「乾、少し尋ねたい事があるんだが」
 「ん?何?」
 「キスマークと云うものを知っているか」



真剣な顔でそんな爆弾質問を告げられたのは、日も暮れた部室での事だった。



 
上手な手塚の



解散の号令を掛けた後。
手塚は乾を呼び寄せ、コートの隅で今後のメニューの相談をしていた。
ああでもないこうでもない、と話し合っている内に段々とノートの文字が見え難くなる。
怪訝に思い顔を上げ、そして漸く2人して太陽が沈んでしまった事に気がついたのだった。
 「とりあえず部室行こう。着替えたいし」
乾の提案に手塚も同意し、揃ってコートを辞し部室に戻ると、いつも中の灯りが漏れている窓が暗い。
扉を開けると珍しく部員達は早々に引き払っており、誰も居なかった。
で、先刻の話だけど…と室内の蛍光灯スイッチを手探りで押しながら、乾が続ける。
後に続いて手塚が頷きながら部室に入り、各々自分のロッカーの前まで来てユニフォームに手を掛けた。
手塚は一旦眼鏡を外すのだが、乾は上着を脱ぐ時でさえ眼鏡を外す事はしない。
彼なりのポリシーなのだろうが、手塚などは眼鏡をしたまま着替える乾を唯純粋に器用な男だ、と思っている。
 「じゃあそんな感じで一先ず仮メニュー、作ってみるから」
 「ああ、頼む」
目下彼等を悩ませていた問題が半ば片付いた事で肩の荷が下りたのか、互いに溜息を吐く。
部員達の能力はまだまだ伸びる。同じメニューばかりでは何時かは身体にそぐわなくなる。
その為彼等の身体に沿った幾つかのメニューを作成しておかなければならない。
本来ならばこういう事は竜崎や手塚が考えなければいけない。しかしつい乾の博識さに頼ってしまう。
結局今回も相談を持ちかけてしまったのだが、彼はいつも何も言わない。
 「いつも悪いな」
本当に、そう思う。
しかし乾は両眉を上げ、驚きの表情を取った後、
 「何で?俺は好きでやってる事だからいいんだよ?」
手塚は気にしなくても。と静かに付け加えた。
そういうさり気なさに、いつも救われていた。

 「…あ。」

羽織ったシャツの釦を留めていた手塚の指先が、フと停止する。
顔を上げ、先に着替えを済ませ隣で鞄の整理をしていた乾を、呼ぶ。

 「乾、少し尋ねたい事があるんだが」





そして、冒頭の会話に続く訳なのだが。



 「…へ?」
間の抜けた声を出したのは、勿論乾の方である。
手塚は黙々と残りの釦を留めながら、再び口を開く。
 「昨日部室でそういう話になった」

「そういう話」の内容はこうだった。
その時も、部活が終わって部室で着替えていた最中だったらしい。
昨日はレギュラーのみ特別練習メニューが敷かれており、部活が終了するのも遅かったので、
部室にはレギュラー達しか居なかったのだという。(乾は親戚の法事の為昨日は学校を早退していた)
手塚がコートの最終チェックを終え部室に戻った時、中には菊丸、桃城、そして越前が残っていた。
何やら三人は机の周囲に車座で座り、異様に盛り上がっていた、そうだ。
部屋に一歩足を踏み入れた途端、菊丸が勢いよく顔を上げてこちらを見た。
 「手塚〜!桃のヤツやーらしーんだぜー!!」
そこまで云うのと、桃城に口を塞がれるのはほぼ同時だった。
 「わー!部長にまで言わなくたっていいじゃないっスか!!」
 「らってほほ、ほれはふじゅんいへーほーゆーだ!…っぷは!手塚に叱ってもらえー!」
小動物のような動きで桃城の腕から逃れた菊丸が、ロッカー前まで来た自分の方へ走り寄ってくる。
 「桃のヤツ、首にキスマークなんて付けてんだぜ?」
なーまいきー!と更にコメントを付けた菊丸の言葉の後に、越前が慌てている桃城を冷静に眺め、呟いた。
 「フツーこんな見えるトコには付けませんよね」
 「うっせー!不可抗力だよ!!」
 「やっぱ付けたのって不動峰のあの可愛いコ?桃つき合ってたんだ?」
再び色めき立ち、騒ぎ始める三人。
対する手塚は着替えつつ、事の成り行きを無言で見つめていた。
キスマーク、と云うものが何たるか、彼は理解らなかったのだ。
漠然と、なら理解る。

しかし。
マーク?印という事なのか?
キスとは違うのだろうか…?

