一年生の夏休み。
あの時の手塚の顔を、忘れた事は一度も無かった。
乾が手にした時計を見下ろす。
試合は一時間半を越え、それに呼応するように気温は上昇し続けている。
じりじりと照りつける陽差しの下、仕組まれた持久戦にあえて挑んだ手塚。
時間を指し示すデジタルの数字から、コートに立っている男に視線をさまよわせて、
そんな自分の落ち着きの無さに思わず複雑な気持ちになる。勝って欲しい、否、必ず勝つ筈だ。
例え相手が氷帝の跡部であろうと、彼の強さは変わらない。きっといつものように何事も無く、完璧な勝利を収めてこちらに戻ってくる。
誰もが、そして乾もそう、思っていた。アドバンテージサーバー、あと一球で全てが終わる。
垂直に宙へと昇るボールに皆が固唾を飲んだその瞬間、手塚の身体がコートに崩れた。
ざわつく観客と走り出す部員達。しかし乾はその場から動けなかった。
まるでスローモーションのように網膜に灼きついた映像。
何が起こっているのか、わからない。しかしそう片づけてしまうには、自分の中の感情は酷く混沌とし過ぎていた。
手塚が左肩を押さえうずくまっている。俯いた横顔からでも窺い知る事の出来る、苦しげに顰められた眉と引き結んだ唇。
そこから導き出される解答は、本来の自分ならばたやすく予測、理解出来る筈だった。
それなのに、今目の前で起きている事実に、現実に身体がついていかない。
行かなくては。彼の傍に。そう思えば思う程指先が震え、足が竦む。
靴底が地面に張りついてしまったかのように、ここから一歩も踏み出せない。
しかしそうしている間にも、情けなく固まってしまった自分を除く外の世界は刻々と変化しているのか、
試合は一時中断となり、手塚が自力で青学のベンチに戻ってきた。
倒れ込むように背中を預け、こちらに後ろ姿を向けた彼の視線は未だコートにあり続けている。
せわしなく上下する両肩を背後から見つめる乾は、速度の上がった心臓の音がジクジクと自身の耳の奥でひっきりなしに鳴り響くのを感じた。
彼に棄権を勧める審判の声を聴きながら、心の中で、何処か冷静な自分が首を振る。手塚が、人の説得になど応じる訳が無い。
信じているのは自分だけ。寸分の迷いも躊躇いも無い、あるのは絶対的な自信だけで、彼は自分の事しか信用していない。
否、ただ一人を除いて。
そう思った直後、苦いものが胸の奥底でじわりと滲んだ。
大石が打ち明けた話など、本当はとうの昔に知っていた。三年間、飽きもせずに彼を見続けてきたのだから。
知っていたから乾は何度も手塚に云った。練習量を減らせと、出来ないのなら自分の作ったメニューを使えと。
手遅れにならない内に。肘が、肩がテニスプレイヤーにとってどれ程大切なのか、分かっていない訳は無いだろう。
最後の方はもう懇願に近かったように思う。それでも手塚は感謝の言葉を返しこそすれ、けして首を縦には振らなかったし、
自ら課した練習内容を変える事もなかった。許容を越えた練習量をただひたすら、ただがむしゃらに繰り返し、
自分の身体を酷使し続けたのだ。だから、今彼が直面しているこの結果は乾にとって予測出来ていた事だし、自業自得なのだろうとも思う。
「手塚っ、これ以上のプレイは危険だよ」
不二の、いつになく冷静さを欠いた声にも、手塚は反応しない。
何者をも拒絶するようなそんな彼の頑なな背中に視線を固定したまま、たまらず口を開く。
「それに、その肩の状態であの跡部に勝利する確率は…極めて低い」
この後に及んでまた確率か、と我ながら可笑しくなったが、自分にはこんな言葉しか浮かんでこない。
本当は統計や確率などかなぐり捨てて、だから云ったんだ、と感情をぶちまけてしまいたかった。
俺の云う事を聞いておけば、こんな最悪な事態にならずに済んだのに。
けれど、乾はせり上がってくる感情を懸命に飲み込み両眸を細めて、眼鏡越し、ゆらりと立ち上がる手塚の背中を見続ける。
そうだ。結局自分が何を云っても、変わりはしない。手塚には届かない。あの人の声しか。あの人の、言葉しか。
「大和部長との約束を果たそうとしているのか?部をまとめて全国へ導くという」
傍に立った大石が手塚に話し掛ける。
大和部長。手塚を青学に縛りつけた、男の名前。
自分の為に夢を背負い、肘を、肩を壊してまでテニスをする今の手塚を、もし彼が見たなら一体何と云うだろう。
何も云わず穏やかに笑うだけだろうか、あの時のように。
その思考と容赦無く照りつける太陽に喚起されたのか、唐突に、あの夏の日を思い出した。
