「運が良かった」
定期テストが近いから、借りていた参考書を返却するよ。
という名目でわざわざ自宅からの距離二駅分を自転車でやってきた乾は、
無事目的を果たした後、手塚家の縁側に腰掛けのんびりくつろぎながらそんな言葉を口にした。
対する手塚は盆と花瓶を挟んだ彼の隣でかたい栗の皮と格闘しながら、何がだとぞんざいに返す。
秋の夜長に流れる風は、こおろぎを筆頭とした虫達の澄んだ鳴き声を運び、しんと静まった住宅街に夏とは異なる涼を届ける。
けれど今夜はやけにうるさい。手塚は風と共に耳に触れる賑やかな音を感じながら、その疑問に対する答えをすぐに自分で導き出した。
障子とガラス戸を開け放ってあるのだから、それは当然ではあるのだ。
「月見なんて初めてだ」
隣に座る男の短い前髪が、風で微かに揺れた。中秋の名月、本日は十五夜である。
「うち、こういうのやらないから」
古き良き習慣だなぁ、と嬉しそうに云うと乾は盆に盛られた月への供え物を見おろした。
そこには栗や葡萄、里芋や団子など、丸い形状の食べ物が所狭しと置かれている。
手塚の住居は玄関から客用の和室へと続く廊下が窓に面した縁側となっている為、
その部屋へ人を通す際、本日に限りちょうど縁側に置かれた盆とすすきの活けられた花瓶が目に入る事になる。
客人である乾も例に漏れずそれを見つけると、小さく感嘆の声を上げて縁側の方へと歩いていった。
何がそんなに面白いのか、そしてそのままこの場所に居つき、盆の上の団子などを物珍しそうに眺めている。
そんな男の様子を、手塚は物珍しそうに見つめていた。彼にしてみれば月見は年間行事の一つに組み込まれている為、
新鮮さというのはもう余り感じなくなっているからだ。子どもの頃はそれなりに嬉しかったような気もするが、
今では当たり前過ぎて、乾が来なかったら供え物が置かれている事さえ気がついていなかったと思う。
「そういえば手塚の家、七夕もやってなかったか?」
笹に短冊つるしてさ、と乾は懐かしそうに話題を振る。
去年だったか一昨年だったか、彼はおそらく本日と同じような理由で手塚家を訪れた際、玄関脇に飾ってあった見事な笹を目撃している。
膝の上に新聞を広げ、栗を剥く為動かしていた果物ナイフを止めると、手塚はそうだな、と頷いた。
刃物を扱っている時に話し掛けるな、とまず先に注意をしようと思ったがそれは云わずに夏の行事の記憶をたぐる。
「今年は俺は宮崎に居たから見ていないが、つつがなく終わったと祖父から電話で聴いたな」
「あぁ、そうか」
そう静かに相づちを打って、乾は艶やかな朱塗りの盆から夜空に浮かび白くさえざえと光る月へと視線を移した。
今まで長身を窮屈そうに丸め座っていたが、ぐ、と背筋を伸ばし体勢を正すとそのまま縁側の木の床に両手をつき天を仰いでいる。
普段の乾は姿勢が良くない。こうして今みたいに背筋を伸ばせば良いのに、とすすき越しに彼を見ながら手塚は思うのだが、
今の自分も随分前かがみの姿勢になっているだろう事は明らかだったので、これも云わないでいた。
栗は好きなのだが、皮がかたくて剥けないからすぐ挫折する。
そんな乾の為に、今手塚は先程ゆであがった栗の皮を黙々とナイフで削り取ってやっている最中なのだ。
きれいだな、と一人ごとのように呟いて、骨張った指はそろりと盆の上の葡萄をひとつ摘んで口の傍へと持っていく。
お月見用のお下がりだけど、良かったら食べていって頂戴ね。とは母の言葉だ。
自宅で夕食を済ませてきただろうに、乾はそれでも律儀に少しずつ、供え物を食していた。
「手塚は、満月好きそうだ」
「なんだ、突然」
藪から棒に断定めいた事を云われ手塚は思わず眉を寄せたが、
どう?と更に促されたので仕方無く顔を上げ、黒い空にくっきりと真円を描いている件の月を眺めた。
こういうものを、好悪の対象として見た事は無かったけれど、
確かに欠けていたり半円の状態よりは今こうしてたっぷりと満ちているものの方が良いように思う。
なによりその姿は完璧で、好ましい。
「…云われてみるとそうだな。満月か、新月もいい」
完全に光を浴びているか、それとも潔く何も見せないか。
乾は手塚からぽつりぽつりと告げられるその答えを聞き終わると、あ〜すごく手塚っぽいなあと何故か一人楽しそうに納得していた。
