たったそれだけで私の心は奪われてしまいました。
後は心中
遮光カーテンで閉ざされた社会科準備室は、二人を除いてとろりと闇に沈んでいた。
整理されたファイルが規則的な並びで揃えられている戸棚。
プリントや教材資料がきちんとあるべき場所に収まっている鈍色の机上。
しかしその傍にある筈の対となる椅子は無造作に脇へどけられ、机の真下には、男が崩れていた。
両の手首はネクタイで結われたまま背後に回され、机の前脚に固定され自由を奪われている。
衣類は軽く乱れ力無く床に脚を投げ出している男の正面には、彼が受け持つ生徒が佇んでいた。
黒いセルフレームの眼鏡を掛けた長身のその生徒は、片手に小さなデジタルカメラを持っている。
勿論そんな物は校内で所持を禁止されているのだが、
男はそれに関しては何も云わずただぼんやりと薄暗い資料棚の方へ視線をさ迷わせていた。
「嬉しいな、貴重なデータが取れました。手塚先生」
生徒は指でひとしきり器用に操っていた掌中のデジタルカメラをそっと制服のポケットに収めると、
淡々とした声音で目の前に座る手塚にそう告げた。しかし手塚は口を閉ざしたまま、やはり別の場所を見続けている。
言葉を掛けても微動だにしない彼の様子に、やれやれと肩を竦めると、生徒はその場に片膝をつき、正面の教師と無理矢理視線を合わせた。
「何も云ってくれないんですね。さっきはあんなに喘いでいたのに」
わざと挑発するように、口許だけを微かに引き上げる笑いを浮かべ生徒は云う。
動けない肢体を好き勝手に弄られて疲れているのだろうか、手塚は無表情のままそっと目を伏せる。
こうして見ると思った以上に睫毛が長い。生徒は感慨深げに瞳を細めると、相手の整った顔を殊更しっかり眺めた。
僅かに髪が乱れているのは、情事の最中自分が指で掻き混ぜたからだ。どれだけ見ても飽きない。どれだけ触っても。
逆に、その実体に触れれば触れるだけ焦がれた。
「…乾」
名を呼ばれた生徒がふと視線を戻す。
作り物のような教師の顔は相変わらず無表情で、感情を何処か遠くに置き忘れてきたような声音で静かに続ける。
「気が済んだのなら、これを解いてくれないか」
彼の放った言葉に、乾が露骨に眉根を寄せた。
まるで他人事のように云ってのけるこの教師に、得体の知れない違和感と嫌悪が混ざる。
何故だろう。半ば強引に身体を重ねて、そういう関係を続ければ続ける程、この人の事が理解らなくなる。
趣味のデータは彼の前では驚く程無力だった。学園を形成する生徒、教師、保護者達。
その誰からも余さず厚い羨望を受け、いつしか伝説の教師とまで謳われるようになった彼は、
その実ひどく投げやりで、自分自身を省みない一面を持っていた。
彼のそういう性癖を知ったのは、後をつけ始めて間もない頃で、
試しに撮った写真を餌に揺すってみれば、呆気ない程こちらの手に落ちた。
写真は、酔った彼が他の男に肩を抱かれているという、どうにでも言い訳がつきそうな中途半端な代物だったというのに、
ネガを渡す引き換えに身体を委ねた手塚が云った言葉は、“こんな時間に繁華街をうろつくな。”だった。
何かがおかしい。何かがズレている。頭では理解しているのに、この何処かズレた一回りも年上の男が欲しくて仕方がなかった。
一線なんて簡単に越えられる。見ているだけで幸せだと、そう信じた自分などまるで嘘だったかのように。
そして越えた先は、茫漠とした闇だった。
「気なんて済む訳ないじゃないですか」
どれだけ求めても、反響など返ってこない。
「…もう十分、お前につき合ったと思うが」
どれだけ焦がれても、こちらを見てくれない。
そっと指を伸ばして、手塚の冷たい頬に触れる。
彼の皮膚からは先程の熱の余韻など既に失せていた。
指先を頬から首筋にゆっくり、ゆっくりと這わせて。
それでも彼は何も云わない。その瞳には何も映らない。
嫌なら、拒めばいい。彼は教師で、絶対的に立場は上なのだから。
なのにそれもしない。教え子である自分の手に溺れて、崩れて、堕ちる。
そしてまた、何事も無かったように元通り。
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、どういう意味なんだ」
怪訝そうな声は振動となって指の腹から身体へと伝わった。
乾は散らかった思考の中から必死で言葉の糸をたぐり寄せる。
「俺は、貴方が好きだから、」
「だから、こうして犯罪紛いの事をするのか?」
背筋が冷える。手塚を見ると、彼は感情を閉じ込めた無表情でじっとこちらを見返していた。
焦燥感に息を飲む。恐怖がじりじりと首の後ろを灼く。机の脚に縛り付けて、抵抗なんて出来ない筈なのに、
この時、乾は手塚が何か良く理解らないひどく怖いものに見えた。
「乾、お前は俺に関して様々な事を履き違え過ぎだ。写真なんかで俺を繋ぎ留められると思っているのか?」
白い首筋に触れる指が、小刻みに震え始める。何を云っているのだろうこの人は。
乾は咄嗟に何か云おうとして口を開いたが、喉の奥がカラカラに渇いて、上手く声を出す事が出来なかった。
目の前の沈黙した生徒を嘲笑うように唇を微かに引き上げて、手塚は疲れたように笑う。
「いい子だから、これを解くんだ。乾」
普段聴いた事の無い、優しい声が乾の耳朶に染みた。
履き違えている?俺が、この人を?どういう風に?抱く度形に残した写真は鎖にならない。
それならどうすればこの人を繋ぐ事が出来るのだろう。どうすれば、掌中に収められるのだろう。
のろのろと、顔を上げて手塚を見る。指はそのまま数を増やしてきっちり首に絡ませて。
規則的な鼓動を十本の指で感じながら、疲れた顔の手塚にゆっくり口づけた。
「……っ」
長い間唇を塞がれて、呼吸が苦しく我慢出来なくなったのか、手塚が捻るように顔を背ける。
本気では無いと分かっているので乾は止めない。噛みつくように再び重ねて、舌を捩じ込み逃げ惑うそれに強く絡みつく。
「…は……っ、あ」
じん、と頭の奥が熱くなって、それなのに胸の中は虚しい程空白だった。
いっそ、この首を絞めてしまえば、呼吸を絶ってしまえば、楽になれるだろうか。
そんな馬鹿げた事を考え掛けて、乾は自分がひどく感傷的になっている事を思い知った。
破滅を願ってみたところで、実行する力も勇気も無い。彼を失うという事は、即ち自分の生きる意味を亡くすと同義だからだ。
この人は、きっと自分がいなくても生きていけるだろう。しかし自分はそうじゃない。彼がいないと息も出来ない。
重ねていた唇をゆるゆると離し、彼は至近距離にある誰よりも愛しい人の顔を見る事も出来ず、
俯いて自嘲したまま手首の拘束を静かに解いた。胸の空白は、未だ埋まる兆しを見せなかった。
絶望も希望もなければ後は心中しかありません(でも死ぬつもりは無いので戯言です)
□END□
title*DOGOD69様