部室の扉を開けると、乾が居た。
太陽はとうに暮れたというのに、未だ照明の灯されていない室内は薄暗く、欠片程の明かりも無い。
それなのに、そんな事にも無関心なのか、
乾は扉横の窓際に備え付けられているベンチの隅にやや猫背気味の格好で座り、
膝の上に広げたノートへ何かを熱心に書き記しているようだった。今日の練習の反省点か、それとも手に入れたデータか。
手塚はそんな男の姿を横目でちらりと見据えると、そのまま手元にある照明のスイッチをオンにする。
途端、ちかちかと瞬くように白い明かりが降り注ぐ室内に、ようやく自分以外の存在に気づいたのか、
乾が微かに顔を上げきょろきょろと周囲を見渡すと、出入口付近からロッカーへと歩き出す手塚を視界に捉えた。

 「手塚」
 「こんな暗い場所で書き物をすると目が悪くなるぞ」
 「まだ残ってたんだ」

乾の、何故か意外そうな声に、汗を吸って重くなったユニフォームを脱ごうとした手塚の両腕が不意に止まる。

 「…最後に部屋を閉めるのは、俺の役目なんだが」

今度は手塚が乾に対し、怪訝そうな声で返す番だった。
それを少し離れたベンチで聞いていた乾がやや長い沈黙を経て、ああ、そうか。と一際大きな声を出す。
手塚は中断していた着替えを再開しながら、ますます怪訝な顔つきになった。

 「そうか。うっかりしてた。火曜は俺が鍵を閉める当番だったんだ。でも、もういいんだな」
 「?」
 「もう、帰ってきたんだもんな」

手塚。そう名を呼んで目を細め、乾が黒縁眼鏡の下で柔らかく相好を崩す。
その顔を真正面から受け止める事が出来ず、手塚はとっさに壁に掛けてあるカレンダーへ目を這わせた。
火曜日。どうやら自分が宮崎にリハビリへ行ってしまってから始まり、
つい先日まで続けられていた部室管理の当番制を、未だ乾は引きずっていたらしい。
こちらに帰ってきてからそう日にちも経過していないし、言葉の通りうっかりしていたのだろう。
別にそれは構わない。構わないのだが。
不用意に放たれた乾の一言に手塚は何故か、胸の奥に自分でも形容しがたい奇妙な感情が生まれるのを感じた。
習慣になっているとはいえ、うっかり忘れてしまえる程の、存在なのだろうか。自分は。
形容しがたいもやもやとした気持ちは、探求すればする程手塚自身余り好ましくないもののように思え、少し戸惑った。
カッターシャツに腕を通しながら、そんな気持ちを打ち消すように口を開く。
乾は再び手元のノートに意識を移したのか、先程からペンを走らせる微かな音が室内に響いている。

 「今まで世話を掛けてすまなかったな。もう居残らなくていいから安心しろ」

どこか少し刺の含まれた言葉に、云ってしまった直後密かに後悔をしたが、これに関して相手からの返答は無かった。
定期的にペンと紙面が擦れて生じる細やかな音を無意識に耳へ入れながら、手塚は厭な気持ちを抱えたまま着替えを済ませ中から鞄を取り出すと、
ロッカーを静かに閉める。夜になり気温は日中よりも随分下がった筈だ。それなのに。ここには二人だけしか居ないのに、酷く蒸し暑い。

 「乾、続きは自宅でやってくれないか」

声を掛けるが、対する男は相変わらず長身を屈め、目に悪そうな姿勢でノートと向き合っている。
こちらの言葉が聞こえていない程データ分析に没頭しているのか、あるいはわざと無視しているかだ。

 「…乾。お前が帰らないと俺も帰れない」

いい加減にしろ、と少しきつめに続けようとした言葉は、俯いたままペンを走らせる乾の言葉に浚われた。

 「帰らせたくない」

じわり。と。
耳に触れた唐突な低音に、手塚の身体が静かに固まる。

 「って、云ったらどうする?」

しん、と静まった室内の雰囲気を断ち切るように一拍置いて、乾の口調は少しだけ砕けたように変化したが、
いつの間にかノートから視線を外し、こちらを見上げる彼の瞳からは笑みが消えている。
その眼差しは静かで、そして射るように真っ直ぐだった。
手塚は、そのまま縛り付けられてしまいそうな視線を全身に受けながら、
ゆっくりと歩みを進め、乾の座っているベンチへ同じように腰を下ろす。
標準よりも幾分か体格の良い男二人が並んで座るにはいささか手狭な気もしたが、そんな些末な問題はお互い無視する事にした。

