好きなままで長く
花火をしようと誘われたのは、12月中旬の夜の事だった。
ひとつ年上の先輩である向日岳人の誘いはいつだって唐突で頓狂で、
更に云えば今回だって誘いというよりも「するから来い」とほぼ一方的なメールを送りつけられただけだ。
日吉は自室で携帯電話の画面を見下ろしながら、軽い脱力感を覚える。
今何月だと思ってるんですか。そして何時だと思ってるんですか。
そんな当たり前の問いかけは、しかし岳人には通用しない。したいと思ったらする。
一度行動のスイッチが入ると誰が止めようがお構いなしだ。日吉は返信ボタンを押し掛けたが、
しばらく黙考した後ひとつ小さな溜め息を吐くと、携帯電話をズボンのポケットに仕舞い外出の支度を始めた。
きっと返事を打つより先に、やきもきした相手から催促の電話が掛かってくると判断したからだ。それならもう行った方が早い。
どうせ彼の誘いは断れないし、もとより断るつもりも日吉には無いのだった。
玄関から外へと一歩足を踏み出した途端、キンと張り詰めた冬特有のかたい空気が皮膚を打つ。
吐く息は白く、隙間からひやひやと冷気が忍び寄る。日吉は歩きながら、
無造作に首へ引っ掛けていただけのマフラーの両端を掴むと、丁寧に巻き直した。
岳人が指定したのは彼の飼い犬を散歩させるコースに組み込まれている公園で、ここから5分程歩いた場所にある。
日吉も時折散歩へ一緒について行っては犬を遊ばせたりしていた。動物は特別好きでも嫌いでも無かったが、
何故か彼の飼い犬には盛大になつかれてしまい、その向けられる裏表の無い愛情に内心少し戸惑ったりしている。
それにしても。
規則正しく前へと進むスニーカーの爪先をじっと見つめ、日吉は思いを巡らせた。
顔を合わせるのは一体何日ぶりだろう。厚手のジャケットのポケットに両手を突っ込み、知らず歩みは速くなる。
順当に高等部に進み順当に三年生になった岳人は、来年の春になればそのまま氷帝学園の大学部へ進む予定だった。
しかし、行きたい学部と成績の折り合いが今いち良くないそうで、担任から希望の学部を変更するか、
それが納得出来なければ成績を向上させるかという二択を提示された。エスカレーター式の大学部だから、
入学するのは簡単だ。しかし、入ってしまってからが厳しいのである。今までの優遇はほとんど無きに等しく、
単位が取れなければ容赦無く落とされる。故にエスカレーター組は、進級や卒業出来ない学生が少なくないのだそうだ。
夏期休暇前の面談で担任にそう告げられてから、岳人は後悔したくないからという理由で後者を選び、
部活を正式に引退した二学期からは勉強に励んでいた。そして入れ替わるように部を預かった日吉達二年生は、
新たに引き継いだ雑務と変わらず厳しい練習に日々明け暮れるようになった。
そんな生活の変化に互いの時間はすれ違い、一度も顔を合わさない日も増えた。
日吉はポケットの中にある自宅の鍵と携帯電話を掌の中で弄ぶ。
自分が中等部の三年生だった頃も似たような状況だった
(むしろあの時の方が自由に会えなかったような気がする)から、こういう事には慣れている。
けれど、寂しがるのはいつも年上のあの人だった。会わない日が続けば比例して、メールと電話の頻度が増えていく。
かといって弱音を吐く訳でも無く本日の夕飯はこうだった、体育の授業で膝ぶつけた、など本当にどうでもいいような内容ばかり寄越す。
会いたい。顔が見たい。
そんなしおらしい言葉を岳人の口から聞くのはほとんど無かった。
しかしそれは日吉に対する愛情云々といった問題ではなく、ただ素直に自分の気持ちをこちらに伝えようとしないだけなのだ。
そうしてその面を裏返してみると、実はこういった甘い雰囲気が物凄く苦手で、驚く程に照れ屋なのだとつき合っていくうちに知った。
だから日吉はけして無理強いをしないし、出来るだけ相手のペースに合わせる事を心掛けている。
そうすると、自然に岳人が傍に寄ってくる。焦らなくてもいい、ゆっくりで構わない。そう日吉は思っている。
この先もずっと、自分が彼から離れるつもりが無いように、彼を手離すつもりも無いのだから。
けれど。顔を上げた日吉が、前方に見え始めたぼんやりと薄暗い夜の公園を瞳に捉え、じっと眺める。
再び迫る進学という別離に、不安が無いといえばそれは嘘だった。
視界の先にある公園は、さほど広い敷地を擁するものでは無かったが、
夜の闇に包まれて妙にうっそうとしており、ようやく入り口付近に備えられている街灯の傍まで来た日吉は、
そこでぴたりと足を止めた。奥でチラチラと白い光が揺れている。
