おそらく、二人を取り巻くあらゆるタイミングが狂ってしまっていた結果故の出来事なのだと、思う。
三杯目のコーヒーをカップに注ぎ終えた手塚の眉間は、
傍から見ても相当に不機嫌である事が分かってしまう程の皺を作っていた。
このコーヒーは乾の気に入りの店で買った豆を挽いたものでありそれを乾のコーヒーメーカー(購入する際この色を選んだのは自分だが)
で勝手にいれて飲んでおりつまり手塚の今座って居る場所も乾の住居の一室なのだが、当の屋主である乾の姿は何処にも無かった。
もう何度目かになる、無造作に机上へ置かれた携帯電話に目を遣るという無意味な行為を無意識に行ってしまい、
そんな自分にどうしようもなく嫌気がさした。相手からの連絡など随分と前から途絶えて久しいというのに。
乾は本日コンパに出席するのだそうだ。
否、コンパで欠員が出た為、突発的な人数合わせとして研究室に居残っていた乾に白羽の矢が立ち、
大学からそのまま居酒屋へと拉致連行されたのだそうだ。元々今晩は新作映画のDVDをタイミング良く乾が借りていたので、
返却期日(今日の0時)までにそれを観ないかという誘いを受けて手塚はやって来た。
乾は大学に残って課題をもう少し進めてから自宅に帰るというので夕食を先に済ませ、
預かっている鍵を使い彼の部屋に入って待っていたのだが、連絡が無い。
かつての経験から、課題に没頭して時間を忘れている可能性が一番高かったが、
一時間半程過ぎた頃、さすがに痺れを切らした手塚が携帯電話を手に取ると、見計らったかのように乾からのメールが届いた。
ごめん。コンパの人数合わせに拉致された、と。
乾にしては珍しく短い文面をひとしきり眺め彼の現在置かれている状況を把握した後、
拉致されたのなら仕方が無いから、それでは今晩はもう戻ってこないのか、
DVDは返却しておいた方が良いのかと質問をして返したが、相手からの返事は無かった。
それから更に1時間待ってみたが結局何も変わらなかったので、余り気の長い方では無い手塚は、
レンタルの残り時間が僅かになってしまったDVDを返却しに行った。本当ならそのまま自分の家へと帰宅する筈だった。
現に手塚は鞄や荷物を持って部屋を出てきていた。しかし扉を閉め外に出た瞬間、なんだか嫌な予感がした。
肌に触れる空気がひどく湿っている。今にも雨が降り出しそうだったし、それよりも上空遙か遠方から微かに響いてくる、轟くような低い音。
階段を降りる手塚の足が心持ち早くなる。乾が利用する店は、彼のアパートを出てすぐ近くの場所にある。
そこから駅まで徒歩約15分、そして自分の家までは。
そこまで計算して、自然表情の険しくなった手塚はただちに帰宅ルートを変更し、
引き返して再びこちらに戻ってくる事を頭の中で決心した。
雷光が、薄く不気味に垂れ下がっているぶ厚い雲を伝い始めたちょうどその頃だった。
それから、三杯目である。
読み掛けの本にしおりを挟み、手塚は少しだけ顔を上げた。
耳を澄ませると、とうとう降り出したのか規則的な雨の音に混じって微かに重たい音がする。
なるべく気にしないように再び視線をしおりの挟んである本の文面に落とす。
直後、目の端に照明ではあり得ない目映い光がよぎった。
「……」
手塚は再び本から顔を上げると、おもむろに眼鏡を外し机上に置いて、鞄の中に入れてある眼鏡拭きを取り出した。
そのまま無言でレンズをゆっくりと磨き始める。その一連の動作は淀み無くスムーズだったが、明らかに挙動不審だった。
瞬間、どん、と窓の外で鈍い音がする。ビクリ、と手塚の肩が小さく震えた。
先程は光って12秒だった。確実に、近づいている。
目を微かに細め、暈けた視界のまま注意深く掛け時計を見上げた。
既に日付は変更している。終電は行ってしまった。連絡はやはり無い。電話も全くつながらない。
手塚は一人きりで、ゆっくりと、静かに追い詰められていた。
両手は眼鏡の弦を持ったままであるという事を忘却して、必要以上に力を入れ過ぎ変な形に歪めてしまう程に。
物語の続きを追いかける気力を殺がれ、潔く本を閉じて四杯目のコーヒーを入れるべく席を立つ。
その時、玄関に鍵を差し込むような音が聞こえた。しかしなかなか上手くいかないのか、何度かガチャガチャとせわしなくぶつかっている。
相当酔っているな、と思いつつそれでも玄関へ赴き内から鍵と扉を開けてやると、隙間から全身ずぶ濡れの乾がひょっこりと顔を出した。
「あれ、てづか〜?」
笑顔だ。しかもよれただらしのない。
「なんで居るのか、な〜」
ふらふらと後ろ手に扉を閉め損なったまま、乾の長身が正面に立っていた手塚の身体に遠慮無くずしりともたれ掛かる。
手塚はとっさに避けようとしたが、開いたままの隙間が気になって、腕を伸ばし扉を閉めようとノブを掴んだ瞬間、そのまま乾に抱きすくめられた。
酒臭い。そして冷たい。雨に降られたままここまで歩いてきたに違いなかった。
「乾、お前相当飲んだな」
「いやいやいや全然。一口。俺は一口って云ったのにタガキがさあ〜。
手塚知ってる?学籍番号30154タガキ。ねえなんで手塚俺んちにいるの?」
