衝動を抑制出来るのが大人。反面それをとても疎ましく感じるのも、大人。

【grave】

残暑厳しいこんな時期に体育祭などやるものではない。
と、原は赴任してから常々しぶとく諦めず思っているのだが、
やはり今年も滞りなく十月の第三日曜に体育祭はしっかりと予定され、
そして二日前である晴天に恵まれた本日午後、それに向けての全体練習が行われていた。
体育教師の厳しく野太い号令を聴きながら、原は行進や競技で流す音楽をパソコンのデータから取り出す。
音楽教師である為、放送や音響全般を一任される煩わしさはあるものの、
仕事上グラウンドには出ずテントの中に篭もっていられるのは有り難かった。
並べられた音響機器やマイクの脇に肱を置き、頬杖をついてぼんやりと炎天下のグラウンドを眺めていると、
若さ溢れるジャージ姿の男子生徒達が面倒臭そうに文句を垂れてはいるが、なんだかんだと楽しそうに走ったり騒いだりしている。
いいねえ、青春だ。
原は眩しそうに目を細めた。自分は一体あの元気を何処に置き去ってしまったんだろう。
教師である原自身云うのはあれだが、本当にこの学校の生徒は馬鹿ばっかりだ。
しかし合唱祭や体育祭など、学校のイベントを精一杯楽しもうとする気持ちがあるのはとても良い事だと思う。
普段は全然可愛くないのに、こうして客観的に見ているとやはり可愛い奴らだ、
と一人ぼんやり物思いに耽っていると、頭上から声が降ってきた。

 「原先生、ちょっとよろしいですか?」
 「へ?あーはい。なんでしょう」

顔を上げると、一年生の担任である教師が、隣に控える一人の男子生徒を軽く支えるように立っている。
俯いて、こちら側から顔は見えないけれど、その華奢な身体つきにはしっかりと見覚えがあった。

 「佐条が軽い貧血起こしたみたいで、保健室一杯らしいんでちょっとこっちで休ませてもらっていいですかね?」
 「あ、はいはいどうぞ。こっち場所空けます」

放送場所として設営されたこのテントには、原の荷物と機材以外は数脚のパイプ椅子と長ベンチしか置かれていない。
保健室が定員収容人数を超えてしまった際、こちらの場所を比較的軽い症状の生徒達の一時的な休憩所として使用するのだ。
原は座っていたパイプ椅子から立ち、すぐ横の長ベンチに置かれていた上着や荷物をまとめて後ろの椅子にどかすと佐条を寝かせる為のスペースを作った。
佐条は教師に支えられながらゆっくりとそこに腰掛けるが、やはり辛そうに俯いている。

 「じゃあ具合良くなるまでここにいろよ。すみません原先生、後頼めますか」
 「お任せ下さい」

にこやかにそう答えると、担任教師は申し訳なさそうに何度も礼をしながらグラウンドに集まる生徒達の中に戻っていった。
原は後ろを振り返り、崩れるようにベンチへ座る佐条の顔を、膝を折って覗き込む。

 「大丈夫か?って大丈夫だったら来ないわな」
 「……はい…」

力無くこちらを見返してくる佐条の黒い両眸は、眼鏡越しからでも分かる程、潤んでいる。
顔色は、日陰であるここで見てもやはり悪い。原は少年の細い肩をそっと掴むと、横になるよう促した。

 「とりあえず横になれ、楽んなるから。気分悪くないか?」
 「あ、…大丈夫、です」

云われるままにゆるゆると倒された佐条は、ベンチの上で所在無さげに横になった。
着ているものはジャージだから、緩めなくてもそのままで大丈夫だろう。
原は佐条の手首を取ると、脈を確認する。とくとくと、健気に脈打ってはいるが、やはり少し弱く遅いような気がした。

 「朝飯食った?」

佐条はぼんやりと視線を彷徨わせて、ふる、と首を曖昧に揺らす。
手首を離し、隣の椅子に腰掛けた原はそのまま指先でキーボードを叩く。直後、二年競技退場用の音楽がスピーカーから流れ出した。

 「じゃー睡眠不足」
 「……昨日、予備校の模試で。その前の日からちょっと、眠れてなかったんです」

すみません、と小さく謝られて、しまった、と思った。
別に怒る為に色々と訊いた訳では無かったのだが、佐条にしてみればそういう意味に取るのは当たり前だろう。
原はいやいや別に謝らんでいいんだ、と後から付け足したが、その云い方がなんだか少し間抜けだと我ながら思った。

