試 行 錯 誤 を 繰 り 返 す。



Logos



 「…で、菊丸は今まで通り前腕筋を鍛えるメニューで」
 「あぁ」
 「大腿四頭筋と下腿三頭筋強化の、4人分のも作っておくから」
 「頼む」
 「あと、手塚」
 「何だ?」
 「キスしていいかな」


カシャン。


本日分の部誌を書いていた手塚の指からシャープペンが滑り落ちる。
彼と机を挟んで正面に座っていた乾が長身を屈めてそれを拾いながら、
 「相変わらず、いい反応するなぁ」
と、感情の読めない声で言う。
対する手塚は、乾の手からシャープペンを奪い取って、正面の男を睨みつけた。
 「…ふざけるな」
 「ふざけてないよ」
既にジャージから制服に着替えた乾が、少しだけ首を傾げる。
手に持った、膨大なデータが集大成されているノートをパタンと閉じて、机に置いた。
手塚の、部誌を持つ腕の力が強くなる。

部活が終わって。
レギュラー達のコーチ役に徹している乾から彼らの強化点をまとめて教えてもらいつつ、
部室で部誌を書いていたのだが、何時の間にか話の内容が違う方向に脱線してしまっていた。

乾は普通に、それこそ普通の会話の中にスルリとこんなとんでもない言葉を忍ばせてくる。
ある意味誘導尋問のような彼の質問にことごとく引っかかってきた手塚。
今日こそは騙されるまい、と警戒心を剥き出しにして、乾を見た。
 「…そんな警戒しなくても」
苦笑する乾。
 「うるさい。ここは部室だぞ」
何故自分だけがこんなにも動揺しなければならないんだ。
 「でも手塚、家に来ても俺がお邪魔してもさせてくれないし」
何故この男はこんなにも冷静で、余裕たっぷりなんだ。
 「…っ」
思わず言葉に詰まると、
何時の間にか正面から伸びてきた大きな掌に、顎を捕らえられた。

しまった。
そう思った瞬間、視界が急に霞み掛かり、眼鏡を取られたと気付く。
しかし時はすでに遅く、唇に落ちてきた別の感触に、身体が震えた。


どうして。
 「…ぬい…ッ」
 「キスだけだよ」
軽く触れるだけの口付け。何度も何度も繰り返される。
薄く目を開いて、抗議の視線を投げつけても乾は笑うだけで。
何時まで経っても慣れない口付けに、胸が、気持ちが、息苦しくなる。
 「…だ、れか…来る…ッ」
肩越しに窓を見ると、すでに外は暗闇に覆われており、人の気配は見当たらない。
 「大丈夫。内鍵、掛けてあるから」
 「―――…ッ!」
無言で思いきり肩口を叩いたが、相手は構わず顔を寄せる。

少しだけ深くなったそれに、僅かに眉をしかめて。
すると乾が眼鏡の奥で瞳を細め、ふわりと色づいた頬に指を這わせてきた。
 「前言撤回、してもいいかな?」
 「…な、にが…」
 「手塚、表情堅いって言ったけど」
そのまま指をサラリと黒髪に絡ませ、
 「全然、そうじゃなかった」
軽く目を見開いた手塚に、再び口付けた。


どうして。
机に置かれた部誌が、バサリと床に落下する。
 「…お前、は、ズルい…っ」
キスの合間に、洩らす本音。
 「何がズルイ?」
まるで駄々をこねる子供をあやすように、自分の背中を撫でてくる。
そんな行為が、すごく悔しくて。
 「…いつも、お前ばかりそんな…余裕で、落ち着いてて」
あの“厳格で冷静沈着”と謳われる部長にそんな事を言われ、
乾は軽く両眉を上げた。彼なりの驚きのポーズ、なのだ。
 「そう見える?」
 「…そうだろ、だって…そうだ」
一人で呟き、一人で納得する手塚。
部長の威厳が微塵も感じられなくなってしまっている。
そんな彼も可愛いなぁ、と。
乾は心の中でこっそり思う(勿論口に出しては言わないが)。

そのまま俯いている“可愛い”手塚の頬に触れて、顔を上げさせた。
コツン。と額同士をあてて、不安で一杯の、彼の両眸を覗き込む。
 「そんな事、無いんだよ?」

余裕?
落ち着いてる?
とんでもない。

 「手塚をこうやって抱き締めたり、キスしたり、する度ね」
彼の左手を掴んで、自分の左胸にひたり、と押し当てた。
 「すごく緊張してる。柄にもなくドキドキしたりしてるんだよ」
 「……」
乾の鼓動を掌で感じながら、切れ長の瞳が僅かに揺れる。
 「俺の事、買い被らないで。完璧だと思わないで。
 本当はいつも、頭の中で試行錯誤を繰り返しながら、手塚の事を想ってるんだ」
相変わらず抑揚の無い声。
けれど一言一言が、胸の奥底にじわりと落ちる。
余り感情を出さない、自分を抱き締める、大切な人。

 「…乾の方が、」
 「ん?」
左胸に指をゆっくり這わせながら、呟く。
 「乾の方が…表情の柔軟が必要だ…」
憮然とした表情で言われ、乾が少しだけ笑って、
 「全くだ」
そのまま手塚の、形の良い鼻梁に軽くキスをした。






□END□