Erkenntnis
乾の 掌 が好きだ。
関東大会第一戦。対氷帝学園。
跡部との長時間に渡る試合の結果、いよいよ左肩の具合は悪くなった。
『正直、こちらの施設では完全に君の肩を治す事は難しい』
先程医者が云った言葉を頭の中で反芻する。
『しかし君の通っている学園には、きちんとしたリハビリセンターがある』
九州、宮崎といったか。
渡された冊子に目を通したが、最先端の医療設備が整った素晴らしい施設だという印象を受けた。
梅雨が去り、一足早い蝉時雨が降り注ぐ中、図書館へと続く道を黙々と歩く。
歩いている内に、無意識に全身を支配していた軽い筋肉の強張りが解けていくのを感じていた。
病院は、何時まで経っても苦手だ。
『完治するまで時間が掛かるし、辛いかもしれない。けれど行ってみる価値は充分にあると思うよ』
先程は頷いてみたものの、実際問題自分が全てを放棄して九州に征く事に、少しだけ躊躇したような気がする。
気がするのだが、何故そんな気持ちになったのかが、今となっては理解らない。
それがとても気持ち悪かった。
「…」
不意に止まりそうになった足を再び前に出して、蝉の声を受けながら進んだ。
今年は夏が来るのが早いのだろうか。そんな事を思っては手を目前に翳して、前方を確認する。
快晴ではないし、厚い雲がぶら下がっている空は、けれど雲の上で差しているのだろう太陽の所為でやけに眩しく感じる。
病院から図書館までの距離はさほど時間を要しない。途中に大きな公園があるのだが、平日の午後という時間帯の割に人が疎らだ。
前方に目を遣れば、既に赤煉瓦造りの巨大な建物が緑の隙間から姿を現している。
都が管理しているその建造物は、老朽化、利便性などを考慮した結果、駅の近くにもうひとつ新たな図書館を建造するに至った。
その為此処はおそらく年内に閉館、そして取り壊される予定になっているそうだ。
自分としては、例え古びているとはいえ、そのどっしりとした外観や落ち着いた雰囲気が気に入っていたので、
閉館するまで足繁くこちらに通うつもりだったのだが。
右肩に、荷物の入った鞄を背負い直す。建物の奥、図書館の玄関ホールへ回り込むと、視線が見知った後ろ姿にぶつかった。
「…乾」
特徴のある髪の毛がピクリと動き、長身の男は顔をこちらに向ける。黒をベースに色調を抑えた私服姿の…やっぱり乾貞治だ。
「手塚」
眼鏡の奥、少しだけ驚いたような表情を乗せた瞳で、乾は自分を呼んだ。
「…も、この図書館使ってたんだ?」
「あぁ。落ち着くし、最近は人も少なくなったから」
「皆新館の方へ行くしな、便利だし。わざわざこっちへ来るのは」
手塚や俺みたいな、変わり者だけか。と、そう云って口許だけで笑う。
それにしても、真逆こんな処で乾に逢うとは思わなかった。予想外の展開過ぎて、現実感が無い。
「…しかし、残念だけど今日は休館だそうだよ」
「図書の整理日は水曜じゃなかったのか?」
「どうやら突発的みたいだね」
ほら、と乾が硝子の扉に貼られているカレンダーを指差す。
彼が差した其処には、後で追記されたのだろう赤いマジックで『休館日』と書かれていた。
「…気分転換にこっちで勉強しようと思ったけど、無駄足になったかな……いや、そうでもないか」
一人ぶつぶつ呟いている乾を訝しげに眺めつつ、結局自分も乾と同じ状況に陥ってしまったらしい。
来週から定期テストが始まる為、全ての部は活動停止だし、学校も午前で終了する。この期間中自分達がする事は一つだ。
「お前、学校終ってから来たのか?」
「うん。一旦帰って飯食って。手塚は今日、休んでたよね?学校」
何故11組の奴が棟の離れた1組の自分の事を知っているのか少し不可思議な気もしたが、気にせず頷いた。
「あぁ、病院へ行ってきた」
一呼吸置いて、乾からそうか。と返事が戻ってくる。
ゆる、と頬を撫ぜていく生温い風。
空を仰ぐと先程より湿気と重みを帯びた雲がぶら下がっている。この調子では天気が崩れるのも時間の問題かもしれない。
「手塚」
そんな事をぼんやりと思っていたら、乾の声が耳に落ちた。
「…なんだ?」
心持ち顔を上げると、こちらを見下ろす穏やかな顔。乾は静かに笑うのだ。
「どっか行こうか」
「…は?」
何を云われたのか理解出来ず訊き返すのだが、男はくるりと背中を向けてスタスタと歩いていく。
これは…
矢張りついて行くしかないのだろうか。
乾が無言で歩いていく道は、先程自分が病院から歩いてきた道だ。
(…何のつもりだ)
