閉ざされた瞼の裏、深い闇に浮かぶ鮮烈な赤にうなされて、目を覚ます。
微かに乱れた呼吸を意識的に抑えながら、乾はかたいベッドの上でぼんやりと無機質な天井を見上げた。
あれだけの怪我を負いながら海堂を連れて無謀にも病院を抜け出し、全国大会の閉会式、
手塚の笑顔と優勝旗授与の瞬間を手持ちのデジタルカメラで録画をした事まではかろうじて覚えているのだが、
そこから後の記憶はふつりと途絶え、気づけば再び病院送りになっていた。
それから一週間、全身に広がる打撲の痣はまだ消えないが、痛みは幾分と引いて楽になっていた。
過剰に巻かれた包帯も、腕や脚の一部を残して全て取り去られている。
乾は仰向けになっている身体をそろそろと横に捻って、枕の傍に置かれた自分の黒縁眼鏡に手を伸ばす。
視力を戻したついでに携帯電話を探した。ここにいると時間の感覚があっという間におかしくなってしまう。
蓮二が赤也を伴って病室を訪れたのは、今朝の事だったか。たまにノートパソコンを開くものの、
長時間の作業は辛い為それ以外は本を読むか眠っているから、最近では日付の境界すら危うい。
そこまで考え、ふと左脚に重みを感じた乾は携帯を探す手を止めた。
視線を向けると、そこには丸椅子に腰掛けた手塚が、上体を布団に突っ伏すようにして眠っていた。
いつの間に戻ってきたのだろう。確か、早朝に一度顔を見たが、蓮二と赤也が来る頃にはいつしか姿を消していた。
全国大会が終わり、乾が再入院を余儀なくされてから、手塚はほぼ毎日のようにこの病室を訪れていた。
部員達を共に連れて来るのではなく、いつもたった一人で。
本人曰くここへ来るのは、真田戦で負傷した左腕の通院も兼ねている、との事だが、
病室に立ち寄ったところで特に何を話すでも無い。本を持ってきたり、彼の母親手製の菓子を持ってきては、しばらくして帰っていく。
最初は謎に満ちた行動に首を捻っていたが、一週間も経つとその日常に慣れてしまった。
再入院後、最初にこの扉を開けた時の彼の取り乱した姿は、おそらく一生忘れないだろうと乾は思う。
結局、あれだけ感情的になった手塚を見たのは、この時が最後だったけれど。
俺はお前をこんな風にしてまで勝ちたかった訳じゃない。と、手塚は震えた声で絞り出すようにそう告げた。
全国制覇を夢にまで見た手塚なのに、優勝が決まった瞬間は笑顔さえ見せていたのに、
病室にやって来た時の手塚は、青白く、今にも倒れそうな様相で何かに思い詰められていた。
もしも不用意な言葉をこちらが放ってしまえば、きっと跡形もなく瓦解してしまいそうな程に。
俺は大丈夫だよ、とあの時落ち着いた声でゆっくりと返しながら乾は思った。
自分は負けてしまったけれど、手塚が一年の頃から求め続けた全国優勝への道を手助けする事が出来たのなら、それでいい。
本当に、嘘偽りなくそう思っていた。けれどその返答に、大丈夫じゃない、と手塚が首を振った。
全然、大丈夫じゃないんだ。そう、苦しげに呟いて。
あの時の記憶をぼんやりと頭の中で反芻しながら、乾は携帯電話を探していた手の方向を、手塚の髪に変更した。
毛先がゆるりと跳ねた長めの髪に指先で触れ、そのままそっと撫でる。
手塚の背中は安定した動きで緩やかに上下していたが、顔は上布団に押し付けたままでぴくりとも動かない。
人の上で見事に熟睡してるなあ。思わず苦笑しながら乾はゆっくりと掌で感触の良い髪を撫で、記憶の片隅で今朝の出来事を思い起こす。
病室で深々と赤也に謝罪をさせながら、蓮二は本当にすまなかったと何度も詫びた。
赤也はあの決勝戦時、試合中の記憶がほとんど残っていなかったらしい。
覚醒すれば理性は本能と破壊的衝動によって食い潰され、まともな思考力など無きに等しくなる。
気づいたら試合は終了し、選手一人を重症、病院送りにした現状が待っていて本人は訳が分からずかなり混乱したのだと、
それは数日前見舞いに訪れた部長の幸村によって聞かされていた。しかし乾にとってはもう済んでしまった事だし、