乾がゆっくり目を閉ざすと、視界にあった手塚の背中が瞼の裏に溶けていく。
一年生の夏休み、あれは、午前の練習が終わってちょうど昼食休憩の時間帯だった。
先輩から大和部長への伝言を受けた乾は、様々な場所を探し回って、
ようやくテニスコートの裏側、木々が繁る人気の無い場所で彼と、手塚を見つけた。
共に昼食をとっていたのだろうか、自分と彼らの間には距離があった為詳しくは分からなかったが、
二人で日陰になった場所に腰を下ろし、何か話をしているようだった。
そして乾は、蒸せかえるような草いきれの中で、今自分が見ている光景の真偽を疑った。
手塚が笑っている。あの、手塚が。
入学当初から目立つ存在だった彼は何もかもが完璧で、しかしそれ故に人を寄せつけない冷たさを纏わせていた。
本人にそんな自覚は無いのかもしれない。ただ、余りにも能力のかけ離れた彼と居ると、どうしても心の何処かで気後れしてしまう。
乾を含め他の同級生達も同じような事を思っていたのだろうか、彼の傍には時折同じクラスの大石が居るくらいで、
普段は常に単独行動を貫いていた。そんな彼が先輩達の不興を買って起きた事件が二週間前。
そして、手塚のプレイスタイルが変化したのもちょうどその頃だった。
彼と、大和部長の間に何があったのかは知らない。
ただ、あの事件があってから部でも孤立しがちだった手塚は、積極的に大和部長の指示を仰ぐようになった。
コートの中で、そして外でも。
じり、と首の後ろを太陽の光が灼く。
しかしそんな熱さも構わずに乾はそこに立ち尽くし、木陰からじっと手塚を見続けていた。
ここからは聴き取れない、大和部長の低音の後静かに頷き笑う手塚。
信じられない。そんな驚きと同時に、何か見てはいけないものを盗み見てしまったような背徳感が自分の中で生まれた。
体操服の下で汗が伝い、乾が無意識にコクリと息を飲む。気づけば喉は張り付いてからからだった。
手塚の視線が大和部長を追う。優しく話し掛けられて、控えめに笑う。
和やかなそんな空間を自分が破ってしまってはいけない。
それなのに、何故か云いようのない感情が胸の奥から湧き上がってくるのを乾は感じた。
あの時は理解出来なかったその正体を、今の自分はもう知っている。
あれは、嫉妬だ。手塚の全てを持っていった、そして今でも離さない大和部長に対する、強烈な。
拳を交わした大石や他の皆の声援を受けた後、手塚は流れ出す汗を腕で拭い無言でコートへと戻っていく。
しかし試合が再開し、突入したタイブレークで両者の得点が積み重なる度、目に見えて分かる程、手塚の体力はどんどん削られていった。
上がらなくなる腕、速度の落ちる打球。開いたノートをそのままに、けれど乾は持っていたペンを動かす事も出来なかった。
苦しげな表情、凄絶な姿、それなのに。
食い入るように乾は手塚の姿を見つめる。
視界がぼやけ徐々に彼のユニフォームの輪郭が曖昧になっていくが、まばたきを忘れ必死で両目をこらした。
それなのにどうして、あんなに楽しそうなんだ。
痛みと苦しみに支配されていてなお、手塚の身体は躍動し続ける。貪欲に、勝利を求めている。
彼が今その目で見ているものは、その身体で感じているものは、きっと跡部でも越前でも自分達青学のテニス部員でも無い。
コートの中で、そして外で彼が追い続けているのは、大和祐大なのだ。
「…乾?」
不二に小さく呼びかけられ、乾はようやく自分が涙を流している事に気づき、眼鏡を外し袖で顔を拭った。
堰を切ったように溢れてくる涙を押さえながら、こみ上げる嗚咽を歯を食いしばり必死で押さえる。
どうしたら、手塚に近づける?どうしたら、あの人の呪縛を解く事が出来る?
本当は、そう思う事すらおこがましいのかもしれない。そんな事、手塚自身望んではいないのかもしれない。
けれど。腕に顔を押しつけたままうなだれた乾の襟首に、太陽の熱が刺すように照りつける。
これ以上こんなテニスをし続けたら、手塚の左腕は潰れる。そして、テニスが出来なくなったら、おそらく彼の精神も。
予測出来たから、止めたかった。止めなければいけないと思った。
耳に触れる打球音。その度上がる部員達の歓声。乾は顔を上げる事も、試合の経過を見る事も出来ない。
手塚を止められるのなら何でもしたいと思った。これが自己犠牲なのか、それとも単なるエゴなのか乾にはもう理解らない。
けれど、願うだけしか出来ない自分は、太陽の下で余りにも、無力だった。
□END□