止まってしまった足を再び動かす第一歩が、ここからだといい。

【Einsatz】

職員室の扉を閉めた後、原は早足で廊下を歩き、階段を一気に駆け上った。
放課後の校内はがらんと静かで、窓からは薄桃から深い橙に暮れかけた陽差しが降り注いでいる。
彼の持ち場である音楽室は最上階の一番端に位置し、そこからでも音楽教師の権威の弱さが見え隠れしていたが、
逆を云えば授業や用事が無い限り人々が立ち寄らないひっそりとした場所である為、
教師の癖に規則を嫌う原自身この待遇に文句は無かった。
もっとも、私立故の年功序列に晒されて文句など云える立場にも無かったのだが。
しかし、それは今までの話である。今は少しだけ、状況が異なっていた。
全力疾走で最上階までダッシュ、日頃の運動不足を嘲笑うように膝がまるで云う事を聞かないが、無視して進む。
廊下を突き当たったところで止まり、扉の前で大きく深呼吸、そしてゆっくり息を整えた。
トクリ、心臓が弾むのは、走った所為では無い筈だ。

 「すまん佐条!職員会議が押して押して」

そう云いながら扉を開けると、奥に座っていた一人の少年がそっと顔を上げた。
佐条利人。この春、東府第一高等学校に全教科満点という鳴り物入りの成績で入学した一年生だ。
佐条は左の中指で眼鏡を押し上げると、いえ。と小さく声を出す。右手には重ねられたプリントの束。
授業が終わった後に、原は教室から出て行こうとしていた彼を呼び止め、音楽室での手伝いを頼んだのだ。
二人きりになりたい。そういう下心も正直あったが、それ以上に教師として、佐条の学校での様子が少しだけ気になっていた。

 「予備校の時間まで、まだありますから」

そう云って佐条は右手で持っていた最後のプリントを両手に持ちかえ、とん、と机上で紙の端を丁寧に合わせた。

「いやいやほんとすまんかった。こんな待たせるつもりじゃなかったんだが。休憩しろ。コーヒー淹れるから」

はい。と返事をしつつも揃えた紙をパチン、とホッチキスで留める佐条を横目に、
原は隅にある準備室の扉を開け放つと、端に置いてある私物のコーヒーメーカーのスイッチを入れた。
彼に頼んでいたのは一年生の授業で使うプリントをホッチキスでまとめる、という簡単な作業だったが、それでもかなりの枚数がある。
途中からは会議から戻ってきた自分が請け負うつもりでいたのだが、佐条はそれを一人で黙々と、ほとんど全て終わらせてしまっていた。
適当にやってくれていいから。と音楽室を後にする時、声を掛けてあったにも関わらず、今まで休憩も入れずに作業をしていたのだろう。
律儀というか真面目というか。こちらに向けられた姿勢の良い後ろ姿を眺めながら、原はやれやれと静かな溜め息をついた。

 「なんか入れる?…って砂糖しか無いけど」

しかも滅多に使わないから瓶の底でガチガチに固まってるけど。
湯気のたつカップを手渡しながら訊くと、じゃあお砂糖下さい。と佐条は控えめにそう云った。
お砂糖。入学式のあの時も思ったけれど、本当に育ちがいいんだろうなあと思う。
原は瓶の底にこびりついた砂糖をがっしがっしと備え付けのスプーンで削り取りながら、
佐条のカップにさらさらと透明な粉を入れてやった。二人して向かい合い、温かな珈琲で一服。悪くない。
原は無意識に緩みかける口許をカップの下で必死で引き結びつつ、助かったよ。と礼を云う。

 「まさか全部仕上げてくれるとは思わなかった。面倒だったろ」

しかし佐条はカップから顔を上げると、微かに首を振って否定を示した。

 「そんな事ないです。こういう作業、好きだし」
 「本当?」

少しだけ顔を寄せてじっと目を合わせると、佐条の視線は眼鏡の奥ですぐに逃げてしまう。
伏し目がちになった黒い瞳、そこを縁取る睫毛が長い。整った顔立ちは未だ幼さを秘めてはいるが、
逆にそれがこの時期特有の危なっかしい色気となって全身に纏わっている。原は思わず目を細めた。
これは本当に、掃き溜めに舞い降りた鶴だ。

