「大和部長の事は、忘れる」
人気の無い放課後の図書室で、おびただしい数の本が並ぶ棚へ目をやりながら、手塚が独り言のように呟いた。
彼が顔も見ずにその言葉を伝えている相手、乾はすぐ隣で同じように立ち、ページをめくっていた指を止める。
部活が休みであるにも関わらず、午前中病院に行った後手塚がそのまま登校した事は、乾も知っていた。
氷帝学園を相手にあれだけの試合をしたのだ。彼の動向は自分が気にしていなくても勝手に耳に入ってくる。
学校に来ているのなら、なおさら乾は彼に会いたくないと思った。
それなのに全ての授業が終わった放課後、調べ物をする為立ち寄った図書室でばったりと顔を合わせてしまい、
その後露骨に避ける事も出来ず、無言のまま互いに目的の本を探していたのだ。うかつだった。乾は心中ひっそりと苦い後悔を味わう。
校内における自分と手塚の移動範囲は他の部員達よりも重なっている事を失念していた。
逆を云えばそんな基本的なデータを忘却してしまうくらい、今の自分の精神状態は少し不安定になっているのだという事をこの時実感した。
電車に乗るのももどかしく、ただがむしゃらに手塚の家へ向かって走り、街灯の下で会話を交したのは昨日の夜だ。
手塚の云う事が本当なのだとしたら、彼はたった一日で、三年間自分が信じ背負っていたもの全てを覆した事になる。
「どういう事?」
ただ純粋に疑問だった。
手塚はいつもの無表情を装って、言葉の通りだと単調な返事を寄越した。
伸ばした左腕が目的の本にたどり着く。半袖のシャツから覗く白い包帯が痛々しく、
無意識に吸い寄せられてしまっていた事に気づき、乾は振り切るように視線を外した。
「俺は自分の為にテニスをする。チームの為に全国へ行く」
「それは」
手にしていたぶ厚い本が何故か途端に重みを増していく。
あせた薄黄色の、乾燥した紙面をめくる指先は先程から止まったままで、
その事にようやく気がつき慌てて次のページをめくったが、内容なんて全然頭に入ってこなかった。
中途半端に途切れた言葉の続き。それを必死に探して、今陥っているこの予想を越えた状態を立て直そうとする。
「嘘だ」
けれど声となって出た乾の言葉は全く思ってもみなかったもので、その事実に自分自身驚いた。
手塚が視線だけを僅かに斜めに上げて、隣の男を見る。切れるような眼差しは全く揺らいでいない。
「お前が云ったんだろう。大和部長はいないと」
物音ひとつしない、静かな室内と古びた本の匂い。
冷房はきちんと効いている筈なのにシャツの下、背中に一筋の汗が伝った。
「だから忘れようと思った」
淡々と告げられる言葉。期待していたものとは内容が異なっていたのか、
パタンと乾いた音をたて、手塚が持っていた本を閉じ、再び元あった棚へと戻す。
乾は何も云わない。理解してもいない縦に並んだ黒い文字列を、無言で目に触れさせている。
忘れる。
それは一番聞きたかった筈の言葉なのに、何故か嬉しさよりも悲しさの方が先に自分の胸を占めた。
一体彼はどういうつもりでこんな事を云うのだろう。昨日の今日で、劇的な変化を与えられたと自惚れる程自分は愚かでは無い。
下手な希望を見せつけられるより徹底的に失望する方が、いっそ楽なのに。
「俺を、哀れんでるの?」
手塚を見る。彼が少しだけ堅い表情でこちらを見つめ返す。
初めて目が合った。たったそれだけの事で胸の奥がきしんだ。
「どうしてそういう事になるんだ」
「手塚こそどうして?俺が云ったから忘れるって、そんな簡単に気持ちを変えられるのか?今更」
今までずっと引きずっていたクセに。
選手生命を投げ出しかねない程に、あの人を強く強く強く想っていたクセに。
自分が何を云っても、何をしても全然聞いてくれた事なんて無かったのにどうして。
「どうして…」
「じゃあどうしてお前は俺に会いに来たんだ」
苛ついた手塚が振り返った拍子に、左腕が揺れた。
白い包帯が鮮やかにレンズ越しに焼き付いた。これは呪縛だ。未だ手塚を蝕んで離さない、あの男の。
「どうして好きだなんて云ったんだ」
包帯の白が近くなった、瞬間手塚は呆然と立ち尽くす乾の胸ぐらを強く掴んでいた。
彼らしくも無い怒気をはらんだきつい瞳に射抜かれて、思わず言葉に詰まり、沈黙と共に息を呑む。
傷ついた左腕は痛む筈なのにそんな気配を微塵も見せず、手塚は正面のシャツを力強く握り締めたままだった。
「あれも嘘だったのか?」
「嘘じゃない」
思わず荒げそうになった声を懸命に押し殺しながら反論する。
嘘じゃない。あの言葉も、この想いも。
乾は胸ぐらにある相手の白い手首の上から、自分の掌を乗せると負けずに強く掴んだ。
そのまま小さく息を吸う。先程から、ある一つの予感が、乾の胸の暗い部分から這い出そうとしていた。
彼の呪縛を。
引きずっていたのは。
捕らわれていたのは、
もしかしたら。
「なら信じろ」
自分も同じだったのではないだろうか。
自分は認めるのが怖くて目を閉じ耳を塞いだそれを、手塚は逃げずに真正面から受け止めていただけで、
もしかして自分達はけして交わる事の無い、けれど同じ場所を三年間、ずっと彷徨っていたのではないだろうか。
「乾、俺を信じろ」
唐突に胸元がすっと楽になる。その感触に我に返ると、手塚はずっとこちらを見上げ続けていた。
そうだ。彼は強い。自分よりもずっと強い人間なのだ。そんな余りにも基本的なデータを、今まで思い出す事もしなかった。
大和部長を好きな手塚を好きな自分。この呪縛の連鎖を断ち切ってくれるのは、きっと。
「俺は大和部長を忘れる」
手塚の眩しい嘘だけだ。
□END□