梅雨に入ってから久々に拝めた太陽。
珍しく晴天に恵まれた今日。青学テニス部名物、レギュラー選抜トーナメント戦最終日。
俺は、相も変わらず手塚に負けた。
0603
試合終了後、部室に引き上げていくメンバー達の流れを逆流して、一人コート脇のベンチへ陣取り愛用のノートを開く。
やけに文字が書き難いな、と視線をズラせば、ペンを持つ手が情けない程震えていた。
手塚に負けた。
変わらない事実、けれど不思議と気分が良かった。
何故か。
その回答は至極簡単。
自分の今ある力を全て出しきったからである。
結果、彼から4ゲームを奪う事が出来た。手塚を僅かながら追い詰める事が出来たのだ。
勿論、そこから先は彼の見事なまでの報復に遭ったのだが。
顔を上げるとコート内では一年生達が真面目に整備を行っている姿が視界に入ってくる。
そこから少し離れた処で手塚が腕を組んだ格好で佇んでいた。コート整備が終了するまで彼は其所から立ち去らない。
誰も居なくなった事を確認して、ようやく引き上げるのだ。
部長の責務なのか彼のポリシーなのか、日課になっているその行動を知っている物は数少ない。
何となく、優越感が胸をかすめる。
それにしても、本日は色々収穫のある日だった。
久々に手塚と打ち合ったが、矢張り彼の技術、才能はズバ抜けて高い。
そういう相手と試合が出来るという事は自分にとっても幸せな事だ。
もっと高く、上に登ってみたくなる。高みを目指したくなる。
「…っと」
慌てて紙面に意識を戻す。
試合が終った今じゃないと書けない事が沢山ある。ある意味データとは生モノに近い。
随分前にそう言った事があるが、それを聞いた彼は、生真面目な顔で「そういうものか。」と神妙に返答していた。
「………。」
しばしノート作成に没頭する。
コートから一年生が消え、太陽が傾ききった事にようやく気づいたのは、隣に気配を感じたからだった。
「まだ帰らないのか」
声のする方に視線を向ける。見るとあれから顔を洗ったのか、タオルを頭から被った手塚が座っていた。
普段几帳面な彼がそんな格好をするのは何となく珍しくて、まじまじと見入ってしまう。
「…あ、もうそんな時間?」
ノートを閉じる。
手塚はコートを見たまま、無言で頷いた。その動きで髪先から拭いきれていない滴がポタポタと零れ落ちる。
「お前が帰らないと俺も帰れない」
部室の鍵当番である大石は基本的に早朝部室を開けるだけで、帰りは手塚が担当している。
「そうだった」
「まだ時間掛かるのか?」
それ、と手塚が手元のノートに目を遣るが、首を軽く振って否定した。
「いや、キリもいいし。残りは家で仕上げるよ」
「…そうか」
そう言って、彼はまた口をつぐんでしまった。
何というか、普段無口な彼と二人きりになる場合、こちらとしては会話の糸口を探すべく密かに焦ってしまう。
沈黙に身を委ねるのもいいが、今日はもう少し、話をしたい。
そう思って、口を開きかけた。
「手塚、」
「俺のデータ」
「え?」
話を仕掛けたものの、予想もしなかった突然の割り込みに、応えた声は妙な具合になってしまう。
「俺のデータは、採れたのか」
手塚は矢張りこちらを見る事無く、問いをかける。
「うん。」
「そうか」
貴重なデータを採らせてもらったよ。
「…ならいい」
静かな声音でそう呟くと、手塚は頭にあったタオルを首にかけ直して、また黙り込んでしまった。
しかし帰る気配も無いので、
「手塚、」
もう一度、声をかけ直してみる。
「なんだ」
「下らない事なんだけどさ、」
そこで一旦、言葉を切って。手塚が次の言葉につられて顔を上げるまで待った。
「なんだ?」
顔を上げた。
「今日、俺の誕生日なんだよ」
「…」
「で、今日の試合、手塚に勝ったら何か奢ってもらおうかなーって思ってたんだけど」
「…」
「負けたんで、駄目になってしまいました」
「…」
「残念」
「…俺は奢るなんて言ってないぞ」
