じっとりと皮膚にはりつく昼下がりの暑さを厭うように、手塚は前髪をかき上げる。
開け放した座敷、縁側から見える庭の木々から絶え間無く発せられるセミ達の声が更に温度を上昇させる。
苦し紛れに置いてある扇風機の前には先客が胡座をかき、うなだれるような格好で温い風にあたっていた。
彼の手には持参したうちわを握っているが、それは全く用途をなしていない。
「…乾、いつまでそうしているつもりだ」
「手塚が英語のワーク終わらせるまで」
のんきな声は扇風機の風に乗って小刻みに震え、なんだか馬鹿みたいに聞こえるな、と手塚は煮えそうな頭で冷酷な事を思った。
夏休みも終盤にさしかかろうとする日曜日。
早朝、乾から宿題を片づけようという電話を受けた手塚は、待ち合わせ場所を図書館に指定した。
しかし皆考える事は同じらしく、余りの館内の混雑ぶりに席にも着けず、
結局再度相談の結果、引き返して手塚の家で宿題を片づける事になったのだが、いかんせん彼の家にはエアコンが無かった。
否、あるにはあるのだが、客人を通す為の由緒ある座敷の格調にそんな近代的な物は似合わんと祖父の頑なな反対に遭い、
未だ古式ゆかしい扇風機しか置く事が許されていなかった。それならばエアコン完備の手塚の部屋に行けば良いのだが、
男二人は手狭だという事でこちらに通された。手塚の部屋なんてかなりいいデータになるだろうに…と少し残念に思った乾だったが、
そんな邪な思いもこの暑さの中、問題集を解いている内にいつしかかき消えてしまった。
「もう終わった」
「じゃあ次手塚社会ね、俺理科片すから」
そう云いながら乾はようやく扇風機の傍から離れ、真ん中に備えられている机の傍に戻ってきた。
机上に積み上げられている教科書やワークの山から目当てのものを一冊引き抜くと、乱雑に真っ白なページを開いていく。
自分の得意分野から先に埋めていって、苦手なものは後でお互い教え合おう。というのは乾が出した提案だった。
上手い具合にお互い得意な教科と苦手な教科が逆転している為、確かにそれは合理的だと手塚も賛成した。それにしても。
「…お前、本当に今まで全く手をつけてなかったんだな」
手塚も彼に倣い、机の上に出してあった社会のプリントの山を集め番号順に揃えるが、それは既に三分の二以上自分で終わらせていた。
しかし乾は出すもの出すもの全て白紙の状態だった。なるほど早朝電話を掛けてくる筈だ。
隙あらば相手のデータをとっている普段のその綿密さとは裏腹に、自分自身の事になると実はかなり無頓着なのだ。
自分のこだわり以外は興味も薄く、簡単に捨ててしまえるという困った潔さを持っている。
しかもそのギャップは気のおけない相手にしか見せない。よく分からない奴だと手塚などは思う。
よく分からない、妙な男なのだ。乾は。
「計画立てるのは好きなんだけどね、実行出来た試しが無い」
乾が笑う。どうせ彼の事だ、無駄に凝り過ぎた計画を立てて、立てた段階で満足してしまうのだろう。
本末転倒にも程がある。手塚は何も云わず、手許にあるガラスのコップを掴むと、半分ほど残っていた乳白色の中身を全て飲み干した。
氷が溶けてしまった所為で、元の味が一体どんなものだったのか思い出せないくらい薄くなってしまっている。
こんな事なら素直に麦茶にすれば良かった、と密かに後悔していると、その気配に気づいたのか、問題に取りかかっていた乾が顔を上げた。
黒く短い短髪はこの熱気で跳ねる元気を失い、こめかみの辺りにうっすらと汗が浮かんでいる。
「手塚、カルピス好きなの?」
黒縁眼鏡の奥から覗く瞳が少しだけ笑っているのは、気の所為では無い筈だ。
手塚は空になった水滴のついているコップを机上に戻すと、中元で貰ったんだ。
と、やけにはっきりとした口調で告げた。箱を開けた母親は喜んでいたが、自分はこの甘い飲み物が余り好きではない。
かといって嫌いでもなかったが、なんだか口の中にずっと残るこの頼りない味が好きになれなかった。
小さかった頃は考えた事も無かったのに、今飲むとそれが気になって仕方が無い。
「俺さ、小さい頃は何も考えないで普通に飲んでたんだけどさ、今、なんでか分からないんだけど」
手塚の心臓がドキリと小さく動く。まるで自分の考えを覗かれてしまった気がしたからだ。
ただの偶然だと頭では分かっているのに、余りにもタイミングが良過ぎた。次の言葉を何故か緊張した面もちで待ってしまう。
しかし乾の口から告げられた言葉は、手塚の思いもしないものだった。
「薄くなったカルピスってなんか悲しくて飲めないんだ」
そう云った乾の手許に置かれている、コップの中に入った僅かなカルピスは底の方で薄く二層に分かれていた。
「悲しい」
意味を噛み含むように手塚が思わず復唱すると、
彼の正面に座っている乾はひどく真面目な表情でうん、と強く頷いた。
「味が。飲んだ後薄いなりにずっと残ってるのがね、なんかちょっともの悲しい」
真面目な顔でそんな話を淡々と続ける乾を眺めていると、手塚もなんだか悲しい気持ちになってしまった。
国語は苦手、古典は壊滅的。そんな男がこんな情緒的な事を時折漏らす。数字しか、確かなものしか信じない乾にとって、
この自分の中の揺らぎやすい心情とどう折り合いをつけているのだろう。否、折り合いをつけられないから、悲しいのだろうか。
りん、と弱い風を受け、風鈴が微かに揺れて涼やかな音を鳴らす。
「未だに誰一人賛同を得られないんだけど」
菊丸には爆笑されるし海堂にはひかれたなあ、とその時の様子を思い出したのか軽く笑うと、
乾が気分を変えるように新たなページを勢い良くめくったその時、黙ったままだった手塚が音も無くいきなり立ち上がった。
「麦茶にしよう」
やけに深刻な表情でそう云うと、二人分のコップを手に取り、縁側の廊下へと歩き出す。
そんな彼の思い詰めた背中に、乾が慌てて声をかける。
「手塚、気に障ったんならごめん。そんなつもりで云ったんじゃな…」
「そうじゃない」
首を振って否定の意を示した手塚は、底で二層になっている乾の方のコップを持ったまま微かに揺らしながら云った。
「喉が乾いたんだ。それに」
透明なガラスの囲いの中で揺れる二層は、
手塚の指先から伝わる振動でいつしか混ざり、溶け合って再び乳白色に戻っていた。
気持ちは分かる。
聞かせる気も無いのか口の中で独り言のように呟いて、彼は縁側を横切っていった。
姿を消した後もその背中をぽかんと見送っていた乾は、しばらく呆然としていたが何を思ったのか突然その場にごろんと横になると、
くつくつと笑い出した。手塚は自分の事をよく分からない、妙な奴だと決めてかかっているようだが、
自分にしてみればその印象はそのままそっくり手塚に対する気持ちだった。
だけど、よりにもよってこんな些細な部分でシンクロしなくてもいいではないか。
乾は横になったまま、熱気の溜まった身体をかろうじて温度の低い畳に押しつけながら、
先程自分の前に置かれていたコップの中身を思い出していた。
同じ囲いの中にあるのに、きれいに上下二層に分かれてしまった、溶け合わない薄いカルピス。
やっぱり悲しいなあ、と思った。
けれど手塚という誰よりも得難く奇妙な賛同者を手にしてしまった今なら、少しだけその悲しさは減るような気がした。
□END□