over the distance.



年度が変わって、最高学年になった4月。
始業式が始まる前に講堂に張り出されたクラス別の名簿を、手塚はさして感慨も無く眺めていた。
 「あ、俺手塚の隣だ。良かったな、連絡も取り易いし」
“これからもよろしく”と新副部長に就任した大石に、人好きのする笑顔でそう言われ、軽く頷く。
余りにも多過ぎる人ごみの中、辟易しながらその波をぬっていくと、
 「手塚」
背後から、聴き慣れた低音に呼び止められた。
 「乾?」
振り返って確認すると、相変わらずの無表情で片手を挙げる乾がいる。
とりあえず彼の方に近づこうと人ごみをかき分けるが、上手くいかない。
見かねた乾の長い腕が伸びて、引き寄せてくれる。
 「…すまない」
何となく居心地が悪くて、手塚は乾の顔を見ずに礼を言った。
「いや」と穏やかに返した彼は少しだけ沈黙して、口を開く。
 「手塚、クラス何組だった?」
 「1組。去年と同じだ。お前は?」
普通に答えて尋ねただけだが、乾は黙ったまま動かない。
その間がやけに不自然で、少しだけ不安になって、手塚は眉根を寄せる。
 「乾?」
 「どうしようか、手塚」
 「え?」
乾の、表情の乏しい顔に苦い笑いが浮かんで。
 「11組だって。すごいよ、10クラスも離れちゃった」
 「…え?」
周囲のざわめきが五月蝿くて、上手く聞き取れなかった。
けれど、乾が11組になった、という事だけは断片的に理解った。
何故か、足許が奇妙に冷えていく感触に襲われて、手塚は浅く息を呑む。
特に、クラス分けなんて何の期待も落胆も無く。
ただランダムに選出された結果に従うものだと。

そう、思っていた。
それなのに、何故。

(…いくらなんでも、あんまりだろう)
自分はこんな情けない事を思っているのだろう。
と、手塚は乾と共に茫然と立ち尽くしたままだった。



別に、クラスが離れたってこれまでの関係が無くなる訳じゃない。
青学は大規模な学校故、生徒数もかなり多い。
3年間ここに在籍しても、同学年の半数はほとんど顔も名前も知らなかった。

そんな大きな学校だ。
現に、乾とも一度だって同じクラスになった事は無かった。
けれど一昨年、昨年といつも近くのクラスだったから、
手塚にとって乾は部活以外の学校生活でも『傍に居る』事が当たり前になってしまっていた。
それに疑問すら、持たなかった。
しかし今年のクラス分けで、それが当たり前では無い事を、痛感した。
1組と11組。
両端のクラスであり、教室のある場所すら違ってしまう。
7組からはひとつ上の階になってしまうので、めったな事では会えない。

会えない。

 「……」
そこまで考えて、手塚はフと顔を上げる。
新しいクラス、新しい担任が長々とこれからの目標や受験問題について喋っているが、
全然頭に入ってこない。
(…重症だ)
額に手をあてて、聞き取れない程小さな溜息を吐いた。

会えない?

学校で会えなくても、部活では何時でも会える。
しかし今年テニス部は自分達が率いていかなければならない。
部長、というその責任の重さを自覚しつつ、これからの大会に向けて、
色々と準備をしなければいけない事も多くなる。一層多忙になるだろう。
去年のようには、いかなくなるだろう。
手塚は静かに目を伏せる。

…以前のように、会えなくなる?

桜の芳香が漂う中、自分だけが異世界に取り残されたような、
そんな違和感を、手塚は感じていた。



 「何かさー、今日の手塚ってオカシクない?」
新学期、という事で軽めの練習を終えた青学テニス部。
その中ですでに一部の3年生のみとなってしまった部室内、
着替えながらそう言ったのは、菊丸で。
ロッカーを閉めた大石がそれに反応して、顔を上げた。
 「英二もそう思ったか?俺もなんだ」
人一倍面倒見のいい副部長が、心配そうに首を傾げる。
 「具合悪いのかって訊いても、大丈夫。の繰り返しだし」
 「何かー、いつも以上にボンヤリしてたよねぇ」
同意するようにうんうんと頷きながら、菊丸も手塚の不調を指摘する。
そんな2人を横目に、上着のボタンを掛け終えた不二がチラリと隣の長身の男に視線を向けた。
 「…何かやった?」
低めの問いに、対する男は特に反応を見せない。
 「特に何も」
平坦なロッカーに愛用のノートを押しつけ、
サラサラと何か書きつけていた指がピタリと止まり、
 「でも…心当たりが無くもない、かな」
そのままノートを閉じ、自分の荷物を持って「それじゃあ」と部室を後にする。
大石と菊丸が「お疲れ様」と、その背中を見送る。