「いやそうだけど。いやでもまずそれを聞いての第一声は誕生日おめでとうだと思うんだけど」
手塚らしい言い分に思わず肩を震わせながら指摘してみる。
それを受けた彼は憮然とした表情を浮かべ、知るか。と小さく呟いた。
「手塚、」
それでも席を立とうとはしない。
矢張り彼は、面白い。
「下らないついでにもう一つ、訊いていいかな」
「…今度は何だ?」
切れ長の瞳が、眼鏡の奥から鋭く覗く。
冷徹な印象を増長させるその小道具は今もその役割を忠実に遂行していた。
「今日の試合、本気だった?」
手塚の両眸が驚きで固まる。
別に、彼を疑っている訳では無い。
むしろ、疑っているのは常に自分自身で。
俺は彼に、例え僅かでも、一瞬でも本当に本気を出させる事が出来たのだろうか。
いい試合だった、と。
思ってるのは自分だけで、それは唯のみっともない一人よがりかもしれない。
自分の力を出しきったという満足感の裏側で、薄暗い焦燥感が首をもたげ始める。
いつも彼と試合すると、その繰り返し。
…あ、でも。
久々に伝家の宝刀を拝めたのは嬉しかったな。
あれは滅多に見れるもんじゃない。いいデータが採れた。
「乾」
「…あ、はい」
自分で質問したクセにうっかり自分の思考にずるずるとハマってしまっている。
慌てて手塚の方を見ると、彼の眉間には深々と不機嫌の印が刻まれていた。
形のいい唇が微かに動き、息を吸い込んだのだと分かった瞬間、
「お前の目は節穴か!」
と、一喝される。
「…」
「どう言えば満足なんだ?信じてもらえるんだ」
「手塚…」
怒っている。
怒鳴られた事なんて初めてなので、唖然としてしまう。
「本気だったと、いい試合だと口で言えばいいのか?そんなものは試合をすれば分かる事だろう」
「…」
厳しさを帯びた黒い瞳がぶつかる。
「俺は何時でも、相手が誰だろうと本気だ。その事はお前が一番分かっているだろう」
違うか?
手塚が瞳で促す。
彼は、俺の観察眼の鋭さを評価してくれている。
この言葉はおそらく、それを見越しての発言なのだろう。
けれど彼は知らない。
そんな言葉にも密かに心臓が躍る、猥少な男の存在を。
「それとも、そう思っていた俺の目の方が節穴だったのか、乾?」
何とか言え。と彼の体から怒りのオーラが漂っている。
「いや、俺が悪かった。変な事訊いて御免」
両掌を合わせ、謝罪するが手塚は目を合わそうとしてくれない。
…しかし。
こんなに怒ってくれるとは思わなかった。
彼の真剣な怒りと一喝は、下らない感情を吹き飛ばしてくれるのに十分な威力を発揮してくれた。
怒られて、嬉しくて、笑う。
「…何が可笑しい」
手塚を逆撫でしてしまうと分かってはいるのだが、如何せん、どうにも笑いが止まらない。
「や、うん、御免。うん…帰るか、手塚」
パン、とノートについた土埃を払って立ち上がる。
手塚は相変わらず憮然とした顔で、つられるように立ち上がった。
「乾」
「はいはい」
きびきびと先を歩いていく彼の背中をのんびりと追いながら、返事をする。
昨晩まで雨が降っていたせいか、日の暮れた花壇からは土の匂いがけぶっていた。
大きく息を吸い込む。
湿り気のある濡れた空気が肺にわたる。
「和洋中どれか選べ」
「へ?」
「何か奢る」
突然。
手塚の背中が、普段では有り得ない言葉を吐いた。
「…へ!?」
「誕生日なんだろ。どれか選べ」
「いやそうなんだけど、いいのか手塚?」
「いいから言ってるんだ。俺は和食がいい」
心持ち早足で、ようやく手塚に追い付く。
「じゃ、和食。奢って下さい」
ニッコリと、隣を歩く彼の顔を覗き込むと、
「さっさと着替えるぞ」
手塚は相変わらず、薄暗闇でもそれと分かる無表情でそう応える。
部室までは6メートルか、少し長いか。
その距離を二人、黙々と歩いた。
脇に植えられている紫陽花が薄く色づいている。
その沈黙の時間は、暖かかった。
□END□