平日の、昼下がりに走る赤い電車は思った以上にすいていて、
ちらりと車内に視線を巡らせた岳人はなんだか逆に居心地が悪いな、とそんな事を思った。
ガタン、ガタンと定期的に刻む振動に身体を委ねながら、少しだけ視線を横にずらした。
隣には日吉が座っている。きちんと揃えられた彼の膝の上には、淡い紫に染められた四角い風呂敷包みが載せられていた。
向日先輩、鎌倉へ行きませんか。
そう誘われたのは卒業をした後で。もちろん部活も無くて、
高校生になるまでの長い春休みを持て余し始めたちょうどそんな頃だった。
卒業式に、真顔の日吉に好きだと云われて泣きながら自分の気持ちを改めて思い知って、
誰よりも大切なその男の、ハンカチを握りしめた手を取った。それからずっと、なんだか、ずっと。
車窓から溢れるように入ってくる春の暖かな木漏れ日は、
ピンク色の髪から覗く岳人の項をちりちりとくすぐる。
落ち着かなくて、無駄に足をぶらぶらさせる。
胸がつまるように苦しくて、なのにそれは嫌な感じじゃなくて、
身体があつくて、座っているのに走り回ってるくらい、ひどく気持ちが浮き足だって。
鎌倉には、古武術を教えている日吉の父の知り合いが住んでいるらしい。
頼まれ物を渡しに行くだけなんですぐに用事は終わります。だから、もし良かったら。
部室の扉を閉めながら、日吉はそこで云い淀んで、ケホ、と変な咳をした。
卒業してから、部長になった日吉の率いる氷帝テニス部へ遊びに行くのがほぼ日課となっていた岳人は、
この日も例に漏れず部室に顔を出していた。帰り支度を済ませ、外に出た途端、
唐突に切り出された後輩の言葉を傍らで聞いた岳人はしばらくの間ぽかんとしていて、
いい加減察して下さいと先に痺れを切らした日吉に軽く睨まれるまで、それが今度の休日一緒に行こうという誘いである事に気づかなかったのだ。
日吉の用事は本当にすぐに終わった。お礼に持たされたのだという菓子の入った四角い小包を携えて、色んな所を二人で歩いた。
店をひやかし、海風にあたり、手にした食べ物を鳶に狙われ、鬱蒼とした森に囲まれた石段を上る。
少し足を伸ばせばすぐに行ける距離なのに、岳人は余りこの地に来た事が無い。
反対に日吉は幼少の頃から何度となく訪れているらしく、入り組んだ小路を歩く足取りもどこか慣れているように見えた。
小学生の時、古武術の稽古試合なんかで兄と良く通いました。
どこか懐かしそうにそう話す日吉の風貌は、なんだかこの苔むした深緑が未だ数多く残された静謐な景色に、よく馴染んでいるように感じた。
ゆっくりと速度を落とし、電車が駅のホームへ滑り込む。
どちらともなく帰りの電車に各駅を選んだのは、多分もう少しだけ、あと少しだけこの時間を楽しみたかったからだと思う。
今日はどうもありがとうございました。
人気の無いがらんとした電車に乗った直後、空いている席に座った日吉はふいに口を開いた。
「退屈じゃなかったですか?」
予期せぬ問いに岳人が大きな瞳を開いて固まる。
天地がひっくり返ったってそんな筈ある訳ねえだろ。
そう瞬時に答えは出たが、しかしそれをそのまま口に出すのも妙に気恥ずかしかったので結局ぶんぶんと首を横に振って、意思表示をした。
「全然!久しぶりに江ノ電とか乗れて楽しかったし」
しらす丼も美味かったよなあ、と続けると、
なら良かった、と日吉はほんの少しだけ全身から力を抜いて、それでいてどこか楽しそうな表情で続ける。
「なんか、連れてきたもののどうも向日さんに似合わないなと思ってたんで」
つまんねーと切れて帰られたらどうしようかと思ってました。
云いながらくつくつと小さく笑われて、今度は岳人の身体から力が抜けた。
