特別教室というのは、いつ来ても独特の匂いがする。
例えば教室なら慣れてしまうそれも、週に二度程しか足を踏み入れない場所となると、
がらんとした人気の無いその雰囲気も手伝ってやはり来るたびに少しだけ緊張した。
校舎という日常の中に潜む非日常の空間。それが特別教室であり、そしてこの生物室も例外ではない、と海堂は思う。
清潔に磨かれ整然と並ぶ長方形の大きな机。遮光カーテンで閉め切られたこの場所は昼間でも電気をつけなければ光源が確保出来ない。
机ひとつにつき六脚一組になっている丸椅子に腰を降ろし、海堂は無言で弁当箱に敷き詰められている白米を頬張る。
頬張りながら、正直ここは昼食をとるにふさわしい場所では無いと思った。
剥がれかけた壁面に張られた生き物の断面図や骨格標本は、どう前向きに考えても気持ちの良いものにはなり得なかったし、
そこはかとなく薬品らしき香りも漂う。ちらりと横目で右隣を見れば、自分をここに誘った一つ年上の先輩は、
机に顎を乗せ上体を突っ伏した姿勢のまま、ぐったりと力無く丸椅子に座って動かない。
「……悪いなあ、海堂」
視線を感じたのだろうか、唐突に弱々しい声がこちらに向けている彼の背中から聞こえた。
海堂は、別に自分はこの人に謝られるような事をされてないんだが、と思いつつ、いえ、とだけ返しておく。
隣に座る先輩、乾とは中学の部活で世話になって以来、自分が高等部に進んでからもこうして親交がある。
乾は中学卒業と共にテニスをやめてしまったから、今は部活も違うし顔を合わせる機会も随分減ってしまったけれど、
何かと気にかけ面倒を見てくれるのはあの頃と変わらなかった。練習メニューを組み立ててくれたり、
時折気まぐれに一年校舎にある海堂の教室にひょっこり訪れ、昼食一緒にどうだ、と誘いに来たり。
他人との交流が得意とはいえない海堂も、気心の知れた彼の誘いは断らない。
しかし本日教室までやって来た乾の様子は明らかにおかしかった。
日頃から余り表情の豊かな方では無く、何を考えているか掴みにくい人なのだけれど、
海堂は、扉付近に立つ乾を見た瞬間、言葉に詰まってしまった。黒縁眼鏡の奥から覗く両眸は充血して、瞼周辺が薄く腫れている。
口許にはかろうじて笑みを浮かべていたけれど、要するに、ひどい顔だった。
そんな乾の様子に戸惑いつつ、しかし海堂が近くまで歩いていくと、彼はいつものように「昼飯一緒に食わないか」と持ちかけてくる。
断る理由も無かったので頷いた。そのつもりだったので両手には既に、水筒と弁当箱とを提げていたのだ。
乾はそんな海堂を見下ろして、救われたように笑みを深くした。
どういうツテがあるのか知らないが、乾は時折理科教室の鍵を借りては休み時間にこうしてふらりと出入りをしている。
化学室や生物室など、共に昼食をとる時は大抵こういった場所に連れて来られたし、
さすがに最初は面食らったものの徐々に慣れてきてはいた。しかし今日の教室はなんだか取り巻く空気が重く、居心地が悪い。
「食わないんすか、昼飯」
迷ったが、海堂は弁当箱の隅に盛られ、大分量の減った鶏の唐揚げを箸の先で転がしながら、遠慮がちに声をかけた。
誘った張本人である乾は、持参した野菜ジュース(弁当やパンや学食のおかずの乗ったトレイが傍にあるでもなく、
驚く事に本当に、野菜ジュースしか持っていなかった)のパックへ無造作にストローを突き刺しただけで、口をつけてもいなかったからだ。
声をかけられた男は、僅かに顔を動かすと、そうだなと呟いた。呟いて、なあ海堂と名前を呼ぶ。
「なんすか」
「俺の言葉は分かりにくいか」
唐突な質問に海堂は思わず返答に窮したが、少しだけ考えた後ゆるゆると首を振った。
むしろ彼の言葉は論理的で大変分かりやすいと思う。感情で動いてしまう自分などにとっては到底出来ない話し方だ。
乾は机に顎を預けたままで海堂の方を見ると、困ったように目許を細め微かに笑う。
「じゃあ足りなかったのかな」
「…何の話すか?」
「人と人との相互理解が、いかに困難かって話」
静かにそう云い終えた後、乾は机に倒していた上体に力を入れ、
ぐ、と立て直すと傍に置いてあった野菜ジュースを手に取った。じっとそれを見つめる横顔に、先程浮かべていた笑顔はもう無い。
「大事にしてると思っていても、そういう風にはとられなかったり、すごく好きなのに、信じてもらえなかったり。非常に困難だ」
トーンの変わらない声で淡々と続けられる言葉を、海堂は相槌をうつ事も出来ずただぼんやりと聞いているだけだった。
けれど聞きながら、なんとなくこの話は、この人が現在酷い状態に陥ってしまっているのと無関係では無いのではないかと、漠然とそう思った。
相互理解が困難だと、彼は一体誰を想いながらそんな結論を出したのだろう。
「いっそ人の心もデータ化出来ればいいのにな」
乾は半ば自棄のように緩く笑ってそう云った。
しかしその言葉はけして真実ではない事を、海堂は知っている。
なによりもデータを信じたこの人は、だれよりもデータに裏切られたからだ。
現に彼はテニスをやめてから、データをとる事もしなくなった。
それがこの先輩にとって正解なのか間違いなのかは、海堂には分からなかったけれど。
「そうすれば傷つかないし、きっと諍いも減る」