 「そりゃ、でもしんどかっただろ。今日はありえん程の炎天下だからな」

きっと保健室には佐条のような生徒がわらわらとベッドへ担ぎ込まれているのだろう。
中にはサボタージュ目的の輩もこっそり紛れているに違いないが。
カチ、と手許にあるマイクのスイッチをオンにして、三年さっさと入場しろーと声を掛けていると、
右横斜め下方向から再び小さくすみません、と謝る声が耳に触れた。
視線をそちらに傾けても、見えるのは位置的に佐条の黒い後頭部でしかない。
しかし声の主は佐条に違い無く、謝られる理由も見つからなかったので、なにが?と訊いてみた。

 「なんか、先生にはお世話になりっぱなしで…」

お世話。記憶を手繰って、あの春の日まで遡って、ふ、と思わず口許が綻ぶ。
具合の悪い佐条が横になって、隣に介抱する自分が座っていて。これはあの時の状況と少しだけ似ている。

 「…ああ、確かに。そういやお世話してるな、授業外で色々」

顎の髭を撫でながら含み笑いで云ってやると、つられるように佐条もくすりと笑った。

 「ご迷惑じゃ、ないですか?ここにいて」

ご迷惑どころかずっと居てもらっても構わないくらいだ。
突然巡ってきた二人きりという好機に内心喜んでいるなんて、教師としてあるまじき下心は流石に晒せないが。
それにしても。必要以上に気をつかって、周りの目を常に気にして。四月当初よりは大分マシになったが、
佐条は相変わらず不器用な生き方をしている。それが彼の持って生まれた気質だと、云ってしまえば簡単だけれど。
原はそこまで考えて、大きく伸びをしながら口を開いた。出来るだけ、さりげなく。

 「そういう心配はしなくていいんだ。子どもはツライしんどい云ってりゃいいの」

その言葉を聞いた佐条はしばらく沈黙していたが、少し経った後、ありがとうございます。
と、柔らかな声が斜め下から原の耳へと静かに届いた。

それからぽつぽつと途切れがちに世間話を交わしながら三十分程経過した頃、
佐条はベンチに横たえていた身体をそっと元に戻すと、外して置いてあった眼鏡を掛けた。
どうやら体調の方は幾分か良くなったらしい。とはいえ既に全体練習は終盤にさしかかり、
後は校長による最後の挨拶を残すだけなので、これくらいなら佐条自身参加出来ると思ったのだろう。
相変わらず文句のつけどころが無く真面目で優秀。教師の間で人気があるのも頷ける。

 「お。復活したか」
 「はい、大分楽になりました」

ベンチに背を預けた佐条が、口許に微かな笑みを浮かべる。
青白さの抜けた顔をじっと見つめた後、原は腕を伸ばし少しほつれた少年の前髪を指先でかき分けて、直接額に触れた。
汗も引き、余分な熱も無い。そのまま額に押し当てていた手をするりと首筋に移動させる。
佐条は最初、何をされているか分からなかったのか突然の事態に身体を固くしていたが、大人しく原のされるままじっとしている。
掌で、薄い肌から感じる佐条の鼓動は先程よりしっかりと強く打っていた。

 「…大丈夫そうだな」

音に集中する為、地面に向けていた視線を戻すと、佐条がこちらを真っ直ぐ見ていた。
その両眸に捉えられ、思わず息を呑む。至近距離と、掌で触れる首筋。あともう少しだけ近づいたら。
瞬間、ぐらりと身体の奥底が揺れる。しかし這い出そうとする本能を理性で押しとどめ、原は白い首筋から手を離した。

 「じゃ、あんま無理すんなよ」
 「ありがとうございました、原先生」

佐条はひどく丁寧にお辞儀をすると、ベンチから立ち上がり、もう一度原に深く礼をした。
顔はいつもの気怠げな笑顔で、グラウンドに戻る佐条の背中にじゃあなと手なんか振って。
しかし頭の中では恐ろしい程の罪悪感が渦巻いていた。今、本当にやばかった。一瞬自分を見失いかけた。
佐条の瞳に捕まえられて、冗談ではなく時が止まった。十五歳だ。相手は二十もかけ離れている子どもだ。
それなのに、馬鹿みたいにもっていかれた自分が居た。最初はときめき以上にその危なっかしさから目が離せず、
教師ポジションで見守り続けていたというのに。しかし、今の衝動はときめきとかそういう可愛いものじゃなく、男としての欲望だった。
それを再認識して、うわあと更に罪悪感が増す。原は今更ながら紅潮し出す顔をどうする事も出来ず、
機材の上にずるずると突っ伏して、一人熱が冷めるのを待つ。校長の挨拶など、勿論耳に入ってくる筈も無かった。



■了■



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grave [グラーヴェ]
重々しくゆるやかに