乾貞治は変わった男だ。
ひどく真面目な顔と声音で、嘘か本当か判別出来ない事を云う。
明日の天気を予測するように、俺は手塚が好きだよ、と淡々と告白されて。
おそらく今まで生きてきた中で一番長く、深く熟考した結果、手塚は一言困る、と告げた。
男だから、中学生だから、そんな通り一遍の理由からその言葉を導き出したのでは、きっと無い。
無いのだけれど、その返答を聞いた後の乾の顔を見て、手塚の中で何かが変わったのも、事実だった。
放課後、人気の無い廊下を足早に歩いていた手塚は、右手首に巻かれている腕時計へ視線を落とした。
もう部活は始まっている頃だろうか。窓から差し込む陽光は徐々に茜から薄い紫色へと変わりつつある。
ある程度覚悟はしていたものの、こんな時間まで生徒会が長引いてしまうとは。
やはり前もって大石に本日分のメニュー表を渡しておいて良かった。そんな思いと共に、静かなため息を吐く。
会長に就任した以上仕事をきちんと全うしたいと考えてはいるが、
大会前のこの時期、部活の練習を最優先に出来ないのはテニス部部長でもある手塚にとって、少し辛い。
彼が先程まで居た生徒会室は、職員室や音楽室、化学室など特別教室ばかりが揃う校舎の三階に位置しており、
そこから普段授業を受けている教室までは渡り廊下を経てかなりの距離があった。
生徒会があるたび手塚はその距離を行き来していたのだが、
遅まきながらようやくその効率の悪さに気がつき、最近では鞄やテニスバックは事前に生徒会室へと持ち込むようにしている。
そして本日も例に漏れず、生徒会室の鍵を閉めた後、直接生徒用玄関に向かう途中だった。
廊下の突き当たりを折れ、階段を一番最後まで降りきった直後、手塚の足どりが少しだけ緩む。
目前にまっすぐ広がる廊下。そこに人の姿がぽつんとあったからだ。
自分よりも少しだけ上背のある、自分と同じようにテニスバックを担いだ男。
後ろ姿だったが、その四方に短く跳ねる黒髪には見覚えがあった。
「乾」
後ろから名前を呼ぶと、男はびくりと肩を震わせ振り返る。そんなに驚かせたつもりはないんだが。
彼のその様子に何故か声を掛けた事に対して後ろめたくなってしまった手塚は心の中で言い訳をしつつ、緩めていた足の速度を元に戻した。
「やあ、手塚」
いつものように穏やかな低音で挨拶をしながら、しかし乾は少しだけばつの悪そうな顔で頭をかいた。
淀みなく廊下を進んで彼の許まで辿り着いた手塚は、傍に立ち、浮かない表情の乾を怪訝そうに見上げる。
「…同じ特別棟だし、会う確率高いとは思ってたけど、まさかほんとに会うとは」
しかし見上げた相手はしまったなー、となんだか良く分からない事を口の中でぶつぶつ呟いているので、
手塚の眉間には知らず自然に深い皺が寄る。怪訝な顔つきのままだった為、少しだけ人相が悪くなった。
全く要領を得ないが、彼の言葉から推測するに、偶然にしろ自分とこうしてばったり会うのは余り喜ばしくない出来事だったのだろう。
そう考えられた。だとしたら少し心外である。否、それよりも。
「お前も委員会か?」
先立つ疑問にそう訊いてみれば、いや、俺は一学期役職無し。という言葉が返ってきた。
更に訳が分からなくなる。通常、委員会は生徒会が行われる日程と同時に組まれる。そして会議を行う場所はここ特別教室棟だった。
つまり、何らかの委員会に出席しているのでなければ、この時間帯にこんな場所に居る理由が無い。
しかし乾は役職に就いていないのだと云う。良く見ると黒縁眼鏡の奥、彼の目尻はほんのりと少しだけ赤かった。
何故かそれが心の何処かで引っ掛かり、更に見つめる。しかしまじまじと遠慮無く見つめ続ける手塚の視線に、
先に耐えられなくなった乾が奇妙な間合いで、ごめん、と謝った。
「なんだ突然」
「寝てたんだ」
「は?」
「視聴覚室借りて、次の試合であたる学校のデータとってたんだけど」
そう云いながら乾は持っていたノートを胸の前でぱらぱらと広げて見せる。
お世辞にも達筆とは云い難い数々の走り書き、それが下に行けば行く程段々と不明瞭で読めないものになり、
最後はよれた線のようなものでふつりと途切れていた。データ収集にあくなき執念を燃やす乾といえども、
視聴覚室の暗闇の誘惑には勝てなかった、という訳である。
「なるほど。つまりは遅刻と云う訳か」
志半ばで終わっているデータノートから視線を外し、手塚は再び乾の顔を見上げた。
今度は部長特有の、僅かな厳しさを含んだ瞳で。