 「…そーいや、乾も何かヘンだったよなぁ」
今になって気づいた菊丸が不二の方を向いて、「そー思わなかった?」と尋ねたが、
薄く笑んだ不二は、否定も肯定も示す事は無かった。



 「乾…」
青学テニス部顧問の竜崎スミレと今後の大まかな方針を話し合った後、
校舎から出てきた手塚を待っていたのは、帰り支度を済ませた乾だった。
 「やぁ、お疲れ様」
 「…待っててくれなくても良かったのに」
そもそも2人の交通手段は異なっていて、
手塚は学園前のバスに乗って帰るし、乾は直接徒歩で家路に着く。
 「バス停まで、一緒に帰ろうと思って」
手塚が少しだけ身じろいだが、諦めたように息を吐き、乾の隣に歩み寄る。
そんな様子に満足したのか、乾は口許に笑みの形を作った。

学校から駅までの距離なんて、本当に短くて。
2人だけの時間はすぎに終わりを告げてしまう。
けれど手塚は口をきこうとはせず、ただ黙々と乾の隣を歩くだけだった。
 「手塚?」
限られた距離を計算して、先に口火を切ったのは乾。
 「…何だ」
出した声は余りにも憮然としていて、手塚自身も驚く。
 「怒ってる?」
 「…何で」
乾の歩みがツと止まって、つられて足を止めると、相変わらずの無表情がこちらを見下ろしていた。
が、そのまま長い指がソロリと伸ばされ、眉間に触れられる。
 「ココ、いつもより2.3o皺が深いからね」
そこに這わせた指は、時間を掛けてゆっくりと頬に落ちて、
 「…お前は、そんなものまでデータに取っているのか?」
その感触にビクリと肩を震わせたが、立ち止まっている足は動かない。
 「手塚だからだよ」
クスリと笑って、乾が白い頬から指を離す。
すぐ傍の街頭の無味な明かりに照らされて、桜の花びらが舞い降りるのを遠めで捉えながら、手塚が重い口を開いた。
 「…別に、怒ってな…」
 「クラス、離れちゃったの結構ショックだったよね」
 「…っ」
突然、図星を突かれて一瞬息を呑む。
思わず顔を上げると、穏やかに微笑んだ乾の視線とぶつかった。
 「手塚は、違う?」
ゆっくりと、表情と同じ穏やかな声音で尋ねられ、
けれど首は、意に反して何故かゆるゆると横に振れてしまう。
 「俺は、かなりショックだった」
 「……」
 「傍に、居たかったよ」
何故、この男は自分の一番欲しい言葉を簡単に言ってしまうのだろう。
まるで心の中を、見透かされているようで―――…無意識に唇を噛む。
 「…俺だって…」
乾の、静かな視線が降ってくる。
 「……俺だって………、そうだ……」

本当に今日は、どうかしている。
思考の、やけに冷静な部分でそう思うのに。
手塚はきびすを返し、早足でバス停への道を歩き出す。
こんな、些細な事で動揺してしまう自分が、嫌だった。
会おうと思えば何時でも会える。それなのに。
何故自分はこんなにも心中を乱されているのか、何故か無性に腹が立って。
追い掛けて来る乾の声を「来るな!」と怒鳴り返し、タイミング良く停車したバスに乗り込む。

見たくない。
自分をかき乱す―――その原因である男の顔なんか。
見たくなかった。



 「成程。それで手塚はご機嫌斜めなんだ」

数日後。
すでに授業を抜け出している不二と乾が、屋上でぼんやりと雲を眺めていた。
―――眺めているのは不二だけで、乾は相変わらず自分のデータノートの作成に取り掛かっているのだが。
 「そう」
不二がにっこりと微笑んだまま、エイッと隣に座る男の脇腹に肘鉄をお見舞いする。
 「手塚、可愛過ぎ。こーの幸せ者ー」
乾がゴホッと鈍い咳をしながら、ズレた眼鏡を中指で直し、
 「可愛いだろ。でもあげないよ」
当然。というような声で不二に返事をした。
 「いいよー別に。手塚は僕には重過ぎるし」
“苦労せずに手塚の嬉しそうな顔を見られれば、それでいいんだ。”
と、不二が誰に言うでもなくひっそりと呟く。

