四年と二ヶ月と十五日ぶりに会った貞治は、道ならぬ恋、というものをしていた。
夜半、部屋の静寂を揺るがすバイブの音に視線を机上の脇へ遣ると、携帯電話の着信ランプが光っている。
蓮二は右手をマウスから携帯に持ち変えて四角い画面を覗き込むと、そこには予想した通りの名が表示されていた。
「もしもし」
躊躇わずに通話ボタンを押した。
自分がこうして電話に出る事も、向こうにとってはおそらく予想通りなのだろうが。
「やあ、蓮二」
決勝進出、おめでとう。
淡々と落ち着いた低音が耳に滲みる。
あの頃には想像もつかなかった大人びた声で、けれどあの頃の幼さも確かに残る、喋り方で。
蓮二は胸によぎる心地良い安堵感に軽く息を吐き出しながら、ゆっくりと答えた。
「互いにな。俺もちょうど試合の話を聞きたかったところだ」
時間はもうまもなく日付が変更しようとする頃だ。
それなのにこうしてわざわざ電話を掛けてくるという事は、
本日彼ら青学とは別会場で行われていた自分達立海の試合内容が気になったからだろう。
電話越しという形であれ、こういう風に言葉を交わすようになったのは、関東大会が終わってからだった。
あのシングルスの試合を境に、疎遠だった二人の関係は急速に修復されていった。
今ではもう、離れていた四年という月日が嘘だったかのように。
大活躍だったそうだな。片手はキーボードに置いたままで、笑みを含みながら云ってやると、
電話の主はしばし沈黙した後一拍置いて、嫌な奴だと小さく笑った。
「収穫はそれなりに、あったんだろう?」
「まあなぁ」
相手のはっきりとしない口ぶりに、それは仕方も無い事かと蓮二も思う。
全国大会準決勝、対四天宝寺戦で乾は手塚とダブルスを組んだ。
自分達の試合が終了した後、オーダーと試合状況の視察に行かせていた後輩にその事を聞いた蓮二は、微かな驚きを禁じ得なかった。
間近で見た後輩は凄かったですよ、と興奮を隠しきれない様子で試合展開を詳細に話してくれたが、
蓮二にとっては千歳や手塚の超人的なプレイよりも乾の方が気になった。
変則的なシングルスの試合で、コート脇に佇みデータを取る事だけに専念していたという乾。
「あったといえばあったけど、無いっちゃ無い」
「無いのか」
予想した以上に素直な感想が返ってきたので、思わず笑ってしまった。
電話口では乾がそんな蓮二に向けて、笑うなよ、仕方無いだろとぶつぶつ恨み言を呟いている。
「すまない。けれど、良かったじゃないか」
「何がだ」
指先で使い慣れたキーボードを叩きながら、蓮二は少しだけ熱を帯びた携帯電話を持ち直した。
決勝は三日後なので、それまでに集めてあった青学の新データを洗い直しておこうと思ったのだ。
試合後で身体は疲れていたが、本日分のノルマが終わっていないのに眠るのは気持ちが悪い。
そうしたら乾からの電話で、その上彼の機嫌はゆっくりと下降気味の様子だ。これは作業延長を覚悟しなければならない。
「ダブルスが組めて」
云った後、自分が放ったその言葉の白々しさに無責任にも苦笑しそうになった。
彼らが組んだのは、突き詰めてしまえばダブルスでも何でもない。プレイしたのも、得点したのも全て手塚だ。
フォローにもなりきれていないフォローを聞いて、乾はもういいよ、と大きなため息を吐いた。
「あれはもう俺なんかじゃ追いつけないレベルだから、好きにやってもらって良かった」
諦念の境地に達したとも自棄になったともとれるその言葉に、別の感情が混ざっている事を蓮二は知っていた。
そうか、と穏やかに相槌をうちながら、もし自分がこういう立場だったならどうだろう、とも考えてみる。
久方ぶりに再会した元ダブルスパートナーは、自分の知らないところで、厄介な恋に落ちていた。
別にカマをかけた訳でも、質問をした訳でも無く、今交わしているような取り留めのない電話中、