その光は放射状に赤、黄色、緑と色彩を変えながら、どんどんこちらへ近づいてきた。
聴こえてくる弾む息と足音。日吉は目の前に現れた人物の姿を捉えた瞬間思わず瞠目し、そして苦笑した。
「おせーぞ日吉!」
開口一番叱責を飛ばす岳人は見るからに暖かそうなファー付きのダウンにくるまれており、
首にはぐるぐるとマフラーが巻かれ、毛糸の帽子を被り、更にイヤーマフまでつけていた。
そんな中、手袋は忘れたのだろうか、ダウンの裾から見え隠れする無防備な白い左手には、棒状の花火が握られている。
そこを除けば完全防備だ。寒いのが誰より苦手な彼らしい。
「呼び出しといてそれですか。しかももう始めてるじゃないですか」
「だって待ってるの暇だったんだよ。寒いし」
岳人は不満そうに口を尖らせながら持っていた花火をぐるぐる回す。
危ないからやめて下さい、と注意しようとしたが既に火力は弱まり、ほとんど消えかけていた。
「俺が来ないって行ったらどうするんです」
連絡した後、返事も待たずに家を飛び出していたのか。その余りの弾丸ぶりに半ば呆れつつ、
前を行く小さな背中を眺めながら訊ねてみると、歩みを止めずに岳人が軽くステップを踏んだ。
「お前は来るだろ?絶対」
確信に満ちたきっぱりとした彼の言葉は、日吉の心を漣のように淡く揺らす。
嬉しさの中に少しだけ不安が混ざるのは、ここまで自分の事を信じてくれている彼に、
自分は相応のものをきちんと返す事が出来ているのだろうか、という疑問が奥底にあるからだ。
態度で、言葉で、表情で。考えれば考える程きりが無くなってしまうのでいつも無理矢理切り上げてしまうけれど、
その疑問はいつも日吉の心につきまとう。広場の街灯下のベンチに置かれた、
花火の入った袋にガサゴソと手を突っ込んでいる背を丸めた岳人の後ろ姿を見ながら、再び湧き上がった迷いを吹っ切って告げた。
今はその事に囚われるよりも、優先したいものがある。
「つき合うのは30分です。風邪を引かれたらたまりませんから」
しかし思い遣った言葉とは裏腹に、前方から返ってきたのは不満そうな声だった。
部屋を掃除していたら出てきたのだという大量の花火は、その半分が湿気て火がつかなかった。
ライターを手に持ち、火がつかなければ足許のバケツに放り込み、
運良く着火したものは隣に座る岳人に渡してやりながら、日吉が口を開く。
「それにしてもこの時期に部屋の掃除って、何やってるんですかあんた」
パチパチ、と余り元気の無い破裂音をたてながら、色とりどりの火花が地面に降り注ぐ。
花火の光とのぼる煙にぼんやりと顔を照らされた岳人は、痛いところを突かれたような表情を浮かべているくせに、
何でもないようにさらりとこう云った。
「気分転換だよ、気分転換」
「定期試験前も良くやってましたよね、部屋の掃除」
ぐ、と隣で息を詰める音が聴こえる。なんて分かりやすい。
岳人が試験勉強中にやたら行動したがるのは、勉強をしなければならないというその切羽詰まった状況からの完全な逃避である。
普段滅多にやらない部屋の掃除や、未クリアのまま放置していたゲームの再開、
携帯電話のメールの編集など、様々に形を変えて徹底的に時間を費やすのだ。
しばしの沈黙の後、エーそうだっけ、と棒読み口調で返される、という事は自分でもきちんと分かっているのだろう。
しかし、花火を持ち出してまで会いに来るというケースは初めてだったから、
今まで以上に逃避の意識は強く、また疲れているのかもしれなかった。
「…まあ、たまにならいいと思いますけど」
肝心な事なんて何も云わないけれど、自分を呼び出したのには呼び出すだけの理由があるのだろう。
後輩の自分が、受験を目前に控えた彼の気持ちを理解するのは難しい。悩みを全て受け止めてあげる事も。
ただでさえ自分の前では、格好良く男前な部分を見せたがる彼なのだ。だから、隣に居る事で少しでも楽になれるなら、
冬の深夜でも足を運ぶのもいとわない、と思う。幸い寒さは苦にならない質だ。
パチ、と最後の火花がはぜた後、岳人が地面に散った花の余韻を見つめながらなんかなあ、と小さく呟いた。
「なんか、なんでこのままでいられないんだろうなー」
日吉がそっと、隣を見遣る。
帽子とイヤーマフとマフラーで埋もれた岳人の顔は余り良く見えなかった。
ただ少しだけ覗く鼻の頭が、ほんのりと赤い。
「なんでずっとみんなと一緒に馬鹿やって、テニスして、お前とこうやっていられないんだろ。俺は、それで十分なのに」
大学とか受験とか進路とか、ほんとめんどくせえ。