諾々と考えていた姿を怒っているように見えたのか、桃城が慌てて頭を下げる。
 「す、すみませんでした部長!以後気をつけます…!!」
 「…ああ」
単にそれしか答えようが無かった。…のだそうだ。



 「で、キスマークとは一体何なんだ?乾」
 「…あー、成程…そうきたか…」
何となくがくーっと項垂れたくなった。いや、実際項垂れてしまった。
読んで字の通りなんだけどなあ、と思う。多少ニュアンスは違うのかもしれないけれど。

乾が項垂れるのには然るべき理由がある。
手塚が乾にそういう質問をするのにも、理由がある。

つまり、簡単に云ってしまうと彼等は現在人知れず交際中だった。

彼等にも馴れ初めやら何やら人並みに色々とあったのだが、それはまた別の話。
世間ではこの不毛な関係にどういう評価が下るのかは分からない。
唯、乾には手塚が必要だし、逆もまた然りであって。今こうして此処に居る。

けれど、乾は手塚に触れない。
唇には触れる。キスはする。身体には触れない。

まだ。

乾には乾の計画があるのだ。
じわじわと手塚を陥していく、策略を懐に隠している。
気が付けば自分が隣に居る。気が付けば自分が必要になる。
そして最終的に、自分だけしか見えなくなる。要らなくなる。
そういう課程をそれこそ時間を掛けて楽しみたい。乾はそう考えている。

なので、突然こういった横入りをされるととても困るのだ。

そもそも乾はキスマークを残さない。
どちらかといえば其れは苦手だというスタンスの持ち主である。

相手の肌に紅く付く印。
其れがまるで「自分のものだ」と主張しているようで。
あまり、好きではない。

独占欲は強い方だと思うのだが、其れで繋ぎ止めておくのは疑問を感じる。

まあ、相手も自分と同じ性故そういう風にされるのは厭だろう、という考慮もあるのだが。
(それでなくとも手塚はプライドが高いからなぁ…)

乾はキスマークを残さない。
だから手塚は其れを知らない。

うーん。と小さく唸って、顎をさすりつつ手塚を見下ろす。
 「気になる?」
 「ならないと云えば嘘になる」
決然と答える手塚。如何わしい話の内容とのギャップが何だか可笑しい。
そんな事を頭の隅で思いながら、「そうか」と中指でズレた眼鏡を整えた。
 「キスマークってのはね、キスをされた肌に残る軽い痣。の事だよ」
 「痣?」
 「そう。痣」
頷いてから、分かったような分からないような表情を浮かべている質問者の肩をポンと叩く。
 「厭じゃなかったら今度実践してあげよう」
そう云って口許だけで微笑むと、手塚は僅かに眉を顰め「…考えておく」とだけ呟いたのだった。



 「…ってぇ話をしたんですよー乾先輩!」

翌日。
授業が終了し、バラバラと部室に集まってくるテニス部の生徒達。
その中に、先日の当事者である桃城と、間接的に関わってしまった乾が居た。
 「ヒドイと思いません?!何も手塚部長にまでバラさなくってもいーじゃないですか!」
ねェ!?と泣きっ面を浮かべ、桃城が乾相手に愚痴を垂れる。
乾はその容姿からなのか言動からなのか、何故かよく後輩達に相談事を持ち掛けられる。
この話題も自分が桃城に振ったのではなく、部室に赴いたら桃城が勝手に喋り出したのだ。
 「だって桃が見える場所にそんなの付けてくるから悪いんだよー」
桃城と少し離れたベンチに腰掛けテニスシューズに履き替えながら、青学テニス部の小悪党・菊丸が口を挟む。
乾はジャージに袖を通しながら、「そうだなー」と当たり障りのない返答を繰り返していた。
 「だからってよりによって部長にバラさなくても〜!」
アレは絶対怒ってた、怖ェ〜!と桃城が大げさに項垂れる。
 「わはは、ゴメンって〜。確かに手塚、そーゆー話駄目っぽいもんなぁ」
 「まぁねぇ」
それは手塚が無知なだけなんだけどね。

 「…でも正直な話、男だったら嬉しくないですか?キスマーク付けられるの。付けんのも、ですけど」
 「おお、桃が開き直った!」
 「じゃなくて!マジな話っスよ!」
桃城が話題を混ぜっ返す菊丸を真剣な顔でジロリと睨む。
その視線を受けて靴紐を結び直していた菊丸が興味深そうに、次の言葉を待つ。
途端、大きな溜息が聞こえたのでそちらを見ると、海堂がラケットを片手にさっさと部室から出て行く途中だった。
 「…マジな話」
桃城が復唱した。
 「うーん。確かに…嬉しいかも」
 「でしょ?だから手塚部長も…その辺、分かってくれませんかねぇ〜」
 「そうだねぇ」
俺が教えてないから、分からないだろうねぇ。