「…味気ないっすけどね」
云って、海堂は残りのおかずを一気にかき込んだ。
乾はストローに口をつけながら、そんな後輩を少しだけ驚いた表情で眺めている。
脇に重ねられた彼の弁当箱は、綺麗に中身が無くなっていた。
「…そうかな」
「俺だったら、ですけど。予測とか、先が分かってたら面白くないじゃないすか。分かろうとする努力まで無くしちまう」
箸を置いて、持ってきていた水筒から湯気のたつ緑茶を注いで口にして、海堂は不器用に訥々と語る。
自分は余り話が上手い方では無かったけれど、乾の考えには賛同する事が出来なかったので、自分なりに考え、その気持ちを声にした。
それに多分、乾は自分に反対して欲しかったからこんな事を云ったのだと、そう思ったからだ。
「努力無くして人は分かり合えない、か」
かじっていたストローから口を離し、乾が静かにぽつりと呟く。
包んだ掌の中で、パックの野菜ジュースを弄びながら。海堂は何も云わず、温かな緑茶を口に含んだ。
沈黙の時間。しかし、不意に訪れた静寂を破ったのは携帯電話のバイブレーションだった。
海堂は音の鳴った方を見る。自分は教室に置いてきているから、今の音は必然的に乾の持っている携帯電話からである。
しかし持ち主は、未だ野菜ジュースを両手に持ったまま何事か考えているようで全く微動だにしない。
携帯のバイブ音にも気がついていないようだった。
「…先輩、携帯鳴ってますよ」
何か気になる事や考えに没頭してしまうと周囲に関係無くこうなってしまう。
それは中学の頃から見てきた光景なので、別段驚きはしないが、やはり奇妙ではあった。
海堂が少し大きめに声をかけると、ようやく思案の海から戻ってきた乾が、
目の覚めたような顔で海堂を見て、慌てて制服のポケットを探った。
メールだったのだろうか、ぱちんと携帯を開き、表示された画面に視線を巡らせた乾は、
その後しばらくの間全く動かなかったが、突然一時停止が解けたように再び机の上に突っ伏した。
すかさず海堂が、衝突を避けるべく乾のすぐ傍に置いてあった空の重箱を自分の方へと避難させる。
「何なんすか、一体」
微動だにしなかったかと思えば唐突に動いたり、正直かなり挙動不審だ。
狼狽の混ざった海堂の言葉に、しかし乾は小さな唸り声を上げるだけだった。
意味不明の唸り声は次第に明瞭に、言葉となってうつ伏せになった乾の後頭部から漏れ出る。
「悪いのは俺なんだよ」
「は…?」
「何にしたって先に殴った俺が悪いんだ」
意味が分からない。が、聞き返すより早く乾は喋る。
まるで自分の感情を、声に出す事によって整理しようとするように。
「だけど、大事にしたいのは本当なんだ」
海堂は、乾のプライベートな部分は余り知らない。
あくまでも親交があるのは学校内だけで、そこから出てしまえば彼にとっても謎の人だった。
いつも冷静で、論理的で、わりととっつきにくい雰囲気なのに、穏やかに笑う。淡々と一定のトーンを保つ声が好ましかった。
その声が今、酷く不安定に揺れている。大事にしたいと。この人にこんなにも感情的な声でそう云わせる相手が、少しだけ気になった。
気になったけれど、それはきっと自分が踏み込んで良い場所ではない。だから。
「じゃあそう云えばいい」
海堂は膝に乗せてあった小振りの風呂敷を手にすると、重ねた弁当箱をその布で丁寧に包んでいく。
その声に乾が顔を上げ、ゆっくりと彼の方を見た。泣くんじゃないだろうな、と一瞬ぎくりとする程、
乾の眉は情けなく寄り、表情はくしゃくしゃだった。
「ここで云うんじゃなくて、相手に伝えりゃいい」
例え違う意味にとられても。信じてもらえなくても。海堂はきっぱりとそう告げて、乾を見返した。
「努力っすよ、先輩」
はたして意志の疎通や相互理解に努力が有効なのか、本当は自分でも分からない。
けれど、相手に分かって欲しい、理解してもらいたいという強い気持ちが、言葉を重ねる力になる。その相手が大事な人ならなおさらだ。
呆然と後輩の言葉を聞いていた乾だったが、少しだけ逡巡して、そしておもむろにガタリと椅子から立ち上がった。
なんだか足許がまだふらついているが、浮かべているその表情は先程よりも幾分かしっかりしているように見える。
携帯を閉じて、右手でそれを強く握り込む。
「…悪い、海堂。用事が出来たんで先に戻る」
乾はそう云うと、制服の胸ポケットを探り、そのまま机の上にことりとくすんだ銀色の鍵を置いた。
生物室のスペアキーだ。休み時間が終わるまでに返しておいてくれという事なのだろう。
海堂は包み終えた弁当箱と水筒を脇に寄せ、鍵を受け取る。
「いいっすよ。俺も戸締まりしたら出ます」
すまん、と深く一礼すると、乾は踵を返し生物室を出ていった。
扉を閉めた直後、廊下を走る足音が室内にまで響き、それは徐々に遠ざかっていく。
そんなに急く程の用事とは。不思議に思いかけた海堂だったが、しかし途中で気がついた。多分、そういう事なのだろう。
一人納得をして、彼もまた椅子から立ち上がる。昼休みはまだ10分程残っている。
その間にあの人が、きちんと用事を済ませられるといい。
ぽつんと机上に残された、空になった野菜ジュースの紙パックをゆっくり指で撫でた後、海堂はそれを生物室の隅にある屑入れに放り投げた。
□END□