレートな感想に、日吉の口許が綻んだ。
     その反応に、なんでそこで笑うんだよ、と岳人は抗議をしかけたが、
     口を開けようと向き直った途端、今度は日吉にするりと視線を絡め取られてしまった。

      「…な」

     レンズ越し、笑みを微かに残したままのその表情に、どきりとする。
     二人の間にある距離は、こんなに近かっただろうか。連日の寝不足でうまく働かないぼんやりとした岳人の思考が、
     この時少しだけクリアに透き通った。日吉は何も云わないけれど、二人を取り巻く空気は先程と明らかに変わっていた。
     至近距離で感じる日吉の吐息を、肌で、本能で察知した岳人の瞳が無意識にきゅうと閉じられる。

      「……」

     しかし、かなりの時間が経過した後日吉の唇が触れたのは、髪に隠れた岳人の額だった。

      「………?」

     おそるおそる目を開けると、こちらに顔を向けている筈の日吉は微かに俯き口許を手で押さえている。
     不思議に思ってよく見ると、肩口を小刻みに震わせ彼は無言で笑っていた。途端岳人の中で、一気に羞恥が沸き起こる。

      「な!なにが可笑しいんだよ!」
 
     「…や、だって向日さんの顔…」

     続けようとした言葉は、込み上げてくる笑いで最後まで口にする事が出来なかった。
     怖いものに必死に立ち向かうような、それでいてこの雰囲気にどうしようもなく困っているような、
     弱々しく眉を寄せたその表情は絶妙過ぎて、ツボに入ってしまった。しかし珍しく止まらない日吉の静かな笑いの発作は、
     確実に岳人の機嫌を損ねてしまったらしい。くそくそ、ばかひよ、と悪態を吐きながら全然恥ずかしさと怒りが収まらない、
     といった風に、横にあった缶ジュースを手に持ち一気に飲み干した。

      「すみません、向日さん」
 
     「謝ってもダメ!もーダメ!」

     勢い良く立ち上がり、空になったアルミ缶を少し離れた屑入れに放り投げると、
     岳人はそのままベンチに座る後輩を置いてすたすたと歩き出す。

      「待って下さいよ」
 
     「待たない!」

     小さな背中越し、速攻で否定の言葉は返ってくるけれど、云う程歩くスピードは速くもなく、すぐに追いつけそうだった。
     言葉とは裏腹な態度。こういうところが本当に、素直じゃなくて彼らしい。
     日吉は少しずつ、ゆっくりと距離を縮めながら先を歩く後ろ姿を、瞳を細め眺める。
     損ねた機嫌をどうやって直そうか、考えながら。

 

 

     □END□