白い息と共にそう吐き出された言葉は、いつも冗談半分で喚いている泣き言にしてはトーンが低く、緩い疲れを伴ったものだった。
「先を考えるのは大事だって分かってんだけど、…」
なあ〜、と力無く間延びした声を出しながら、そのまま後ろへ反り返って大きく伸びをした岳人は、
持っていた花火の長い芯を、勢いをつけてバケツの中へと放り込む。少し遅れてじゅ、と水に沈む微かな音が聴こえた。
「俺はいますよ、ずっと」
今まで黙っていた後輩が静かに発した言葉に、岳人が少しだけ驚いた眼差しで左隣を見る。
空耳を疑ったのか、イヤーマフも僅かにずらしていた。その、自分に向けられた黒く大きな両眸に、
同じように視線を合わせると、日吉は少しだけ俊巡した後、右手を伸ばした。それはすぐ目的の冷えた指先に届く。
ひどく寒がりで、学校の登下校でも文句を云うくらいだから、こんな場所に長時間居るなんて、この人にはある意味苦行に等しいだろう。
それなのにこうして座って、やっと本音を呟いて。変わりたくない。ずっとこのままでいたいと。
「先へ進んでも、周りの環境が変わっても、俺は向日さんの傍にいます」
かじかんだ相手の左手を強めに握ると、指先が分かりやすいくらい跳ねた。
利き手は互いに異なるけれど、グリップを握る時にあたる場所が、同じようにかたくなっている。
そんな共通項さえいとおしいだなんて、我ながら本当にどうかしている。
甘い諦念を感じながら、日吉がゆっくりと、握っていた指を冷えきった岳人の指に絡ませた。
寒さの所為でその動きは多少ぎこちなかったけれど、抵抗無く受け入れられていく。
少しして、スン、と洟を啜る小さな音がした。
「ですから…」
続けようとした日吉の言葉は、しかし、ぐしゅん!と突然隣で発生した盛大なくしゃみでかき消される。
見ると頬を赤くした岳人が右手で鼻と口の辺りを押さえながら、あからさまに狼狽している。
「ごっ、ごめ…」
「…鼻水?」
「違う!いいから、続き…!」
聞きたいと促されても、その必死な様子と、先程の盛大なくしゃみが伴って、
不覚にも何を云おうとしていたのか、用意していた言葉が日吉の頭の中で消失してしまった。
余りのタイミングに、思わずほのかな笑いまでこみ上げそうになったが、それは懸命に堪える。
「いや、…何でもないです」
「云いかけてただろ!」
「や、いいです。ほら、冷えてきたからもう帰りましょう」
「ええ〜!」
未練たっぷりな声を上げる岳人をベンチから引っ張り上げながら、日吉はそのままゆっくりと歩き出す。
左手には花火の入った袋とバケツ、右手には岳人を伴って。本当に、このまま風邪をひかれては大変だ。
背後で聴こえていた洟を啜る音は、広場の中ほどまで来るといつの間にか真横に移動し、視界の端には毛糸の帽子が揺れていた。
「さっきのさ」
「え?」
「“ですから”の」
「…まだそこから離れてないんですか」
これは真剣に続きを思い出した方が良いのだろうか。
日吉が先程の記憶の糸をたぐり掛けようとすると、岳人がひょい、と隣を見上げた。
「じゃなくて、その前の。ずっと傍にいるって」
「…ああ、そっち」
隣を歩く岳人がどこか面映ゆそうな表情でうん、と頷き、マフラーから見え隠れする口許を綻ばせ笑う。
「うん、そっち。聞いたからな。お前が云ったんだから、後から無しはナシだからな」
白い息を弾ませながら何故か何度も執拗に念を押すので、分かってますよ、と口を開き掛けたその時。
「あと、それから」
不意にギュ、と右手を握り返された。
「俺もいるから」
ずっと。
そう告げた岳人の表情は、もう前を向いてしまって窺う事は出来なかったけれど、
日吉は彼の毛糸の帽子を見下ろしながら、右手と心臓を同時に握られたような、そんな錯覚に陥っていた。
いつも無闇やたらに照れくさがって、直接伝えてくる事なんて本当に稀だから、この不意打ちには返す言葉も見つからなかった。
冴え渡る冬の空気、それが柔らかく肌に馴染む頃、再び彼は学校から居なくなる。変わりたくないのは本当は、自分だって同じだった。
けれど、前に進む事で得るものも二年前のあの時確かに学んだから、彼には一足先に進んで欲しいとも思った。抱えた矛盾はたくさんある。
今だって、迷いが時折顔を出す。しかし、例え道が別たれても、傍にいたい。願わくば、ずっと。
その気持ちだけは自分の中で、けしてぶれた事は無かった。
ひたひたと二人、夜の道を歩く。
日吉は返事の代わりに、掌の中の一回り小さな左手を離さないよう、しっかりと包み込んだ。
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