「一緒に逃げよう」



正面に座る乾が極めて真面目な顔で、そう云った。

 「…」

僅かな時間、考え込む。
しかしそれに対する的確な返答が思いつかなかったので、結局黙っている事にした。

 「このままじゃあ袋小路だと思わないか」

円盤状の駒を指先で弄びながら、乾が続ける。

誰も許してくれないなら。

 「二人で、遠くに」

誰も居ない場所へ。

 「…乾、」

溜息と共に吐き出そうとした彼を牽制する言葉は、結局口に出すのを躊躇っている内に、

 「手塚も俺も傷つき過ぎたんだよ」

矢鱈はっきりとした言葉に、掠め取られてしまった。

ぱちり。

盤上で乾いた音がする。
四角い黒縁眼鏡の奥、乾の瞳が静かに促す。

 「…非現実的だな」
 「そうかな」

全てを捨てて。
たった二人で。

 「センチメンタルだと笑うかい?」

迷ってる時の癖だね、と以前指摘された気がする、
指で顎先を撫でる動作をゆっくりと繰り返しながら、言葉を探す。

 「そういう訳じゃない」

そこまで云う、この男の気持ちは痛い程良く理解るから。

ぱちり。

乾が視線を下に移動させる。

 「可能性は0ではないよ」

ぱちり。

再び、乾いた音。
隅を、取られた。

 「…乾、」
 「余り人の住んでいない場所って何処だと思う?」

肘を着いた掌に顎を乗せ、乾が静かに微笑む。
まるでまだ見ぬ遙かな土地に、想いを馳せるように。

 「…極」
 「え?」

残る空間は後二カ所。どう考えても、勝ち目は無い。

 「南極はどうだ」

半ば自棄のように提案すれば、正面の男は少しだけ驚いた表情で固まった後、柔らかく相好を崩した。

 「いいね、南極」

俺と手塚とペンギンだけだ。

その奇妙なシチュエーションが気に入ったのか、
何度も頷きながらそう云うと、手にした駒でとどめを刺した。
盤上では、前半優勢だった白が、今やほぼ黒に塗りつぶされている。

 「俺の勝ち。オセロ弱いね手塚」
 「煩い。勝負中関係の無い事をごちゃごちゃ云うな」

集中力が鈍る。
じろりと睨みつけてやると、乾が広い肩を竦ませた。

 「いや、関係無くは無いよ。全部本気」

きっと今の自分は物凄く怪訝な顔つきになっているのだろう。

 「オセロの勝負も、逃げようって云ったのも本気だ」
 「尚タチが悪い」
 「容赦無いなぁ」

苦笑する乾の大きな手の中に収まる白と黒の円い駒。



それはまるでペンギンのような。






□END□