days
某都内に位置する、青春学園中等部。
の、男子テニス用多面コートで越前リョーマは息を呑んだ。
「…部長、血ィ、出てる…っス」
指摘された当人、テニス部部長の手塚国光が、
ラケットを持った左手を一瞥して、しかし何事も無かったように再び顔を上げる。
「すぐ止まるだろう。気にするな」
そう言って、さして気にする様子も無くコート内に入っていく男を、
リョーマは早足で追いかけた。いつも冷静な少年に似つかわしくない慌てぶりである。
「…って!すごい血じゃないスか!」
その声に、近くに居た大石と不二が振り返って彼等を見た。
左手、おそらく中指が切れているのだろう。
そこから大量に出血している光景を目にした大石が、思わず眉を寄せて手塚に言う。
「手塚、結構深く切れてるじゃないか。保健室に行ってきた方が…」
しかし呼ばれた男は僅かにこちらを向いただけで、再びスタスタと歩いていく。
無頓着にも程がある。リョーマは思わず舌打ちした。
「大丈夫だ」
その声に被さるように、
「大丈夫じゃないよ」
乾の声が聞こえ、手塚が顔を上げた瞬間、彼の左腕は掴まれていた。
何時の間にか背後に立っていた乾がノートを脇に挟んだまま、
未だ血が流れ続けている左手に顔を近づける。
「大石の言う通り。深いよコレ。手当てするから行こう」
表情の見えない顔で見下ろされ、手塚が少しだけ眉を顰める。…が。
「おいで、手塚」
抑揚の無い声が再び響いて、とうとう首を縦に下ろした。
そのまま彼を促すように歩いていく乾が「じゃ、連れてくから」と断りを入れる。
大石もそれに「頼む」と頷いて、それから何事も無く練習を再開させたのだが、
練習相手を乾に横取りされてしまったリョーマだけは、呆然と保健室へ向かう二人の背中を眺めていた。
…なんというか。
「釈然としない。って顔だね」
正に今の自分の心境を鋭く言い当てる、柔らかい声。
キャップのつばを上げると、不二がにっこりと笑ってリョーマを見ている。
「先パイ…」
「自分が言っても聞いてくれなかったのに、
何で乾の言う事は聞くんだーって、思ってたりするのかな?」
左手に収まっている2個のテニスボールを掌でころころ器用に遊ばせながら、
無邪気に笑って聞いてくる不二から視線を逸らした。この人は…苦手だ。
「…そーゆー訳じゃないですけど…でも、部長、あの人の言う事は聞きますよね」
『あの人』=乾 貞治。
リョーマの密かな反発心に、不二が心の中でコッソリ笑う。
「乾は手塚のメンテのプロだから」
突然、そんな事を告げられたリョーマが、あからさまに驚いた顔をする。
その反応が余りにも可笑しくて吹き出してしまった不二。
しかし少年ににらまれ、すぐにゴメンゴメン…と謝罪した。
「でも本当の事だよ。手塚はね、乾の言う事しか聞かないんだ。
よっぽど信頼されてるのか何なのか知らないけど、乾も罪な男だよね」
クスクスと笑いながら楽しそうに彼等の事を話す、
自分より二つ上のこの先輩が、リョーマには不思議で仕方がなかった。
「…俺、先パイのが部長と仲いいと思ってましたけど…」
一人ごちるように呟いたそれは、彼にもしっかり伝わってしまったようで、
微笑んだままの瞳で、リョーマの顔をひょいっと覗きこんでくる。
「お互い頑張ろうね、越前クン。ま、僕は単に彼等をいぢめたいだけなんだけど」
「…ッ!?」
思わず後ずさったリョーマ。
それをニッコリと見つめる不二。
「―――と、いう訳で。手塚の代わりになれなくて悪いんだけど、相手してくれない?」
「……ハイ」
にこやかに笑ってボールを渡す底の知れない上級生に、
(この人だけには敵うまい…)と、違う意味で敗北感を味わってしまったリョーマであった。
そんな事を噂されている事も知らず、
手塚はのんびりと平和に保健室で乾の手当てを受けていた。
生憎保険医が留守だったので、丸椅子に手塚を座らせ、手際良く彼に手当てを施していく乾。
傷口を水で洗い、丹念に消毒をして、化膿止めの軟膏を塗ったガーゼを指に貼付け、テープで固定する。
「それにしても、一体何で切ったの?これ」
勝手知ったる…という仕種で、机に置いてある救急箱の中から包帯を取り出し、チラリと手塚を見ると、
「……さぁ」
と一言、それだけ返ってきた。
