せかいのへいわを守ることです。



そう答えた直後、浮かべられた教師の失笑は、今になっても忘れられない。
国光くんの夢はなあに?という質問に、自分は嘘偽り無く正直に答えたまでだ。
笑われる筋合いなどないし、質問したのなら最後までその質問に対する責任を持てと幼少ながらに思った。
どちらかというと父よりも祖父の方に懐いていた自分は、小さな頃から元警察官であった彼の真っ直ぐで厳しい躾を受けてきた。
悪い事は悪い。良い事は良い。
簡単そうで難しいその真理は常に自分の中で大きな影響力を及ぼした。
かといってそれが苦痛だと感じる事はほとんど無かったし、
日常的な礼儀作法から難攻不落の相手を完全に落とせる柔道の型まで、
祖父から学んだ様々な事柄は、自分にとって純粋に宝といえる大切なものだ。

その祖父がよく口癖のように云っていた言葉は、国を守る男児になれ、というものだった。
お前が国を輝かせる、そんな人間になれ。
初めて聞いた時、一体どういう意味なのか半分も理解出来なかったが、
子どもながらにもそれはひどく魅力的な響きを持って、自分の耳にしっとりと馴染んだ。
この言葉を口にする時にだけ見られる、いつも祖父の瞳の奥に宿っている厳しい光が不意に緩む一瞬、
筋張って薄い乾燥した掌で頭を撫でられ、そのくすぐったさに居心地が悪くなりながら、分かったと頷いた。
それが、物心つく前から結ばれてきた尊敬すべき彼との約束のようなものだった。

ゆるゆると浅い眠りから覚め、習慣で腕を伸ばし目覚まし時計を探る。
しかしあるべき場所にそれは無く、そういえばここは自分の家では無いのだという事に、シーツの色が目に触れた途端気づいた。
上体を少しだけ起こす。部屋の中は闇の色が濃く、時計を探さなくてもまだ夜明けがきていない事は明白だった。
最もこの部屋のカーテンは遮光効果も完璧なので、たまに部屋の明るさと正しい時間のずれに驚きはするのだが。
やはり気になって枕の傍に置かれた隣人の携帯電話(彼はそれを目覚まし代わりに使用しているらしい)を手に取り時刻を確認すると、
寝入ってからまだ2時間程度しか経っていなかった。自分にしては珍しい。こんな時間に目覚めるのも。昔の事を夢に見るのも。

小学校に上がって、ゆっくりと少しずつ物の道理を理解していって。
けれど自分はクラスという社会で、異端な存在となってしまっているようだった。
生活態度も申し分ないですし、勉強も良く出来るんですが…、
学年が上がり担任が変わっても、云われる事はほぼ同じだった。みんなと遊ぶのはつまらない?と面と向かって教師に尋ねられた事もある。
別につまらないとかそういう訳ではなく、ただ一人が気楽だからそうしているだけだと云っても教育者である大人を困らせるだけで、
いつしかそう主張する事もしなくなった。本音を云えば、単に他人と積極的に関わる事が面倒なだけだった。
それよりも自分自身を高めたい、磨きたい。テニスを覚えた頃の自分は周囲の人間なんて全く見えていなかった。
怖いくらいのめりこんで、怖いくらい夢中だった。
目の前にあるのはテニス。そしていつか世界を知り、世界の為に役立つ人間になる。
それだけだった。それだけで良かった。

ベッド脇に置いてあったケースから眼鏡を取り出し、元に戻った視力で上体を起こしたまま隣を見下ろす。
長身を縮めるように丸くなって眠る乾の短い黒髪が、掛け布の端から微かに覗いている。
すぐ傍で安定した寝息を聴いていると再び睡魔に襲われそうになって、思わず首を横に振った。
髪の毛と同じように無造作に覗いている手首は自分の肌よりも白く、そしてかたく骨張っていた。

せかいのへいわを守ることです。

自分の夢を口に出したのは一度きりだ。
祖父にも誰にも、隣で眠っている男にだって話した事は無い。けれど今でもその夢は、気持ちは変わらない。
年を重ね、様々な他人と関わる事でその想いは少しずつゆっくりと変化していったけれど。

掛け布をめくる。途端に薄暗闇の中で、乾の間抜けな寝顔があらわになる。
眼鏡を外した乾は年齢よりも幼く見え、けれど顎にはうっすらと短い無精髭が生えていたりして、
そのアンバランスさに奇妙に落ち着かない心持ちになった。けして不快では無い、むしろ反対のベクトルで。
跳ねた黒髪。幸福な寝息。血管の浮き出た手首。間抜けな寝顔。無精髭。その他乾を形作るもの、全て。
守りたいものはいつしか世界の平和では無いものに変わってしまった。様々な出会いと、乾貞治という不可解な一人の男によって。
悪い事と良い事。乾と続けているこの関係は一体どちらにカテゴライズされるのだろう。割り切れない想いはどうしたらいいのだろう。
祖父は怒るだろうか。怒られても、世界の為より国の為よりもしかしたら自分よりも守りたいものが出来た今、どうすればいいのだろうか。
堂々巡りの思考に嫌気が差して、おもむろに眼下に生えていた髭を軽くつまんで引っ張ってみる。
すると、鈍い唸り声と共に眉根を寄せた男が、起きているのかいないのか判別のつきにくい変な顔でこちらを見上げた。

俺を変えた責任を取ってもらう。その代わりお前の平和は俺が守る。

目が合ったので口早にそう告げると、寝惚けた表情から少しだけ面食らった顔になった乾が、
その後顎髭を撫でながらゆるゆると力無く相好を崩し、
とりあえずその結論にたどり着くまでの経緯を教えてくれないか。
と、柔らかな低音で催促をした。






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