愛とか恋とか修羅場とか。
「そういうもの」とはひどく縁遠そうな二人だったから。
不二は突然自分の身に降ってわいたこの状況に、未だ確たる現実感を見出せずにいた。
彼のすぐ傍に腰を降ろしている手塚の険しい目元には、細い傷が走っている。
うっすらとまだ赤みを帯びたそれは、フレーム越しにもかなり目立つものだった。
不二は自分の視界に嫌でも入ってくるそれから、ゆっくりと目を逸らす。
午後の授業が始まる前の長い休憩時間、数日ぶりに快晴に恵まれた為、
屋上へ向かう階段を上り一人のんびり昼食をとっていたら、珍しく手塚がやって来た。
普段なら、教室で食べたらいいだろう、と眉を顰める彼がわざわざ弁当包み持参で。
何かあったな。不二は彼の纏う尖った気配で異変を察したが、軽い挨拶だけを交わすと座ったまま場所をずらし、すぐ隣を空けてやった。
二人並んで昼食をとる。とはいえ不二の方は既にあらかた食事を終えていたので、
ペットボトルのお茶に口をつけつつ世間話をぽつぽつ口に上らせていた。
手塚といえば、相槌はうってくるのだがそれは恐ろしい程タイミングがずれていたり、
不二の方から質問をさし向けられてもぼんやりと長い時間気がつかなかったりと、明らかに様子がおかしかった。
会話が途切れては不二が継ぎ穂を探す。しかし次に訪れた沈黙を破ったのは、手塚だった。
「乾が分からないんだ」
この場に居ない、しかし見知っている人物の名前を突然出され、
不二は僅かに戸惑ったが、考えた結果、そうなんだ。と穏やかに当たり障りの無い相槌をうつ事にした。
顔の傷、手塚の不機嫌、乾の名前。そこから導き出されるもの。
「何か、あったの」
彼らの関係を知ったのは、高等部に入って間もない頃だ。
詳しい経緯はもう忘れてしまったけれど、手塚と乾、それぞれ別々に話を切り出された事が印象に残っている。
不二は当初驚きはしたが、しかし心の何処かで納得もした。乾が手塚の事を特別に想っていたのは以前から感じていたし、
手塚もああいう性格上口や顔には絶対に出さなかったけれど、乾と居る時はどこか気楽さ、というか安定した落ち着きがあった。
過度な慣れ合いはしないけれど、見えない部分でしっかりと通じているような、そんな静謐で密やかな雰囲気。
いいんじゃない。
あの時、不二が彼らに示した反応は、柔らかな肯定だった。
云わなければきっと気がつかなかっただろう。露見し傷つく可能性だって無い。
それなのに、二人は自分に話してくれた。頭がいいのに妙なところで律儀というか真面目というか。
そう思う反面、不二は自分が彼らの信頼に足る存在だった事が、純粋に嬉しく思った。
「あり過ぎて、どうすればいいのか困っている」
云いながら、手塚は弁当箱に残っていた大根の煮つけの一欠片を箸で淀みなく口に運んでいく。
困っている、なんて言葉も使うんだ。驚いて思わず口に出し掛けた言葉を、不二は慌てて引っ込める。
云っている本人は真剣なのだ。だからここに来たのだろう。唯一の理解者の傍に。
それにしても、手塚に分からなくなる事や、困っている事が生まれるのが恋愛というものらしい。
すごいな、と上背のある跳ねた短髪の男を頭の隅に思い浮かべる。
「喧嘩でもした?想像、余りつかないんだけど…」
「殴られた」
浮かべた笑みがそのまま固まる。
咀嚼を終えた手塚は持っていた箸を箸筒に収め、淡々と弁当箱を浅黄色の布で包みながら衝撃的な言葉を続けていく。
「好きだと云うのに全く何もしないから嘘だと思って他の奴と寝ようしたが、出来なかった」
「手塚」
だよな。今隣に座る男は。自分と同じクラス、高等部2年1組16番。
何もしない。嘘。寝ようと。言葉を反芻すればする程更に混乱して不二は焦った。
待って欲しい。頭が、現実に追いつかない。
「その事を乾に云ったら泣かれた上に殴られた」
「乾」
は、どんな顔で手塚の告白を聞いたのだろう。
自分の想像を遙かに上回る展開と、ここには居ない男の胸の内を予想して、不二の思考はゆっくりと停止しかける。
「そのまま押し倒されて、それなのに途中で止めて、謝るんだ。ただひたすら」
云いながら、手塚はその時の光景を思い出したのだろうか、
嫌なものでも見たかのように眉をきつく顰め、前方を見つめる目つきはより険しくなった。
「どうしてそこで止めて謝るのか、俺は理解出来ない」
「…僕は手塚の行動もかなり理解出来ないんだけど」
不二は進んで停止しようとする自分の思考を必死に叱咤し動かしながら、ひとまず脳裏に浮かんだそれだけを口にする。
なんだか話が一足飛びに飛び過ぎて正直訳が分からない。何故他人と関係を持とうとしたのか。何故乾を信じられなかったのか。
整理しながら遠回しに尋ねてみれば、手塚はひどく沈鬱そうに、自分なりに考えた末の結果だ、と呟いた。
「求められないのは必要とされていないからだ」
超極論。これが手塚的考えた末の結果なのだとしたら、乾が気の毒である。
しかし不二は自分が抱いたその気持ちに、微かな違和感を抱いた。あの乾が、手塚の考えを予測する事が出来なかった?