 「ほ、本当です」
 「良かった。じゃあこれに懲りずにまた来てくれ」

投げ掛けられたその言葉に、佐条は少しだけ目を見開き驚いた顔をして、そしてしばらく沈黙した後、はい、と小さく頷いた。
雰囲気、容貌、何が要因なのか、入学から一月経っても佐条はクラスの中に上手く溶け込めずにいた。いじめられているのでは無い。
ただ余りにも系統が「違う」為、周囲はどこか近寄りがたさを感じ、無意識に彼から遠ざかっていってしまう。
それもそうだろう。本来ならば佐条はこんな高校にいるような人間では無いのだ。
様々な不運とアクシデントが彼を襲い、ここにいるしかないだけで。
成績も素行もまったく問題無いんですがねえ。と彼の担任は原との雑談中、そう語尾を渋らせた。
音楽の授業中さりげなく彼の姿を追ってみたが、確かに周囲のクラスメイト達と混ざらないし、会話も無い。
黙々と授業を受けて、そして一人で教室に帰っていく。
そんな佐条のぽつんと小さな後ろ姿を眺める状態が一月続いて、なんかなあ、と原は思った。
あの時のように青白くも苦しそうでも無い。それなのに、今の方がひどく息苦しそうな、そんな気がした。

 「…そーいや遠足どうだった?海行ったんだろ?一年は」

降りてきた沈黙を厭うように、原が机の下で脚を組みかえ、そのままがさごそと胸ポケットを漁る。
目当ての煙草を一本取り出し、指に挟んだところで正面から細い声が聴こえてきた。
変声期のとっくに終わった、それでいて微かに甘さの残る佐条の声は耳に心地良く沁み渡る。

 「はい、あの泳ぐの禁止って云われてたんですけど、D組の生徒が一人ジャージのまま飛び込んで」

あとはもう滅茶苦茶になりました。淡々と冷静に状況を報告する佐条の顔を見て、ぶ、と原が吹き出す。

 「あーDっつったらあれだろ。草壁だなきっと」
 「名前は知らないですけど、髪が茶色でふわふわの」
 「アホだからなーあいつ。まあ恒例なんだがね、一年の海遠足では」

誰かが絶対飛び込むんだ。笑いながらそう云うと、そうなんですか。と律儀な相槌が返ってきた。

 「楽しかった?」

話題を振られた佐条が微かに首を傾げ、少しだけ考え込む。
思い出しているのだろうか。記憶を手繰るようにそっと睫毛を伏せて。

 「………はい」

下手糞な笑顔と嘘の肯定。
指に挟んだ煙草を口に移し、原は佐条をゆるりと見つめた。
多分、きっと、この少年は親にも教師にも逆らう事なく今まで生きてきたのだろう。
望まれるまま勉強し、望まれるままランクの高い学校を目指して、けれどここにきて初めて躓いて。
生まれて初めて親の決めたレールからはみ出してしまった今の生活を、佐条がどう思っているのかは分からない。
けれど、良きにしろ悪きにしろ、ここで三年間を過ごす事に決まったのなら、窮屈で息苦しいより楽しい方がきっといい。
時間が掛かっても構わない。少しでも楽になるなら、自分はいくらでもこの少年に手を差し伸べたいと思う。
それは確かに教師としての本心だ。原は煙草を銜えたまま、腕を伸ばして佐条の頭へぽん、と大きな掌を置いた。
男の予期せぬ行動に、ビクリと小さく佐条が震える。そろそろと原の顔を見上げるが、正面に座る音楽教師は瞳を気怠げに細めて笑うだけで。

 「きっと、もっと楽しくなる」

低い声で穏やかにそう云って、原は佐条の髪を何回か緩く撫でた。
今はまだ立ち竦んで動けなくても、きっといつかここから踏み出す日が来るだろう。
上手く呼吸が出来るようになるまで、周囲に馴染めるまではここでゆっくり休めばいい。
そして願わくば、差し伸べた自分の手を掴んで離さないでいて欲しい。これは教師ではなく、一人の男の本心だけれど。



■了■



-----

Einsatz [アインザッツ]
長い休止ののち、再度演奏を始める事