乾の突然の行動と言動に少しだけ戸惑う。けれど結局彼の後について行こうとしている自分が居る。
「待て、乾」
結局。
複雑な気持ちを抱えながらも、脚は乾の背中を、追い掛けたのだった。
そして今。
先程通った公園のベンチに、二人して腰掛けている。何時の間にか缶コーヒーを二本手にしている乾。
「奢るよ」と、その一本を差し出されたので、奢られる理由は無い筈なのだが、
既に購入された好意を無下にする事も出来ず、一先ず礼を云って受け取った。
再び訪れる静寂。
それを先に破ったのは、乾だった。
「左肩、どうだって?」
カシ、長い指が缶コーヒーのプルトップを撥ね上げる。
その何て事無い動作に、目を奪われながら。
「専門的な事は分からないが、完治するまで時間が掛るそうだ」
機械的に現在の状況、先程医師に云われた事をそのまま声にして出す。
「九州にいい病院があると、紹介してもらった」
「九州」
ぽつりと乾が復唱した。
湿り気を帯びた空気が、肌を這う。
大量の水蒸気がぶら下がった厚い雲。もうすぐ雨が降る。雨の匂いがする。
その前に、告げなければ。
「乾」
呼ぶと、隣の男がゆるりと顔を上げた。こちらをじっと見るその表情は、矢張りとても静かで。
「俺は九州へ行く」
そう云った瞬間。
四角い黒縁眼鏡の奥、僅かに瞳が痛そうに細められた、そんな気がした。
「左肩を完全に治したい。…もう、手段を選んでいられないんだ」
掌で転がす缶コーヒーの温い熱さ。その感触を肌に感じながら、驚く程スムーズに話す自分が、少し可笑しかった。
「うん」
乾が、変なタイミングで頷く。
「全国大会までには、帰ってくる」
「うん」
「だから、関東大会で、全国への切符を勝ち取って欲しい」
「うん」
と、左肩にふわりと感じる重み。顔をそちらに向けると、乾の顔がもたれるように其処にあった。
「乾」
「ごめんな、手塚」
俯いていて呟く乾の顔は、自分の位置から見る事が出来ない。
「何故謝る」
「うん。何か色々」
要領が掴めない返答。
何故、そこで乾が謝る必要があるのか、本当に理解出来なかった。
「俺は、とてもいい試合をした」
「うん」
あの時、肩が壊れても構わないと。
テニスが出来なくなってもいいと。
純粋にそう、思ったのだ。
「だから、後悔はしていない。こうなったのも自分の責任だ」
だから、お前が謝る必要なんて無いんだ。
それなのに。
「うん。でも、手塚は…馬鹿だよ」
肩口が冷たい。
乾の顔は見えない。
「…ほんと、馬鹿だよ………」
乾が泣いている。
その事実にただ、困惑する。
「…何故お前が泣く」
馬鹿みたいな質問。
それに反応するように、ひく、と乾の広い肩が痙攣するように揺れた。
「…っ、ぅ、何故っ、て……、」
横隔膜も痙攣しているらしい。鼻声混じりのそれは、酷く聞き取りにくいものだった。
「泣くな」
乾は馬鹿だ。
「泣くよ」
本当に馬鹿だ。
「…っ、涙腺壊れた、…手塚、のせいだ、…」
「…何だそれは」
云い掛けようと口を開けば、頬に何か冷たいものが当たったので、そのまま空を仰ぐ。
濃灰色の天からバラバラと降ってくる透明な雫。
「…泣くな、乾」
図体のでかい男が泣くのはみっともない。人が居ないとはいえ、こんな公衆の場所で。
そう、思っていたけれど。
実際こうして泣く乾は、妙に情けなくて、小さく見えた。
空いている手で、缶コーヒーを力任せに握り締めている隣の男の手に、触れた。
不器用に触れ合った手にポタポタと落ちる水滴。
雨か、涙か。
混じり合ってしまった其等がどちらなのか、判断なんて出来ないけれど。
「乾、」
乾の掌が、好きだ。
髪の毛に、肌に、手に触れてくる、自分より少しだけ温度の高い、大きな筋張った指。
何度もその手を撫でている内に、心の奥にずっと蟠っていた感情が、するりと解けていく気がした。
あの時返答に躊躇したのは。
妙な、違和感があったのは。
こうして自分の為に手離しで泣いてくれる乾という存在が居たから。
「…お前が泣いたら」
その存在を、知ってしまったから。
「俺が泣けないんだ」
乾は馬鹿だ。
そして俺も馬鹿だ。
降りしきる雨の中、二人して其処から動けなかった。
触れ合わせた掌から伝わる体温は、雨の冷たさを撥ね返すようにとても熱く。
布越しに左肩を濡らしていく乾の涙も、吐息も、同じように熱い。
乾の 掌 が好きだ。
乾の 事 が好きだ。
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