「…手塚」
「ん?」
「最近寝てないだろ」
クルクルと自分の指に包帯を巻かれる様子をぼんやり見つめながら、
「…そんな事はない」
否定をするが、即却下されてしまった。
「嘘」
「何で」
包帯を巻く手を止め、乾が顔を上げる。
相変わらず表情の分からない奴だ。と、自分の事は棚に上げつつ、手塚が頭の隅でそう思う。
「思考が鈍くなってるし、いつもよりボンヤリしてるし、
それに最近手塚が校内で転んでるところをよく見るしね」
「…転んでない」
「よく転びそうになってるじゃない」
「…う。」
少しだけ楽しそうに笑う乾を、切れ長の瞳でジロリとにらむ。
ただでさえ教室が10クラスも離れているのに、何でそんな所を見ているんだ。
言葉に詰まってしまった手塚をフウ、とため息を吐いて眺めてから、再び包帯をクルクルと巻き始めた。
「都大会に中間テスト、実力テストに加えて生徒会の仕事もこなしてたんじゃ、
睡眠不足にもなるだろうけどね…寝る時はちゃんと寝ないと、身体が保たなくなるよ」
乾の言う通り、この時期手塚が多忙だったのは確かだった。
関東へ、そして全国へ行く為の都大会がようやく終わったと思った途端、
テストの嵐。学生の本分であるとはいえ、どう考えても時間が足りない。
その上兼任している生徒会の方の仕事も山積みで、黙々とそれを片付けながら、
自分は過労で死ぬんじゃないかという気さえしていたのだった。
けれどそれは部活には持ちこまない。
持ちこんでいない筈だったのだが、今日の不注意による怪我、
(本当に何で切ったのか覚えていない)
そしてやっぱり乾には全てを見破られてしまっていた。
「校内トーナメントも控えてるし、何より手塚が居なくちゃ全国への夢は叶わない」
周囲に人が居る時は、ほとんど感情を表に出さない声。
それなのに今、自分に語りかけてくる声は、ひどく穏やかで。
他人に触れられるのが余り好きではない手塚だが、
自分の指に触れる別の体温が柔らかくて、暖かくて、少しだけ意識がぼやける。
「…手塚?」
カタン。
正面、保険医用の椅子に座っている乾の肩口に、さらさらと黒髪が落ちる。
四角い眼鏡の奥で少しだけ目を見開いたが、凭れ掛った人物は微動だにしない。
「どうしたの?眠い?」
「…違う…」
白いTシャツに顔を埋め、手塚がゆっくり首を振ると、
細いフレームの眼鏡がカシャリ、と繊細な音を立てた。
「そういう可愛い事をされると、俺としても色々困るんだけど…」
一体何が色々困るのか、謎の言葉を呟く長身の男。
しかし彼の掌は手塚の背中に回っていて、ゆっくりとそこを優しく撫で上げた。
「…ちがう、…の声が気持ち良くて…」
肩口でむにゃむにゃと囁かれ、何ともくすぐったい感触が乾の背に走る。
「よく、て…安心…する……」
意識落ちかけの手塚は一生懸命弁解するが、とうとう時間切れらしい。
この後聴こえてきたのは規則正しい寝息だけだった。
余程疲れていたのだろう。
ぎりぎりまでこうして頑張って、糸が切れたようにプツリと倒れる。
手塚は強過ぎる責任感からか、持って生まれた頑固気質からか、
絶対に他人の前で自分の弱い部分を見せたりしない。
そういう面を知っているからこそ彼の好きなようにさせて、
その後ろで、何かあればフォローをするという役割を、好きで演じてきた。
「…安心、か…」
他の部員達が知らない彼の表情を、多分を自分は一番良く知っていると思う。
そうするように仕組んだのは自分だから。彼の信頼を得る事を何よりも優先してきた。
しかし、こうして信頼を勝ち取って、無防備に身体を委ねられて。
背中に回した手を、髪の毛に隠れた白い頬に移し、そっと触れた。
「…俺は手塚が思っている程、『いい人』でも無いんだけどね」
自嘲するように呟いて、そっとその黒髪に顎を乗せる。
信頼だけでなく、心も身体も過去も未来も。
彼の存在全てを手に入れたいと思ってしまう自分の心は、余りにも貪欲過ぎて。
「とりあえず当分自制するつもりだけど、あんまり可愛い事をすると…」
どうなっても知らないよ。
声も出さずに呟いて、乾は手塚の髪の毛に浅い口づけを落とした。
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