慣れたといえば嘘になる。

誰も訊かないから云わないだけで。本当は。



君といつまでも



風呂から上がり、洗い髪から絶えず落ちる温い水滴をタオルで拭いながら、備え付けのベッドに半ば倒れるように腰掛けた。
目を閉じると、心地よい疲れがゆっくりと身体の隅々まで満たしていく。

こちらに来て待っていたのは、無機質な白い壁と、人工的な緑の中での、検査と治療、そしてリハビリ。
それは当初地獄でしかなかったけれど、毎日義務づけられたメニューをこなすうちに、段々と気にならなくなっていった。
ただそれだけをこなしていれば楽だった。結局あの時の自分は、何も考えたくなかったのかも知れない。

無意識に、ベッドから少し離れた机の上に置いてある、携帯電話に視線が行く。
こういうものは、本当は持ちたくなかったのだ。
伸ばしかけたけれど結局目的を果たせず、ぱたりと腕が、シーツに力無く落下する。

特に、メールとか。

定時になると必ず受信されるメール。
最初の頃、薄気味悪いから止めろと云ったが、送り主は何処吹く風で送り続けてきた。何日も、何日も、何日も。
メールの内容は他愛もないものばかりで、先日行われた小テストの平均は何点だったとか夕飯は自分の好物だったとか、
本当にくだらなくて、何度削除しようかと思ったか知れない。
必ず最後に入れてくる「おやすみ」が特に嫌だった。
そして、そんな無機質な文字に感情を左右される自分が、何よりも一番嫌だったのだ。

23時。
ピピッ、とデジタル時計が正確に時を知らせる。
再び携帯電話に目を遣って、そんな自分に微かな苛立ちを覚えた。
これはもはや習慣なのだ。いつもあるべき処にある物が無い、そういう時に訪れる違和感。
あの男からのメールだって、きっとそういうものなのだ。
勝手に解釈して、納得する。そうでないと今、何故自分はこんなに落ち着きが無くなっているのか説明がつかない。

ピ、
一人納得して頷いた瞬間、机上の携帯電話から甲高い音が鳴った。
気づいたらベッドから立ち上がり、携帯を握りしめていた。5分も遅刻だ、馬鹿者。
先程まで宥めすかしていた自分の感情が、この小さな機械の、電子音で全てが無に帰す。
こんなにも、翻弄されているのだ。

この電話に。この男に。

腹立たしさに少しだけ乱暴になった指先で携帯のメールボックスを開ける。
見慣れた送信者の名前と、それに続いて短い本文。
句点含めて8文字のその内容に一瞬息を詰めて、もう一度読み直そうとした瞬間、持っていた電話から再び音が鳴った。
反射的に通話ボタンを押してしまって、すぐに後悔したけれどもう遅い。

 「手塚?」

唐突に耳許に落ちてきた低音に、まるでその声に絡められたように、立ち竦んだまま動けなくなった。

 「手塚」
 「…なんだ」

返事をしたその声は、ひどく張りつめて掠れがちで、相手が聞き取れたのかどうか分からない。

 「ごめん、手塚。急に電話して」
 「心臓に悪い」
 「ごめん、事前にメールしたんだけど」
 「見た途端電話が掛かってきたんだ」
 「ごめん、なんか焦って」

全く謝罪する気も無いようなごめんを何度も繰り返しながら、乾はその割にはのんびりと落ち着いた声でそう告げた。

 「…用件はなんだ?」
 「手塚さ、ベガとアルタイル知ってるか?」

唐突に、明らかに日本語ではないだろう単語混じりの質問をされたが、知らなかったので知らんと一蹴した。
乾はその返答を予測していたのか、少しだけ笑って言葉を続ける。

 「ベガっていうのは元々『落ちる鷲』って意味のアラビア語で、琴座の首星でね、日本では織姫星って云われてる」
 「ほう」
 「で、アルタイルは『鳥』って意味のアラビア語。鷲座の首星で」
 「彦星か」
 「ご名答。中国では牽牛星とも云われる」

奴の回りくどい蘊蓄が始まる時は、そのかなり先の処に本題が用意されている証拠だ。

 「…で、何が用件だ?と云っている」

携帯電話を持つ手を代えて、溜め息と共に先を促す。
指先にカーテンを引っかけ、窓から見える濃紺の空に顔を上げれば、
市街地の明かりが邪魔をしていたけれど、白い星達が健気に瞬いていた。

 「じゃあ手塚に質問。今日は何月何日?」

まるで小さな子どもに尋ねるような声音。
こちらが質問したというのに何故か質問で返される。
その理不尽さに少しだけ戸惑いながら、それでも男の質問に答えるべく息を、吸い込む。