「何卒、ご容赦」
頭を下げてそんな事を云いながら、乾はぱたりとノートを閉じたまま両手を合わせると、謝罪のポーズを作る。
しかし手塚はそれに対して叱責する気が無いのか、何も云わずにゆっくりと左腕を上げた。
それはそのまま乾の眼鏡の弦に伸びていく。予測不可能な彼の動きに、乾が少しだけ狼狽える。
狼狽える、が身体は動かせなかった。手塚の顔が間近になる。近い。ここまでの距離は、初めてかも。
そんな事を思っている間に、ひょいと眼鏡を奪われた。
「?」
唐突に暈けた視界に何がなんだか分からず、乾が眉を顰め目を凝らして手塚を見るが、
構わず彼は眼鏡を奪い取った方とは逆の手を更に乾の顔へと伸ばした。
こめかみに触れた指先は微かにひんやりとしていて、おそらく自分の体温よりも0.5℃程低いのだろうな、
と乾は半ば必死で冷静さを装いながら考える。吐息が混ざりそうな至近距離で、触れた手塚の指の腹はゆるり、と左右に移動した。
こんなにも近いのに、顔の造作が分からない。だからこそ、肌に残る体温と感触がひどくリアルだった。
「あと」
いつもと変わらない無表情で、手塚がぽつりと呟く。
あと?後?跡?きっと今、乾は思考をフルに回転して文字変換をしているのだろう。
間近で困惑の表情を浮かべながら二文字の単語を繰り返す、そんな様子を眺めながら、手塚は指をゆっくりと離した。
「が、ついている。こめかみに」
ようやく単語と漢字がつながったのか、それを聞いた乾が、
ああ、跡か。眼鏡か。と何度もしきりに頷いた。落ち着きが無い。変わった男だ、と手塚は思った。
思って、その落ち着きの無さに心当たりがあった為、一人静かに納得をした。乾は変わっているのだ。
男の自分に、真顔で好きだと告白する程度には。
いつだったかもう思い出せない、けれど随分と前から乾は自分に好意を寄せているのだと、落ち着いた口調で云った。
以前手塚はその告白を受け、自分なりに考えた後、困る、と一言彼に告げた。告げながら、しかし何が困るのか分からなかった。
同性に恋情を抱かれる事に対してなのか、このような年齢でそういう問題に巻き込まれる事に対してなのか。
異性に告白された場合は、つき合えない、気持ちは受け入れられない、と逆にきっぱりと断る事が出来るのに、
何故かこの時、乾に対してはいつものそんな言葉が出てこなかった。その返答を聞いた乾はそうか、と呟いた後、
困らせるつもりはなかったんだ、すまない。と何故か逆に謝罪をされた。そこからだ。
手塚は弱ったように笑う乾を見て、ザワザワと胸の奥をくすぐられるような、妙な心持ちに陥ってしまった。
困るのは。テニス以外で自分の心を乱されたく無かったから。
そして、きっと乾にはそれが出来てしまうのだろうと、何故かそんな予感がしたから。
テニスさえあればいい。そう思っていた自分の意志を、無意識に乾は揺らす。だから困った。困る、と告げた。
あれから、もうどれくらい経つのか分からない。けれどこうして、長い間二人きりになる状況は、改めて思うと初めてだった。
「変な姿勢で寝てたんだな」
苦笑しながら話す乾の言葉で、現実に引き戻される。
彼の云う通りきっとおかしな体勢で居眠りしたのだろう、乾の左のこめかみにはうっすらと眼鏡の弦の跡が赤く残っていた。
じっと見つめなければ分からないくらいだが、白い肌に浮かぶそれはなんだか間が抜けていて、見つけた瞬間何故か触れたくなった。
気配も無く訪れた、静かな、けれど確かな衝動。
それはあの時妙な心持ちに陥った感じと、似ているような気がする。
「乾」
「ん?」
名を呼ばれこちらを見る乾の顔は、見慣れない裸眼の所為もあってなんだか子どもっぽく見えた。
誕生日は確か向こうの方が早いのに。手塚は自分の胸の中を占有していく不可解な気持ちに困惑する。
適当にごまかしておけば良かったのだ。それなのにわざわざ自ら遅刻を申告する、融通のきかない馬鹿正直な乾。
器用なのか不器用なのか、要領がいいのか悪いのか、判別するのはとても難しい。
けれどそんな乾も、そんな彼を見て微かに揺れる自分も、嫌いでは無いと、手塚は思う。
「グラウンド5周でいい」
「えっ、嘘」
「本当だ。それと、対戦校のデータが完成したら見せてくれ」
明らかに軽減された罰周と、眼鏡を返しながら俯きがちに告げられる手塚の申し出に、
乾は一瞬茫然としてしまったが、結んでいた口許をゆるゆると綻ばせ、穏やかな笑顔で答えた。
「喜んで」
□END□
あいうえお作文*こいしてる