「タガキなんぞ知らん。それに俺がここに居るのは会う約束をしたお前と連絡が取れなくなったからだ。DVDは返却しておいた」
手塚が扉の鍵を閉めながら早口でいきさつを説明するが、
果たして連絡〜DVD〜と無闇やたらに聴いた言葉を反復している泥酔状態の乾がきちんと理解しているかは甚だ怪しかった。
「ありがとう手塚〜好きだよ〜」
手塚の眉間がきつく寄り、更に深く皺が刻まれる。
乾の濡れ髪が首筋にくっついてそれが小さく移動する度奇妙な気持ちになった。
押し戻す両手に力を込めるが、抱きついている乾の身体はびくともしない。立っていられない程、足元も覚束ないクセに。
「酔っぱらいの戯言にはつき合えない。さっさと離れろ。そして着替えろ」
「戯言でこんな事云うかよ〜。好きだよ手塚ー好き好き大好き」
酒が回ってトーンの高い浮ついた声。普段なら滅多に聞けない、
聞いた事も無いストレートな愛の言葉が乾の緩くなった口から白々しくぽんぽんとくり出される。
その度に手塚は、表面から冷えていくような逆に胸奥から熱くなるような良く分からない不可思議な気分に陥り、結果ひどく落ち着かなくなった。
「それが戯言だと云うんだ。ふざけるのも大概にしろ」
「ふざけてないって。俺は真剣」
ぐい、と突然乾の濡れた大きな両手に顔を挟まれ視線を無理矢理上げさせられる。
身長では乾が僅差で勝っている為、手塚は彼を見上げるような形になる。
乾の黒縁眼鏡の奥からは、熱をはらんで眠そうな瞳が覗いていた。
「シャイな俺は普段こんな事云えないから、こういう時にたくさん云うんだ」
「真剣が聞いて呆れるな」
「あ、信じてないだろ」
くそ〜と何故か悔しがる乾をどう身体から引き剥がそうか、
蹴りを入れれば離れるだろうかなどと冷酷な事を考えた途端、一際大きな音が鳴り、それは部屋の中まで揺るがした。
「……!!」
「雷か〜こりゃ落ちたかな。停電になるかな〜手塚〜…てづか?」
未だ両手で挟んだままの、返事が無い手塚の顔をのぞき込む。
切れ長の瞳はより一層つり上がり、唇は色が変わってしまう程きつく噛みしめていた。
手塚は壮絶な怒気を含んだ表情を浮かべたまま、固まっていた。
そしてようやく、僅かだが事の深刻さに気づき始めた乾が、ゆっくりと口を開く。
「怒ってる?」
もしかして。と続けようとした瞬間、手塚がああ怒っている!と強引に会話の主導権を奪い取った。
「勝手に連絡を絶つな!絶つなら俺の質問に答えてからにしろ!」
ドオン!と先程よりも大きな音がした。
これは確実に何処か、しかもわりと近くに落ちたかもしれない、
と乾はアルコールの所為で普段よりも余り上手に働かない頭の片隅でそんな事を思ったが、
それよりも突然怒鳴りだした手塚の剣幕の方が凄かった為、今現在の落雷に関しては余り気にならなかった。
気になるのはこちらの服を掴む手塚の指の力が先程からどんどん強くなっている事だ。離れたがっていたのは手塚の方なのに。
「帰ろうとしたらこの雨だ!雷だ!部屋に戻ってもお前は来ない、連絡ひとつ寄越さない!挙げ句好きとはなんだ!」
「手塚〜落ち着いて〜なんで酔ってる俺より云ってる事が滅裂なの〜」
「俺だって好きだ!好きに決まっている!」
お前しかいないだろう!
叫んだ瞬間フ、と室内の照明が予告無く消えた。
二人の全身を、顔を怪しく照らす強烈な稲光と共に、今までで一番大きな雷鳴が轟いた。
これは、落ちた。絶対、きっと。
「………っ、たぁ…」
後頭部に鈍い衝撃を受けた乾が、ようやくのろりと身体を起こす。
視界が暗く眼鏡もずれ、更にチカチカと明滅するので状況把握が難しかったが、
雷が鳴った瞬間手塚に押し倒され、どうやら頭を後ろの扉部分にしこたま打ちつけてしまったようだった。
同時に尻餅をついてしまった玄関の床はとても硬くひんやりと冷たい。
けれど痛みや冷たさよりも未だ身体に覆いかぶさっている手塚の方が気になったので、
乾は彼のその後ろ髪をぽんぽんと軽く触れ、そして撫でた。
「手塚、手塚。大丈夫だよ。停電になったけど、こっちには落ちてないから」
「………誤解するな、そういう訳じゃない」
そもそも一体何がそういう訳じゃないのか、
これでは全く意味が通じないし伝わらない。そんな事すら失念していた。
乾に頭を撫でられながら、ゆっくりとぎこちなく手塚が顔を上げる。
わざと硬い口調を繕っているが、勘のいい乾にはもう既に見抜かれてしまっているに違いなかった。
今までずっとひた隠しにしていた努力がこれで全部水の泡になってしまった。
「雷、もう遠ざかるんじゃないかな」
「誤解だ。乾」
さっきの言葉は全部忘れろ。
と恐怖に我を忘れ突発的に放った自分の言動に落ちこんでいるのか、
口許を押さえ沈んでいる様子の手塚から撤回要求があったが、乾はそれを飲まなかった。
「酔いも覚めるくらい情熱的な言葉だったのに?」
「だからふざけ…」
「ふざけてないよ。手塚が好きだよ」
本気だよ。
そこまで云い終えて、乾はくしゃりと笑うと自分の上で所在無げにそれを聞いている手塚の首に両腕を回し、身体ごときつく抱きしめた。
途中、冷たい酒臭いと腕の中でくぐもった苦情が漏れたが、酔ってしまった所為にして、丸ごと無視する事にした。
□END□