この男の愛情表現も、相当変わっている…。
自分を棚に上げてしみじみと思う乾。
パタン、とノートを閉じて、空を仰いだ。
 「あれから中々会えないし。やっぱり教室が離れてるのは、痛い」
 「障害がある程燃えるタイブのクセに?」
 「手塚は存在自体が障害なんだけどね」
顔を合わせて、笑う。
こんな会話、あの部長様に聞かれでもしたら、グランド100周は軽いだろう。
 「まぁ、でも。同情はするけど応援はしないよ」
不二がヨイショーと立ち上がって、ズボンの汚れを払う。
そろそろ時間だ。「保健室に行ってくる」という口実の為、早めに校舎に戻っていないと、何かとマズイ。
 「じゃあね」
ニッコリと、邪気の無い顔で笑う青学最凶の男は、
そう言って『侵入禁止』の看板をヒョイッとまたいで出て行く。
それを片手で見送りながら、乾もまた深い思案へと意識を沈めていったのだった。

 「…さて。どうしようか」



 「手塚、英語の教科書貸してくれる?」
 「……」

手塚は、何というか、絶句していた。
あの帰り道以来、意図的に乾を避けていたのだが、相手は気にする事なく、自分に教科書を借りに来る。
しかもこれが、一度では無い。
新学期、授業が始まり一週間程経った頃から、乾は2、3日に一度、忘れ物をしたと言って1組へ姿を現した。
そもそも乾と一番クラスが近いのは河村なのだが、河村も忘れたらしい、今日はその授業が無いらしい、と、
色々それらしき事を言われて、結局は自分が貸してしまう。

 「…最近、忘れ物が多過ぎやしないか?乾」
 「以後気をつけます」
この会話も、何度繰り返したのかもう覚えていない。
「それじゃあ」と、遠く離れた自分のクラスへと戻っていく乾の長身を眺めながら、手塚は深く溜息を吐いた。
 「…何を考えているんだ、あいつは…」
避けているのは自分なのに、追いかけてくれる彼にそう呟いた後、軽い自己嫌悪に襲われ、顔を顰める。
 「………それは俺も、同じか」

この、正体不明の胸の痛みを今、自覚しなければ、おそらく、きっと一生、理解らないままで終わりそうで。
教室のドアに触れていた指に力をゆるりと込め、手塚は再び顔を上げて、彼が走って行った廊下を、見た。



 「にゃにしてんの〜?不二ぃ」
廊下側に面した窓の所でニコニコと座っている不二を発見し、
菊丸が彼の背後にエ〜イと勢い良く抱き付く。
 「英二。あのね、面白いものが見れるよ」
 「オモシロイモノ〜?」
不二の肩越しからピョコッと顔を出した菊丸が、
大きな瞳をくるくるさせて、人通りの多い廊下を見た。
と、その中から一際背の高い男が、早足で3年6組の教室の前を通り過ぎる。
こちらには気づいていないようで、無表情で歩いていく姿は何となく不気味、である。
 「あれって乾じゃん。乾の何がオモシロイんだよ〜?」
眉をハの字にして尋ねてくる菊丸に、不二は優しく教えてやる。
 「乾ね、最近ずっと1組と11組の間を往復してるんだよ」
きょと、とする菊丸。
 「1組と11組?…って…ええぇ!?すごい離れてんじゃん!」
“何やってんだ乾〜”とすでに姿の見えない乾に叫んだが、フとある事に気がつく。
 「しかも手塚のクラス?」
 「そうそう。教科書とか借りに行ってるらしいんだ」
 「…他に近い奴、いっぱいいるじゃん」
 「だよねぇ」
 「…不二?何か隠してる?」
ジー、と瞳を細めて訊く彼に、相変わらずの笑顔で応じて、
 「いやぁ、青春だね、英二」
 「あー!またはぐらかすっ!」
菊丸必殺ネコパンチを肩に受けながら、不二は楽しそうに笑った。