ここで軽く蹴りを入れても文句は云われないぐらいには結構ひどいこと云われてるような気はするのに、全然腹が立たない。
それどころか警戒心無くこちらに向けられた日吉の笑顔に目を奪われてしまう。相当だなあ、と我ながら思う。
「お前なあ…俺をなんだと思ってるんだ」
分からないですか。
その問いに、眉を軽く上げた日吉に逆に訊ねられて、分かんねーよと毒吐いた。
なんせあれからまだずっと、頭の中はぐるぐるしているのだ。好きだって云われたけど。うんって、云ったけど。
「そうですね、それなら」
日吉はそこで言葉を切って、前方の、ゆっくりと流れ始めた車窓の風景に目を遣りながら静かに告げる。
「なんなのか分かるまで、傍にいてください」
その声は余りに静かで、駅を出発した電車の稼動音にともすればかき消されてしまいそうだったけれど、
何故だかきちんと、自分耳のすぐ傍で聴こえて、岳人はじわりとそこから不思議な熱を感じた。
ガタン、ガタンといつまでも続く変わらない振動。
車内の人の入れ替わりはとても緩慢で、二人の座る車輌には数える程しか人が居ない。
項を灼いていた陽射しはいつしか高度を下げ、車窓から見える空の色は次第に薄青から黄、そして淡い橙へ刻々と様相を変えていった。
日吉との会話が静かに途切れた後、ぼんやり窓に映る景色を眺めていたら宍戸からメールが入って、
返信しようとディスプレイを睨んでいたが、何故かどうしても言葉が出てこなくて結局何も打てずにパタンと携帯電話を閉じた。
くぐもった車掌の声が次の駅名を告げる。しかし普段乗らない沿線だからさっぱり分からなかった。
どこで降りるんだっけ、日吉に訊こうと僅かに首を動かしかけた瞬間、左肩に重みを感じた。
「…」
驚いて隣を見る。静かだった筈だ。
俯いていて顔は窺えなかったけれど、こちらに上体を預けた日吉はどうやら既に眠りに落ちているようだった。
驚きと共になんで今、と思う反面、先週からずっと、新年度から本格的にスタートする氷帝テニス部の準備に追われ、
部室で疲れきっていた後輩の姿が記憶から甦ってくる。あんなに忙しかったのに、せっかく今日は、久しぶりの休みだったのに。
誘われたのだとはいえ、朝から引っ張り出してしまったのだ。岳人はそろそろと口を噤み、起こそうと出しかけた言葉を静かに飲み込んだ。
左肩に直接触れる、薄茶の髪とかたい頬。近い。すごく近い。告白された上に良く考えればキスだってされている。
腹立たしいことに全部全部不意打ちだけど。それなのに、今この状況に、自分でもびっくりするくらい緊張して、鼓動が速くなっていた。
くそくそ早く目を覚ませ。岳人の心の中はそう訴えて大騒ぎしているのに、
あ、つむじ。なんて、頭の片隅にいる妙に冷静な岳人は自分の知らない日吉を探す。
変なやつ。生意気で、憎たらしくて、野心家で、それでいて妙なところで神経質。
一歩引いては人を小馬鹿にするクセに、怖いくらい真剣に、真正面から感情をぶつけられた。
もっぱら人を巻き込む自分が逆に巻き込まれているなんて。本当に、変なやつ。
初めて逢った時からずっと、どうしたって嫌いになんか、なれなかった。
なんなのか分かるまで、傍にいて下さい。
日吉は云った。
日吉にとっての自分が。
そして、自分にとっての、日吉は。
日吉からもたらされた謎かけのようなそれを頭の中で考えながら、
左肩の重みはそのままに、少しだけ体勢をずらし、つむじから、視線をゆっくり落としていく。
さらりと切り揃えられた細やかな前髪。日に透けて明るく黄色に光るそこから覗く日吉の寝顔は安らかで、
そんな彼を見ていると、このまま、二人で終点まで行ってしまってもいいかな、なんて思ってしまった。
多分、きっと、そんな事をすれば、目が覚めたしっかり者の後輩に呆れられながら怒られるんだろうけど。
□END□