キミには青学テニス部の柱になってもらいます。
そう云われたから、その役割を受け入れた。
全国への夢は一瞬たりとも諦めた事はありません。
そう云われてから、敗北する事は許されなくなった。
肩が、肘が、壊れても。
青学を全国に導く事が出来れば、あの人が戻ってくるような気がして。
自分を置いて行ってしまったあの人が、戻ってくるような、そんな気がして。
これは、罪だろうか。
己の醜い私情を引き摺って試合をした、あの人以外何も考えられなかった、力加減すら見失って左肩は使えなくなった。
これは、罰なのだろうか。
深夜、乾に呼び出された。
試合が終わった当日だから今度にして欲しいと云ったのだが、どうしてもと聞かない。
既にもう家の近くまで来ているという。彼らしくもないその急いた行動に僅かばかりの疑問と苛立ちを覚えながら、部屋を出た。
湯から上がったばかりの身体は幾分か体温が上昇し、庇うように入ったつもりの左腕の肘のあたりにも、厭な熱をはらんでいる。
静まりかえった玄関にひっそりと置いてある底の擦れた平坦なサンダルを、音を忍ばせ履きながらカラリと慎重に引き戸を開けた。
途端、湿った夜気が濃厚な夏の匂いをさせて肌にじっとりとまとわりつく。
小さく深呼吸をして庭を突っ切り門扉の外まで出ていくと、
数メートル程離れたところに設置されている街灯の下に、乾の長身がぽつんと所在無く浮かび上がっていた。
ここまで走って来たのだろうか、浅い緑色のトレーニングウェア姿で微かに肩を上下させている。
駅二つ分は軽くあるだろうその距離を。酔狂にも程がある。
半ば呆れながら無言で彼に近づく。アスファルトと接触するサンダルの乾いた音だけが、夜の闇に響く。
乾の前に立つと、呼び出した張本人の癖にその間ずっと無言だった彼が、困ったように眉を下げ、唇を動かした。
「ごめん」
開口一番から謝罪の言葉なんて、どういう理由であれ聞きたくはない。
「謝るくらいなら最初から来るな。用件を云え」
やや無情に切り返すと、うん。と長身が軽く頷く。
自分よりも背が高い男のその仕草は何故かひどく頼りなく、まるで小さな子どものようにも見えた。
「手塚風呂上がり?」
ふと、眼鏡のブリッジを押し上げた乾が素朴な口調で尋ねる。
「ああ」
そういえば、上がってすぐに電話を受け外に出たから髪を拭く暇も無かった事に気づく。
襟足や首筋に乾ききっていない水滴を含んだ髪の毛先が時折触れて、気持ちが悪かった。
「肘、怪我してるんだから温めるのは良くない」
街灯の青白い光に群がる小さな蛾や虫に視線を巡らせながら、至極真っ当な意見を聞く。けれど。
「それを云う為にわざわざ来たのか」
それすら受け流す事が出来ない程、今の自分は病んでいる。
「話が終わったのなら戻るぞ。それから、明日の部活は休みだ」
「手塚」
ジジッ、と頭の上で虫の羽音が鈍く震える。
構わず背を向けると、左肩にあたたかいものが触れた。あたたかいものは、乾の掌だった。
「手塚」
「なんだ」
何なんだ。
何でこんなに落ち着かないんだ。
何で目の前にある乾の顔が見れないんだ。
「手塚はまだ大和部長の呪縛が解けないの」
呪縛。
何の。
「大和部長の云う通り青学の柱になって、大和部長の云う通り全国制覇して、でもそれは」
何を。
乾は。
「それは本当に、自分の肘を壊してまでする程、大切な事なのか?」
心臓の音が、じわりと耳の奥底で爆ぜた気がした。
視線を自分の足先に張り付けたままで、否定する言葉を探す。
乾は間違っている。だから、糺さなければ。
「俺は、違う」
しかし口から出た言葉は整合性にも論理性にも欠けたもので、ますます混乱した。
命題と否定が成立しない。この場合どうすればいいのだろうか。自分は間違っていない筈なのに。
「違うんだ」
「そうだよ、手塚が違うんだ」
「違う!」
荒げた声が闇に吸い込まれる。自分のものではないようなそれに反射的に顔を上げてしまった。
やっと見る事の出来た乾の顔は、ひどく静かな表情を湛えていた。怒るでも哀しむでも無い、不思議な表情だと思った。
「三年間手塚を見てた。始めはデータを取る為だった。知ってた?心理面に何か変化が生じるとプレイスタイルにも影響が出るんだ」
静かな表情のまま乾は喋った。淡々と。
「手塚のプレイスタイルが明らかに変わったのは、大和部長に青学の柱になれって云われた頃からだ。
