頬をふわりと撫でる冷たい風に、紙面から視線を外し、顔を上げる。

 「待った?」

ばさ、と机に乗る使い古されたノートとぶ厚いテキスト。
暖かな喫茶店の中へ急に冬の匂いを連れてきた男は、走ってきたのか微かに肩を上下させていた。
隣の椅子に座ったまま、多少窮屈そうにコートとマフラーを脱いでいく乾を手塚は黙って眺めた。
そして再び手許に拡げていた書籍の、小さく横に並ぶ黒い文字へ視線を落とし、口を開く。

 「いや。別に」
 「そう」

水とおしぼりを持ってきた店員に一言コーヒーと告げ、
その背中を少しの間見送ると、乾は傍に置いてあったカップに指を這わせた。

 「冷たくなってるのに」

何か面白いものを見つけたかのように口許を綻ばせ、静かに笑う。
そんな彼をしばらく忠実に無視していた手塚だったが、結局集中力が途切れて、読んでいた本を閉じた。
そもそもこの男が喫茶店に飛び込んできた時点で諦めていたのだ。

 「講義が予想以上に長引いた。すまなかったな」

申し訳なさそうに謝った後、やれやれ参った、と乾が溜息を吐く。
彼の持ってきたテキストにそっと目を遣るが、専門的過ぎて手塚には到底理解出来ないものだった。
そうか、と短く相槌を打って、冷たくなったカップを手に取る。口に含んだ液体はひやりと舌を刺激した。
教養科目を取っていた頃はよく同じ教室に居合わせたが、学年が上がる度そういう事も少なくなった。
それを寂しいと思うような関係はとっくに終わっていたし、今ではたまにこうして待ち合わせをしたりする。
以前の、自分を見失う嵐のようなそれとは全く異なる、心地よく穏やかな時間を共有出来る事が、手塚は嬉しかった。
流れ始めた沈黙を破るタイミングで、店員がコーヒーを運んでくる。
ごゆっくりどうぞ、と愛想の良い笑みと言葉を残し去っていく華奢な背中を2人して眺める。

 「そういえば今日さ、バレンタインだって知ってたか?」

先に口を開いたのは乾だった。目の前に置かれたコーヒーからたつ湯気の上に掌をかざしながら。
やや猫舌気味の彼は、湯気が収まらない限り絶対にそれを飲まない。
こうして掌で温度を測り、自分好みの適温になってから口にする。そんな癖も長い時間の中で知った。

 「あぁ」
 「いっぱい貰っただろ」
 「いや…流石にもう」

断れるものは断った。と正直に告げると、それを聞いた乾は目を細める。

 「賢くなったなあ」
 「馬鹿にしているのか」
 「誉めてるんだよ」

じろりと睨んでやっても相手には全く効き目がない。
解っていてもあえて睨みつける。それが手塚なりのコミュニケーションだと、乾は知っている。
知っているから、大事にした。きちんと適度にバランス良く。大事にし過ぎて関係が破綻してしまったあの頃の自分達を良い教訓にして。

 「俺も貰った。全然学科の違う子なのに」

研究棟まで持ってきてくれてさ、とくたびれた鞄の中からごそごそと綺麗な包みを取り出し、乾は机の上にそっと置いた。
手塚は表情を崩さずにそれをじっと見下ろし、良かったな。と呟いた。

 「お前の良さを解る人がいて、良かった」

それは本心から出た言葉で、何のわだかまりもなくするりと出たそれに一番驚いたのも、手塚自身だった。
隣で乾が変な顔をしている。眼鏡の奥の瞳がこちらを凝視しているので、何故かいたたまれなくなり視線をずらす。
言葉にすると、変になる。いつもそうだ。
手塚はひっそりと暗澹たる気持ちになった。自分の伝えたい事とそれが上手く合致しない。
長い沈黙の後、突然乾が吹き出した。驚いて隣を見ると、男が両肩を震わせ声を出さず可笑しそうに笑っていた。
顔をくしゃくしゃにして、まるで泣いているみたいだった。

 「乾…」

とん、と凭れるように肩がぶつかる。乾の体重が手塚の肩に掛かる。
困惑して小さく名前を呼ぶが、乾の笑いの発作はなかなか収まらなかった。
店内のささやかな喧噪に紛れて、彼の発した声は聞き取りにくいものだったけれど、手塚は確かに耳許すぐ傍でそれを聴いた。
俺は手塚が好きだよ。と、彼は云った。やっぱり手塚が好きだ。
何も云えずに黙ったまま、右手首に巻いた腕時計に一瞬だけ目を留め、すぐに手塚は視線を乾の頭へと戻した。
つむじの辺りに残っている相手の寝癖がとても愛しいものに見えて、彼は今から始まる4講目を無かった事にした。







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