何故か自然にそういう話題になり、はからずしも蓮二は彼の想い人の名前を知ってしまった。
最初はやはりそれなりに驚いたが、不思議と彼に対する嫌悪や否定の感情は生まれなかったように思う。
自分は、同性に恋情を抱いた経験は現在に至るまで一度も無かった(というよりも異性に対しても無かった)のだが、
彼の話を聞いていると別におかしな事でも無いのだな、という気にさせられたのだ。
きっと皆同じように悩んで、同じように苦しんでいるのだろう。
とはいえ、経験の無い者がとやかく云う事柄でも無いので、彼からもたらされる話を黙って聞いているだけなのだが。
「そういうものか」
「そういうものだよ。まあちょっとはへこむけどな」
さすがにいっこもイイとこ見せられないとなぁ。
電話越し、乾が弱々しく笑う。なんだかんだ云って、やはり落ち込んでいるのだろう。
蓮二は黙ったまま、ディスプレイに視線を向けた。
そこには、彼がイイとこを見せたかった、のだと云う人物のプレイデータが詳細に映し出されている。
手塚国光。関東大会で本格的に左肩を故障し、宮崎で長期治療を終え戻ってきた彼は、この大会で目覚ましいまでの活躍を見せている。
正直個人的には当たりたくない相手だ。真田や赤也などは対戦したくて仕方が無いようだが。
存在が、能力が余りにも高く完全過ぎるそれは、余りにも人間離れし過ぎて逆に何処か欠落している、蓮二は人知れず彼をそう評価していた。
生まれ持った、それは天性のようなものかもしれない。
けれどその圧倒的なまでの力は、彼を倒そうとする挑戦者にはひどく魅惑的に映るが、そうでない者にとっては畏怖に近い。
手塚の何処に惹かれたんだ?と、一度乾に訊いた事がある。すると彼は躊躇いも無く、何を考えてるか分からないところ。と答えた。
成程、乾や自分のように人物までも徹底的に分析してしまう困った癖を持つ人種にとって、先が読めない、予測が出来ないというのは確かに魅力的だ。
データをね、どんどん塗り変えていくんだよ。あの時乾は嬉しそうに云った。
何処まで行くんだろうって思う。だけど予測つかなくて。そう云って僅かな時間口を噤んで。
少し怖くなる。静かに告げた。
「決勝で、いいトコ見せたらいい」
「…珍しいな。慰めてくれるのか」
なんだかひどく意外そうな声で云われたので、蓮二は軽く肩を竦める。
「慰めて欲しかったんだろう?」
乾の事なのだから、自分と同様こちらの試合会場に偵察隊を行かせているに違いない。
どうせ彼もノート片手にデータの加筆修正をしている最中なのだろう。
ある程度の情報は開示されているのだから、後は互いの心理戦だ。カタカタと文字を打ちながら、相手の出方を待つ。
「…お前にはかなわないな」
はあ、とため息混じりに情けなくそう返され、蓮二の口許が薄く綻んだ。
どうやら勝負はこちらに分があったようだ。
「恋というやつは厄介だな、貞治」
「まったくだ。蓮二にも是非おすすめする」
「俺はいい。当分遠慮しておく」
落ちてしまえば素晴らしいものなのかもしれないが、こうして客観的に見ているそれは、自ら進んでしたいと思うようなものでは無い。
こんなにもどかしくて、ままならないものに煩わされるのは、なかなかに勇気と覚悟が要るだろう。だから。
内容を保存した後、パソコンの電源を落とし、椅子をゆったり回転させながら伸びをした。
「信じてもらえないかもしれないが、応援しているぞ」
わざと生真面目な声を作ってきっぱりと云うと、うさんくさいな〜と云う言葉と共に、乾の砕けた笑い声が聴こえた。
つられて蓮二も小さく笑う。だから、一足先にそんな覚悟と勇気を手に入れた我が親友に敬意を表して、
この予測もつかない道ならぬ恋の成就をこっそりと、しかし真剣に、願おうと思った。
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