随分変わって驚いた。それまで取っていたデータを全部破棄する程にね」
トレーニングウェアのズボンのポケットに両手を突っ込んで、乾が肩を竦め自嘲するように口の端を引き上げる。
「それからも、ずっと見てたよ。大和部長が引退してからもずっと。
左腕に負担が掛かるからって俺がメニューを作っても、全然無視して練習してたのも知ってた。ずっと見てたから」
「乾」
無意識にただその名を呼んでいた。
胡乱な声が彼の耳に届いたかは分からない。けれど何故か、自分の口は彼を呼んでいた。
「肘を壊したのだって、本当は自業自得だって思ったりもするんだ。けど」
静かな表情は、いつしか俯いたまま見えなくなってしまっていた。
街灯の下に居るのに、項垂れて地面を向いてしまった乾の顔を、窺う事が出来ない。
「でも、もう、手塚」
ぽつり、と。
「大和部長はいないんだよ」
けれどはっきりと、乾は云った。
その時何故か左肘がうっすらと痛んだ。
愛しむようにそっとその痛みを服の上から、撫でた。
いない。
だから。
「…だから、何だというんだ」
「だから、手塚がこうして怪我するまでやる必要は無いんだっていうんだ」
「俺は俺の意志で勝ちたいと思っている。青学を全国へ導き、たい、と…」
判で押したような言葉。
同じ事を何度思っただろう。何度繰り返したのだろう。
自分の想いを隠す為、都合のいい大義名分よろしく仕立て上げたこの言葉を。
口にしながら、余りの馬鹿馬鹿しさに途中で声が出なくなる。
乾に至っては聞いているのかどうかも分からない。そもそも自分の本心を知っている人間にこんな事を云っても無意味に等しい。
「…」
「…やっぱり駄目かなあ」
不自然に空いた間の後、溜息混じりの弱々しい声が控えめに耳に触れる。
「やっぱり俺じゃ、呪縛は解けないのかなあ」
四方八方へ跳ねている短い黒髪。汗の所為でしっとりとそれは濡れている。
分かり易いところにあるつむじだな、とどうでもいい事を考えた。自分の為に、駅二つ分を走ってきた男。
「…そもそも、呪縛とは何だ」
「言葉の通りだよ。手塚は大和部長の言葉に縛られてる。一年の頃から、ずっと」
「俺は、」
それは違うと、訂正を入れようと紡ぎかけた言葉は、やけに決然とした乾の低音にさらわれた。
「俺はそれを解きたいと思った。今日の試合を見て、大和部長に捕らわれたまんまの手塚を見て」
ちょっと悔しかったんだ。
と、でかい図体の男が悪びれる様子も無く至極当然のように云う。
「くやしい」
何故そこでこの形容詞が出てくるのか理解出来ず、とりあえず声に出して復唱してみると、
左肩に乗っていたあたたかい乾の手が背中に廻った。瞬間。音も無く、抱き締められていた。
「乾」
「大和部長は戻って来ない」
「知っている」
「手塚がどんなに頑張っても、戻って来ないんだよ」
「知っている」
乾の肩越しから見える暗い道路の先に、見慣れた背中が見えた。
レギュラージャージを無造作に引っかけた、いつもの。
「俺、手塚が好きなんだよ」
くぐもった声が、耳の辺りでぼわぼわ響いた。
道路の先に見えていた筈の背中も、風が吹く度たなびくレギュラージャージのくたびれた裾も、いつの間にか消えている。
気温が下がる深夜とはいえ、初夏にさしかかるこの季節に他人と肌をこうして密着させているのは流石に快いとはいえなかった。
「それは知らない」
知っててよ、と自分の肩口に顔を埋めているのだろう乾が、力無い声で反応した。
首筋に、黒い短髪があたってむず痒い。
そういえば、あの人ともこんな事があったなと記憶をたぐる。尤もあの時は髪では無く髭だったけれど。
似たようなものか。
「お前は大和部長と似ているな」
何故か突然そう思ったので口に出して云うと、一呼吸置いて「物凄く不本意だ」と返ってきた。
本当に物凄く不本意そうな声だったので、そんな声も出せるのかと妙な感心をしてしまった。
「乾」
それきり乾は黙ってしまった。何度呼んでも返事をしない。
けれど抱き締めた腕は頑なに緩めようとしなかったので、抱き締められるままただその場所から見る事の出来る景色を見ていた。
少し顔を上げると、レンズの向こうで弱々しく光る星がちらちらと健気にも空の闇を飾っている。
街灯の下で、乾に抱き締められたままで、空を見上げ、そこにあの人は居るだろうか、と罰当たりな事を考えた。
乾は何も云わなかった。
□END□