その様子から見て、どうやら自分は彼が予測した通りの解答を出したのだろう。
しかし、そんなに自分はこの男にとって予測しやすい人間なのだろうか。
余り頓着しなかったが、良く考えればデータも取られ放題な気がする。そもそも「手塚っぽい」の基準は何なんだ。
頭の片隅で色々と考えつつ、手塚は少し釈然としない気分のまま、口を開いた。
「じゃあお前はどうなんだ」
「俺?」
同じ質問を差し向けられた事に驚いたのか、
乾は微かに眉を上げると視線だけで手塚の顔を見たが、考えるそぶりも無く答えはすぐに返ってきた。
「俺は三日月が好きだな」
「三日月」
「秋の三日月は形が一番綺麗なんだよ」
乾の説明によると、太陽の軌道は天の赤道に対し23.4度傾いている。
その僅かな角度と季節ごとに変化する太陽の向きによって三日月は見え方を変えるのだと云う。
詳しいなと感心したら、習っただろうと呆れられた。しかし手塚自身余り記憶に残っていないのだから仕方が無い。
物事の理屈や道理を理解するのは得意だが、頭の中でそれらを分類し保存しておくのは苦手だった。
特別興味のある事以外は、すぐに記憶から薄れていってしまう。
春の三日月はゴンドラのように横たわっており、反対に乾の好きな秋の三日月はすっきりと立っているらしい。
そうなる仕組みを聞きながら成程興味深い話だ、と思ったところで栗の皮が剥けた。
「乾」
名を呼んで、栗を差し出す。
薄皮が所々にこびりつき、多少削り過ぎて見てくれも悪かったが彼はありがとう、
と、しんみり呟くと恭しくそれを手塚の指から摘み取ってぱくりと口に頬張った。
「うまい」
「それは良かった」
ひとつ目はなかなか要領を得なかった為時間が掛かったが、残りの栗は比較的スムーズに剥く事が出来た。
結局手塚は盆にあった栗の皮を全て剥き、乾は彼に渡されるまま全てたいらげてしまった。
視線の先にあった月はいつしか高くのぼっている。膝の上に乗せてあった新聞紙を丸めて脇に寄せ、
傍に置かれた布巾で黒くなった指先を拭っていると、食べ終えた乾が、今度から栗は手塚に剥いてもらうよと笑って云った。
「意外な特技を見つけてしまった。器用なんだな」
「ナイフは山で使うからな。しかし栗は当分御免だぞ。指が痛い」
眉間に僅かな皺を寄せ未だ痺れる指先を見おろしながら手塚が断ると、
乾が意外そうな、それでいて少しだけ笑みをこらえた顔で彼の方を向いた。
「じゃあ当分が過ぎたらいいのか」
セルフレームの眼鏡の奥から覗く瞳が楽しそうな色を浮かべている。
いちいち言葉の端を捕まえて暇な奴だと呆れつつ、手塚は二度と御免だ。と改めて決然とにべもなく断った。
対する乾はしまった機嫌を損ねたか、と心中苦笑しながら、膝を伸ばし姿勢を正して立ち上がる。
「さて、帰るよ。楽しくて長居し過ぎた」
「持っていくか、お下がり」
栗は共同作業により見事に無くなったが、
まだ少し供え物は残っていたので手塚が声を掛けると、
乾は財布と携帯、そして新たに交換をした参考書を手に取りながら緩やかに首を振った。
「いや、さすがにもう。彩菜さんにご馳走様でしたと伝えておいてくれ」
玄関までの見送り道中、一週間後に行われる試験の情報を交わし合う。
確か今夜の本題はその事だった筈なのだが、見事に筋道から外れ和んでしまった。
今回英語のテスト作成を乾達の習っている教師が行う為、参考までに傾向と対策を聞いておいた。
「長文読解と選択問題が独特だから気をつけた方がいい」
靴を履いた乾が眼鏡を押し上げ、何か思いついたように手塚の方を振り返る。
「今度過去問コピーして渡すよ」
「すまないな」
「今夜の栗の礼。と口実作り」
そう云って悪びれずにっこり笑う乾を、門扉の灯をつけた手塚が馬鹿者と容赦無く切り捨てる。
前者は聞き入れるに吝かではないが後者は許可出来かねる。
しかし、彼は数日も経たない内に再びこの家を訪れるのだろう。
秋になり、引退を済ませた自分達は、放課後毎日のように顔を合わせる部活の時間を無くした。
その埋め合わせをするように、ひょっこりと何食わぬ顔で。
今度来る時は三日月の夜だったらいい。と手塚は玄関を辞する広い背中を眺めながら思った。
乾の好む、夜の闇を薄く切り取るような、すっきりと真っ直ぐに立つ月を見てみたい。
□END□