 「帰りたくない」

今度は手塚がぽつりと口を開く。
隣に座る乾は、その言葉を聴きながら、手にしたノートを緩慢な動作で音もなく閉じた。
見事なまでのポーカーフェイス、感情をけして掴ませない事にかけては、本当に天下一品だと思う。
これが手塚の素では無く、実は計算ずくの演技なのだとしたら。そこまで考えて乾は自分の思考を放棄した。
それ「込み」で自分はこの男に惹かれているのだ。今更後悔は無い。

 「…と云ったら、お前はどうするんだ?」

臆する事無くこちらを見つめ返してくる手塚の瞳。
シャープな楕円のレンズ越しに、少しだけ感情が揺れているように見えるのは、
もしかしたら自分の希望的観測かもしれないが、そう見えるのだから仕方が無い。
乾がゆっくりと、傍に座る手塚の左肩に手を置く。薄いシャツ一枚で隔てられた身体は、じんわりと熱を纏って乾の掌に浸透した。

 「さて。どうしようか」

そう云って、乾は完治した相手の肩を優しく撫でると、そのまま身体ごと腕の中に引き入れる。
引き込まれながら、手塚はその動きで床へ落下していくノートを目の端に捉え、
ノートが落ちたな、とひどく当たり前でやけに冷静な事を考えた。

 「本当はさっき、むっとしただろう」
 「…何の話だ?」

抱き竦められながら、それでもとぼける相手に、乾が微かに笑う。
その度手塚の身体にも小さな振動が伝ったが、それは心地良いものだったから抵抗はせずじっとしていた。

 「うっかりしてた、って俺が云った時。すごく機嫌の悪い顔になってた」
 「あれはお前が悪い」

見透かされていたのなら、話は早い。
今更隠し立てするのも馬鹿らしいと思ったので、手塚は正直に短く感情を述べた。
うっかりするにも程がある。と。
その一言で自分がどれ程揺れてしまったのかなんて事は、流石に云えなかったけれど。
向けられた苦情にごめん。と素直に謝りながら、抱き締める両腕はそのままで、乾は手塚の右肩にとん、と顎を乗せる。

 「でもまだ夢みたいなんだ」

淡々と静かに、落ち着いたトーンで乾は喋る。
いつも、正解により近い言葉を慎重に選びとりながら。
けれど今の乾は理性よりも感情を優先させているようだった。
口にする言葉も、その声音も実際夢でも見ているように穏やかで柔らかく、ふわふわとしていた。
頬や耳許に触れてはくすぐったさを残していく男の短髪に首を竦めながら、手塚は黙って続きを待つ。

 「手塚が帰ってきてここでテニスしてる、そんな夢沢山見たから」
 「沢山見たのか」

突然の告白に内心少しだけ驚いたので手塚が思わず訊き返せば、
見たよ。と至極簡潔な返事がはっきりと耳に届いた。見て起きて居なくてへこんだ。嘆くように乾は云う。
当番制と一緒に悲しみまで未だ引きずっているのだろうか、この男は。
手塚は腕の中でひっそりとため息を吐きながら口を開く。

 「俺はここにいる」

右肩が少し重くなる。乾が遠慮無く顎を押しつけ凭れかかっているに違いなかった。
こんな夏の夜、人知れず閉ざされた部室で、うだるように暑い中、男二人で抱き合って。
誰かに目撃されでもしたら事だなと頭の隅で理性的な思考を働かせながら、けれど手塚は巻きつく乾の両腕を解かなかった。
濃密過ぎて酸素が足りない。密着した身体がどうしようもなく熱い。触れている部分が、特に。

 「ここにちゃんといるだろう、乾」

互いの鼓動を、体温を感じられる程、こんなにも近く。
分かっているのかいないのか、それとも夢から覚めていないのか、
乾は大幅にタイミングをずらした後で、そうだなあと相槌を打った。

 「夢じゃないんだな」
 「夢にされては困る」

俺の帰ってきた意味が無い。
その云い方が余りにも不服そうだったので乾が顎を離しまじまじと手塚の顔を見れば、
本当に不服そうな仏頂面をしていたので思わず笑ってしまった。

 「何が可笑しいんだ」

突然吹き出した乾に対し、徐々に快方へ向かっていた手塚の機嫌が急激に傾く。

 「いや、ほんとに手塚だと思って」
 「どういう意味だ」
 「おかえり」

手塚の身体が再び固まる。
見ると、乾が嬉しそうな顔でもう一度その言葉を口に出した。おかえり、手塚。
それを聴いた瞬間、胸の奥に存在していた形容しがたい感情が不意にゆるゆると消えていくような気がして、
己の単純さに手塚は思わず情けなくなったが、今は目の前の男と同じく、
理性よりも感情を優先させたかったので無駄な言葉は排除して、ゆっくりと頷く事にした。

 「ただいま」

 

 

□END□

あいうえお作文*なただけ