 「…ともあれ、キスマークは見えない処に付ける。これは常識だしマナーだぞ、桃城」
ガタン、と席を立ち、ノートを手にした。
菊丸も「そーそー」と賛同し、ラケットをクルンと回しながら扉を開ける。

 「へーい…」

桃城の情けない返事が背中越しに聞こえ、思わず菊丸と顔を合わせ笑う。
先輩方は往々にして、後輩苛め(勿論愛情表現としての)が大好きなのだ。



 「あ、そうだ。手塚、昨日の話だけど」
先に口を開いたのは、乾。
 「昨日、」
正面に座っている手塚が口中で同じ言葉を短く呟く。
そうする事で話の内容を思い出している。それは彼の癖だった。
 「そう。キスマークって何だって話」
 「…ああ」
本日は昨日のように部室に誰も居ない、という状況では無い。
けれど2人は練習を早めに切り上げ昨日決めたメニューを竜崎に見てもらうべく、現在校内に居る。
竜崎が指定した空き教室で彼女の到着を待っているのだが、
職員会議が長引いているので打ち合わせに遅れる、と先程連絡があったのだ。

(部活の事は大石に頼んであるから大丈夫だとは思うのだが…、)

そんな事を淡々と考えていると、急に乾がそんな事を言い出したのだ。
…確かに、質問したのは自分だ。けれど。この場所で蒸し返されると、何となく居心地が悪い。
黙ったままでいるのに、そんな手塚を気にする事無く乾は相変わらずの無表情で淡々と続きを話し始める。
 「手塚が厭じゃなかったら、って云ったんだけど、やっぱり一度実践しておこうと思って」
わざと視線を外していたのだが、「実践」の言葉にぎくりとし、思わず声の主を見た。
 「現に手塚も気になってるみたいだしね」
互いの視線が合う。絡め取られる。
乾の口許が静かに笑みの形を結ぶ。
 「百聞は一見にしかずって諺もある事だし」
手塚の思考が、正面に座る男によって、攪乱され始める。
 「手出して」
スッと乾が腕を出す。
その動作に少しだけ身動いだが、手塚は素直に左手を差し出した。
手首を柔らかく捕み、甲を表側に向けると其処に乾が恭しく顔を寄せた。

唇が直に、肌に触れる。

不意にもたらされた感触のせいで、無意識に指先が震えた。

その時。
チリッと軽い痛みが手の甲に走る。
思わず手を引こうとしたが、許されない。
キス。
とは違う。



これは。


これが。



乾がそっと唇を離す。
眼鏡から覗く瞳が、少しだけ笑っている。
 「紅くなってるとこ。これが、キスマーク」
指を指され、手塚は自分の左手を注視した。
見ると先程口づけられた甲の部分が、にわかに紅く変色している。
 「そんな強く吸わなかったからすぐ消えるよ」
気になるようだったら虫に刺されたとか云えばいいし。
乾が其処で口を閉じる。
話しかけていた相手はというと、未だまじまじとその箇所を見つめていた。
(そんなに興味深いものなのだろうか…)
そんな彼の様子が面白くて、乾もまじまじとその姿を見つめる。
 「これがキスマークか」
 「うん。キスマーク」
 「………。そうか」
 「…あ。今、何か考えただろう」
机に頬杖をつきつつそう云ってやると、憮然とした手塚の表情が少し変化する。
 「考えてない」
 「嘘。何かもっと、」

いやらしいモノだと、思ってた?

ガタン、

椅子から腰を浮かせて、
机を挟んだ向こう側に居る、
目を見開いた手塚の肩を掴んで、
耳許に顔を寄せた。息だけでそう囁いた。

そのまま、首筋から項に唇を伝わせて、後髪の生え際辺りに口づける。
 「…!い…ッ」
先刻よりも強く、そして深く、
其処を吸うと、手塚の身体が分かり易い程反応する。
 「…ぅ、」
痛みに耐えるくぐもった声に身体を離すと、椅子の背に申し訳程度にもたれ掛かる手塚が見えた。
 「痛かった?」
頬にゆるりと手を遣る。
顰められた眉、レンズ越しに薄く潤む両眸。
 「痛い」
 「これが本当のキスマーク」
にっこりと笑いながら、乾がしたり顔でそう云う。
頬に這わせた手を髪の毛に移動させ、機嫌を直すように黒髪をポンポンと軽く撫ぜた。

 「竜崎先生遅いなぁ」
 「…乾、まだ痛いぞ」
 「痛いだけでもないような」

飄々と苦情を受け流す乾。
益々表情が険しくなる手塚。



結局それ以後。
手塚は、竜崎が来るまで押し黙ったままだった。






□END□