 「七月七日だな。ちなみに七夕でもある。…ここから先の説明は省くぞ」

ベガとアルタイル。
織姫星と彦星。

なんとなく、ではあるが分かってきたのだ。
宮崎へ発ってから一ヶ月弱、その間たった一度だって声を聴く事が無かった。
それなのに、今日この日に、突然電話が掛かってきた理由が。

 「織姫と彦星って、お互い天の川の対岸に居るんだよ」
 「ああ」
 「一年に一度しか逢えないんだ」
 「そうだな」

窓際の壁にもたれ、乾の静かな声を聴く。
その抑揚の無い淡々とした低音は、耳触りが良くて嫌いではなかった。

 「それに便乗した訳じゃないんだけど、気づいたら番号押してた」
 「…お前らしくない行動だな」

いつも冷静で物事の一つ先二つ先まで読んでいるこの男が、ささやかな感傷に動かされるなんて。
云ってやると、電話口の向こうから吐息混じりの囁くような短い笑い声が返ってくる。

 「そうかな、俺らしくないか。でも、声が聴きたかったんだ」

前髪から降ってくる透明の水滴が、ポタリと視界の邪魔をする。

 「手塚の声が、すごく聴きたかったんだよ」
 「…」

何と。
答えたら良いのだろう。

情けない話だが、こういう状況下でリアクションを起こす事が、自分は非常に苦手な人間だ。
相手に対しどう返していいのか、理解らないのだ、真剣に。

 「………そ、そうか」

結果、悩んだ割には物凄く胡乱な返答をしてしまって、心中ひどく後悔をした。

 「うん、そう」

けれど乾はそんな簡潔な返事を満足そうに繰り返して、穏やかに笑ったようだった。

 「しかし俺は女々しくて欲張りなんだろうか、手塚」
 「何がだ」
 「久しぶりに声聴いたら泣きそうだ」

全く以て単調な、落ち着いた声音でそう云われたって信用なんか出来ないけれど、気づけば思わず唇から苦笑が漏れていた。

 「別に女々しくは無いと思うぞ」

かつて一度だけ見た乾の泣き顔はひどく情けなくて、図体は大きいクセにまるで小さな子どものようで、結構好感が持てたように思う。

 「それに、声を聴いたら」

続ける事を躊躇うように一瞬だけそこで言葉を区切って。
しん、と静かな沈黙が流れる。
乾の言葉を待つ間、鍵を解いて窓を開けた。ベランダに出ると、緩い風が髪の毛を揺らしていく。

 「乾?」
 「手塚に逢いたくなった」
 「…」

少しだけ堅くなる声。

 「逢いたいよ」

感情を抑えている声。

乾は分かっている。
自分も分かっている。こんな事を云ったってどうにもならない状況を、きちんと理解している。
早く大人になりたくて背伸びし過ぎた結果、本当に子どもに戻れなくなってしまった自分達は、
悲し過ぎる程理論的で、客観的で、現実的だった。

けれど。
どうしようもなく想う夜がある。焦がれる時がある。

 「逢いたい」

電話越しでなく。
この言葉だって本当は、自分の耳で直接聴きたい。
そう切実に思う自分がいる。
乾に逢いたいと思う自分が、確実に居る。

 「乾、」
 「そっちの空は星が見える?」
 「…ああ」
 「天の川」
 「見える」

目を凝らす。多分あのチラチラと瞬く小さな星々の群れが、きっとそれなのだろう。

 「来年は一緒に見よう」

グ、と息が喉の奥で詰まった。
その後じわじわとその辺りが熱く、痛くなった。



ああ、これが。
「泣きたくなる」という感情なのかもしれない。



 「…ああ」
 「手塚、『ああ』多過ぎ」
 「煩い」

結局その後部活の話と他愛も無い話を一つ二つして、乾はそれじゃあと電話を切った。
切る前に「おやすみ」と、声がして、電話を終えた後も何故だかその声が耳の奥に張り付いて離れなかった。
気分を変えるように頭を軽く振って、ベランダから部屋に戻って時計を見ると、既に七月は八日に日付を変更している。

七夕は終わってしまったけれど。
乾と交わしている、静かで密やかな、緩い惰性の上で成り立っているこの関係は終わる事は無いのだろう。
どちらかが、又はお互いが限界を訴える日が来るまで、破綻する事無く、ずっと続いていく。

 『おやすみ』

携帯を置いて、眼鏡を外した。
部屋の照明を落とした後、じわりと滲みるあの声を頭の中で反芻しながら、緩く目を閉じる。



今夜は心地良く眠れそうな気がした。






□END□