乾が不思議な行動を取り始めてから一週間。

 「乾っ」
場に不似合いな程、大きな声で彼を呼んだのは、速攻で帰り支度を済ませた手塚で。
すでに部員がほとんど居なくなっていた部室だが、その中の全員の視線が、乾に集中した。
 「何?」
ロッカーを閉めた乾が、手塚の方を振り返る。
手塚は何か言おうと口を開いたが、逡巡するように又、閉じる。
 「…、ぃ…」
 「い?」
訊き返した後、その一文字だけで全てが分かったのか、
あぁ、と掌をポンと軽く叩いて、手塚の方へ歩み寄った。
 「帰ろうか、手塚」
その言葉で、自分の意思が伝わった事にホッとし、手塚は部室から出て行く。
 「それじゃあお先に」
部員達に声を掛けると、アリアリと羨望の眼差しが返ってきて、
乾は苦笑してしまった。



 「珍しいね。手塚から声、掛けてくれるなんて」
 「……」
例年より早咲きだった桜は、今はもうほとんど葉っぱになってしまって、
少しだけ情緒に欠けると思ったが、そんなものは余り視界に入らなかった。

 「訊きたい事が、ある」
 「…?」
歩く速度は変えずに、前を見ながら話した。

立ち止まったら多分―――、

 「あれは、わざとか?」
 「あれって?」
 「…忘れ物、借りに来る…」
言い掛けて、後ろから腕を引っ張られた。
驚いて振り返ると、乾が口許だけで笑って、こちらを見下ろしている。
 「うん」
 「……」

多分ここから、逃げられなくなる。

 「…何故、そんな事をするんだ…」
視線を道路に固定したまま、尋ねた。
何故か乾の顔を、直視出来なかった。
 「何故?手塚に会いたかったからだよ?」
何処かがジン、と緩く痺れる感覚。
だから、そんな事を、言わないで欲しいのに。
 「でも手塚、何の理由も無しにわざわざ俺が11組から来たら、
 絶対怒るだろうと思って、色々と理由をこじつけてみたんだけど」
“流石にバレるよね。”と穏やかに笑う、声。
 「…どうして、…そんな……」
無意識に、正面の男の腕をきつく掴んでいた。
 「手塚?」
少しだけ眉を上げた乾が、名前を呼ぶ。
顔を上げられない。小刻みに震えてしまう息遣いが、自分自身を追い詰めていく。

 「…あれからずっと…お前を避けてた…ッ」
 「…うん」
 「お前と離れて、これまでみたいに会えなくなると思ったら、
 急に…急に、怖くなって……そんな自分がすごく嫌になった…」
零れ落ちる言葉。抑えきれない。
 「…お前といると…そういう気持ちになる…から、だから…、」
自分が変わっていく恐怖。
だから、乾から逃げた。
それなのに、己の保身を優先させるような自分に、
乾は変わらない想いを向けてくれているというのに。

 「…前、一緒に帰った時、俺が傍に居たいって言ったら、
 『俺だってそうだ』って。手塚、言ってくれたよね」

ずっと黙って聞いていた乾がゆっくりと口を開いて。
ポン、ポン、と手塚の黒髪を大きな掌で優しく触れた。
 「『傍に居たい』って、『会いたい』って…思ってくれてたんだよね」
乾の声は、不思議な力を持っている、と頷きながら思う。
導くように話す彼の言葉の前では、自分を固める防壁が全て無力化してしまいそうで。

 「手塚、誰かをそう想う気持ちって、何て言うか知ってる?」

傍に居たいと。
会いたいと思う。
多分それが、今一番知りたいもの。
自覚しなければいけないものだと思う。
けれど。
 「……分からない」
ポツリと呟くと、乾が小さく耳許で笑った。
 「教えて欲しい?」
囁かれる声はたまらない程、甘く。
ある意味反則だ、と心の中で思ったが、

 「…いい。自分で、…考える」

ジロリと上目遣いで彼を見て、告げた。

 「…だから、それが分かるまで、見つかるまで、絶対言うなよ」

自分で探さなければ、見つけなければ意味が無いから。
その気持ちが何というもので、それが例えどのような結果をもたらす事になっても。

きっと、後悔はしない。

そんな密やかな決意を秘めて、手塚は再び乾を見る。
視線の先の彼は、相変わらず理解りにくい表情をしていたけれど、
 「そう言うと思った」
嬉しそうに笑って言って、ゆっくりと先を歩き始めた。
それを無言で、追いかける。
 「でもね、手塚」
 「何だ」
髪を揺らすように吹いてくる風。
 「案外、すぐ見つかると思うよ」
穏やかなそれは、2人の周りに植えられた葉桜の花びらをサラサラと落としていった。






□END□