ここまで突き進んだ考えのまま行動を起こしたという事は、もしかしたらそれまで手塚は乾に何も云わなかったのではないだろうか。
不安に感じた時があっても、訊きたい事が山ほどあっても。そして抱いた疑いは、沈黙の中で悪循環を生みどす黒く膨れ上がる。
「そう決めつけるのは極端だよ。僕は、乾が十分手塚の事を必要に思ってるように見えてたけど」
「ならどうして途中で止めるんだ。俺に謝るんだ」
話が再びそこに戻る。不二はため息を吐いて隣に座る手塚を見た。
端正な横顔はいつもと全く変わらなかったが、眼鏡の奥から覗く瞳には明らかに鋭い怒気をはらんでいた。
「手塚は、謝られたのがそんなにショックだったんだ」
「…理解できない、と云ったんだ」
信じられなくなった末に、他の相手と関係を持とうとした手塚。そんな手塚を殴るしかなかった乾。
はたしてどちらに過失があるのか、どちらに罪があるのか、傍観者の不二には理解らない。
黙ったまま、次に彼へ投げかける言葉を頭の中で選んでいると、その隣で、聴こえない程の小さな声でぽつりと手塚が呟いた。
「悪いのは俺だ。謝らなければならないのも俺の方だ。それなのに…」
力無い語尾はくぐもって濁る。
手塚が長く息を吐きながら、立てていた両膝に腕を乗せ、そこにゆっくりと顔を埋めたからだ。
なんだか久々に年相応な手塚を見たような気がした。行動や言動はさすがに少し相応とは云い難いけれど。
不二はそんな彼を隣で眺めながら、ひとつの確信にも似た考えに辿り着く。手塚は、本当は理解しているんじゃないだろうか。
自分が起こした事の重大さを。乾をどれ程傷つけたかを。
それなのに、自ら用意していた謝罪の言葉は、よりによって傷つけた相手からもたらされてしまった。
だからこんなにも困惑している。乾に伝えられず行き場を無くした自分の気持ちを、持て余し苦しんで。
それなら。不二はズボンのポケットから携帯電話を取り出すと、画面をメール機能に切り替えゆっくりとボタンを押し始める。
それなら、自分がやるべき事なんて決まっている。
「そこまで分かってるんなら、もう答えも出てるんじゃない?手塚」
「どういう意味だ…?」
埋めていた顔を上げ、名を呼ばれた男は怪訝そうに不二を見る。
しかし不二は手に持った携帯電話の画面に視線を落としたままで続けた。短い文章を打ち終え、送信。
「自分がこれから何をしたらいいのか」
云いながら、不二の口許に苦笑が滲む。
やるべき事なんて、本当は、手塚が自分に会いに来た時点で既に決まっていたのかもしれないけれど。
「云ってる事が良く分からないぞ、不二」
「だからさ、僕に今話した事を全部云えばいいんだよ」
その言葉を聞いた手塚はますます怪訝な表情になった。
送り主からの返信は無かったが、不二は役目を終えたとばかりに手にした携帯電話を折り畳み、ポケットへと仕舞い込む。
開け放たれた屋上へ続く扉。耳を傾けると、そこから誰かが階段を上る不定期な足音が風に乗って聴こえてくる。
立ち上がって、荷物を持って、不二は振り返り穏やかに笑った。
「君が必要とする相手に」
カン、と最上段を上り終える音。
手塚の視線が不二の顔からそちらへ移動し、そのまま止まった。
不二も彼の動きにつられるように扉の方へ顔を向ける。
メールの送り主は両膝に手を置き、上体を屈めるような格好のまま肩で息を整えていた。
「運動不足なんじゃない?乾」
「や、久々に全力疾走した…からな」
はあ、と一際大きく息を吐いて、名を呼ばれた乾は顔を上げる。意を決するように勢い良く。
セルフレームの黒い眼鏡の奥、良く見ると、目の周りが薄く腫れていた。
男の予期せぬ登場に対し手塚は黙ったままだったが、視線を不二の方に戻し、抗議の眼差しを向けてくる。
更に言葉を補足するなら「謀ったな」だろうか。しかし不二は何処吹く風、とそんな視線を軽く流した。
ここから先は、もう自分の出る幕では無い。
「じゃあ僕、戻るから。手塚、また部活で」
そう切り上げて、不二は正面に立っている乾に自分の場所を譲った。
彼らが欲しかったもの、そして自分が与えられるものは、ほんの些細なきっかけだ。
些細だけれど、壊してしまった関係を修復する為の、大切な。
不二は屋上に二人を残し階段を一段ずつ降りていく。
外から中の変化で暗順応出来ていない視界は未だ薄暗かったが、気にせず進んだ。
本当は誰よりも相手を大事に想っているのに、必要としているのに、すれ違い、傷つけ合ってしまう。
分からないと云いながら苦しむ手塚。そんな彼の許に全速力で走ってきた乾。
けして穏やかな事態では無いけれど、彼らならきっと乗り越えていけると。そう信じるのは勝手だろうか。
踊り場で立ち止まり、不二は微かな希望と羨望を胸に、振り返って光の差し込む元来た階段を見上げた。
□END□