言葉にしなければ分からないと云う。
言葉だけでは分からないと、云い返す。
この似て非なる主張を互いに絶えず繰り返し、そして最後はどうでも良くなる。
多分答えは出てこない。探し求めどれだけ足掻いても、きっと答えなんて見つけ出せない。
それでも。
玄関から中へ足を一歩踏み入れた途端、手塚の表情は露骨に曇った。
部屋中が酒臭い。いつも比較的清潔で好ましく思っていた場所が、たった一日で劇的な変貌を遂げている。
ふらふらと微かに左右に揺れて前を歩く広い背中を、眺めるともなく眺めながら聞こえない小ささで溜息を吐いた。
感情を抑えようと声を落とした喧噪。結果訪れた永遠に続くような厭な沈黙。それは全て昨夜この場所で起こった事だった。
昨日。本当に、些細なきっかけで。
何かが壊れた。また、壊してしまった。
ダイニングキッチンに無造作に置かれている、くたびれた机と二脚の椅子。
大学の先輩から安く譲って貰ったのだというそれは、いつの間にか互いの指定席が決まっていた。
部屋の主に促されるよりも先にそこに腰掛け、鞄を床の隅に置く。
ほとんどがモノトーンでまとめられたある一角、茜色のコーヒーメーカーだけがかろうじて空間に華やかさをもたらしている。
乾はケーキの入った白い小箱を大事そうに机に置くと、棚から取り出した密封性の高いガラス瓶から焦げ茶色の豆をスプーンで二杯、
コーヒーメーカーの中へざらざらと落とした。こうしておけば後は勝手に豆を挽き、コーヒーを淹れてくれる便利な器械だ。
手塚は、続けて手際よくコンロの上にあった銀色の薬缶を取り、その器械に水を注いでいる乾の骨張った手を眺めていた。
「ごめん」
まるで明日の天気を尋ねるように、ごく自然な口調で乾が呟く。
彼の声はそこから出る言葉を、必要以上に重くも軽くもしない。
簡単なようでいて、それはすごく難しい事だと手塚などは思う。純粋に、いつも密かに憧れた。
「何が」
「酒臭いだろ。部屋」
「まあな」
実際酒の匂いが周囲に漂っていたので頷くと、相手は即座に窓を開けた。
僅かに湿気の含んだ水っぽい空気と雨の降る音が耳を掠め、部屋は浄化を始める。
定期的に聴こえてくる雨音に混ざって、すぐ傍ではこぽこぽとお湯の沸きたつ音がしていた。
「酒を飲んで意識が無くなったのは、生まれて初めてだ」
「いいデータが取れたんじゃないのか」
皮肉を込めて云ってやると、乾はばつの悪そうな表情を浮かべ、全くだと薄く笑った。
眼鏡の奥から覗く瞳は未だアルコールが抜けていないのか、それとも途中で起きた所為か少し充血している。
お湯が全て浸透し落ちきったのか、全自動のコーヒーメーカーが乾いた音をたてて2人分のコーヒーを用意する。
食器棚からカップと小皿を取り出し机に置いた後、乾が丁寧に琥珀色の液体を注いで、手塚の前にカップをひとつ差し出す。
まるで当たり前のように自然に出てくる、自分の好きな色のカップ。自分が選んだのだから当然といえば当然なのだが、
なんだか奇妙な居心地の悪さを感じながら、手塚は何故か何事も無い風を装い、淹れたての湯気のたつコーヒーを口にした。
あれだけ険悪だった雰囲気が、嘘みたいに溶けて無くなっている。
それは多分、自分の急襲の所為では無く、きっと乾の譲歩のおかげだと思っている。
口に広がる濃い苦み。乾がコーヒーを淹れると自分よりも確実に味が濃くなる。どちらかと云えば手塚は薄味が好みだった。
けれど、今日はその舌に触れる刺激が心地よい。自分を少しだけ痛めつけるように感じたからだ。
「それじゃあ誕生日ケーキを頂こう」
顔を上げれば正面に乾が座り、いつの間にか出した小皿にはちょこんとガトーショコラが乗っている。
でかい男の前に佇むちんまりとしたケーキ、というギャップを目の当たりにした手塚は何故か途端に気恥ずかしくなった。
「手切れ金代わりだ、と云っただろう」
「切れません。俺が全部食べるから」
「なんだその理論は」
反論を無視し、銀色のフォークがさく、と漆黒に近い焦茶色のケーキに突き刺さる。
絶対食べられる訳なんて無い。手塚は妙に冷静な、半ば自棄になった思考でそんな事を思った。
本当は酷い二日酔いでまともに歩く事すら出来ない程、足許だって覚束無いクセに。この男は馬鹿だ。
けれど手塚のそんな予想はお構いなしに、乾はケーキの欠片を口に運んでいく。淀みなく、躊躇いもなく。
「うまい」
「…無理するな」
「してないよ」
本当にダメならちゃんと云います、と彼は一口コーヒーを啜り、再びガトーショコラに手をつける。
なんだか見ていられなくなった。良く分からない衝動が手塚の胸中で渦を巻く。羞恥。後悔。嫌悪。違う。
講義の時間が迫っているから、と適当な言い訳をして席を立とうとしたけれど、それは上手くいかなかった。
うまかった、と全て食べ終えた乾がさっぱりと笑う。
良く分からない衝動は、その顔を見た途端、ひとつの形となって手塚に行動を起こさせた。
目の前の寝癖だらけの髪を掴んで自分の側へと引っ張ると、より間近になった顔に、唇に、自分のそれを押しつける。
ガチャ、と手許のカップがたてる硬い音。窓から流れる濡れそぼった雨の音。小さく息づくコーヒーメーカーの器械音。
それら全てがたちまち聴こえなくなった。痛い程しんと静まりかえった中で、触れ合う皮膚と、唾液の音だけが微かに響いた。
「………、な」
重ねていた唇を離すと、茫然とした顔で乾がじっとこちらを見つめていた。
何か云おうとしばらくは思考を巡らせていたようだが、諦めたのか、はあ、と緩く息を吐き出す。
手塚はそんな彼を無視して、先程の衝撃で机上に零れたコーヒーを拭くべく、タオルを取りに席を立つ。
水道水で濡らしたタオルを絞っていると、椅子のずれる音と共に背後でくつくつと忍び笑いが聴こえてきた。
「なんでそこでキスなんだ…」
振り返れば、乾は机に軽く上体を突っ伏して苦しそうに笑っている。
余りにも予測外の出来事だったのか、それともまだ酒が残っているのか、手塚には判別がつかなかったが、
彼は憮然とした表情のまま相手の方へ戻ると、やや乱暴に濡れた机上を拭き始めた。伸びている乾の腕が邪魔だった。
「知るか」
「知るかって…手塚がしたんじゃないか」
「したかったからしたんだ」
「ああ、もう」
ほんと訳分からないよねお前。
云いながら、乾の忍び笑いはますます酷くなる一方だった。
手塚の突然の行動の意味が分からないように、手塚も乾の笑いの発端が分からない。
言葉を尽くしても報われない想いと、言葉を飛ばしてでも訴えようとする想いは、時に相反しては互いを傷つける。
それはお互い長い年月の中で身を以て知った。重なり合うどころか平行線を辿るばかりで、いつだって途方に暮れる。
けれど、それでも。
何度だって。
□END□