終わった事をあれこれ云うよりは逆にその反省で得た情報をより良く活かす方向に切り替えていって欲しい、とだけ告げた。
素行やマナーにけして問題が無いとはいえないが、かといって切原赤也の持つ類い稀な能力を潰すには惜しいと思ったからだ。
それに何処か彼を見捨てておけないのは、自分が目を掛けている後輩と、少しだけ似通っている部分がある所為かもしれない。
けして遠くない未来、訪れるであろう彼らが部長になった青学と立海が見てみたかった。
「手塚」
そして、乾は自分達の現部長である男の名を呼ぶ。
一度だけでは全く反応しなかったので何度も繰り返して呼べば、
彼はくぐもった不明瞭な声を漏らしながら、しかしそれでもなかなか目を覚まそうとはしなかった。
仕方がないので撫でていた掌で頭を緩く、ぽんぽんと叩けば上布団に沈んでいた顔がひどく緩慢な動きで、
ゆっくりとこちらに向けられた。掛けっ放して突っ伏していた所為で、眼鏡が妙な方向にずれている。
「……なんだ」
「なんだ、じゃないよ。いつここに戻ってきたの」
乾からの問いに、手塚はしばらくの間首を傾け思案していたが、
ベッドから上体を起こし、柳達が帰ってからだ。と眼鏡をぞんざいに掛け直しながら気怠げに答えた。
「一緒に居れば良かったのに。蓮二達お前に会いたがってたぞ」
特に赤也が。確か先程まで手塚が来ていたと云ったら、落ち着かなくきょろきょろしては蓮二に諌められていた。
そう付け加えてやると、手塚は眠そうな無表情で首を振った。
「俺は会いたくない」
表情とは裏腹なきっぱりとした否定に、乾が内心少しだけ驚く。
「どうして…」
「理由はどうであれ、お前を傷つけた者の顔を、今は見たくない」
そう思ったから席を外した。
淡々とそこまで云い終えると、手塚は沈黙したままの乾を見て不思議そうに訊ねた。
「俺はおかしな事を云っているか?」
「いや、…少し驚いた、うん。その気持ちは、嬉しい」
曖昧ではっきりとしない返答に、手塚が更に怪訝な表情を浮かべる。
余程の事が無い限り常に中庸な立場に居た彼が、今回の事に関しては自分の感情を優先させている。
それは全国大会優勝という契機で、彼をがんじがらめに縛りつけていた青学の柱という鎖が解け始めている所為かもしれない。
それにしても、自分の為にこんなにも怒る手塚を見る日が来るとは、正直思わなかった。
乾は複雑な幸福感を胸に、口許へ緩い笑みを乗せる。
「ありがとう。だけど、もう怒らなくていいよ。俺の怪我を気に病まなくてもいい」
一旦そこで言葉を切りながら、息を継いで。
怪訝さは更に増し、一体何を云われているのかさっぱり理解らない、
といった風に目の前の男は形のいい眉を寄せ黙っている。乾はゆっくりと口を開いた。
「俺、テニスやめるから」
こちらを見ていた手塚の両眸が、眼鏡越しに静かに凍り付く。
半袖のシャツから覗く、傷を負った右手首に巻かれた包帯をゆるりと撫でながら、乾は淀みなく淡々と続けた。
いつもと変わらない、一定のトーンを保った落ち着いた声で。
「切原くんの所為でも、手塚の所為でもないよ。俺が決めた」
手塚の夢は叶えたし、四年前からずっと引き摺ってきた勝利に対する貪欲さと執念は蓮二との試合で全てぶつけた。
中学テニスで悔いは無い。やり残した事も。
それに、あれだけの恐怖と傷を負ったコートに、戻れる自信がもう自分には無かった。だから。
「…聞いていないぞ、そんな事」
こくりと小さく息を呑む気配がして、手塚が今まで引き結んでいた唇をようやく開く。
今までに無く、険しい顔つきだった。しかし、ひどく不安定ですぐに崩れてしまうような。
全国大会が後わってから、なんだか自分は手塚にこういう表情ばかりさせているな、と乾は思う。
「今初めて云ったからね」
肩を竦めて静かに笑えば、こちらをじっと見つめる手塚の唇が微かに震えた。
「…それは、そんな事は俺が許さない。部長命令だ、乾」
乾からもたらされた突然の告白に未だ思考がついていけていないのか、
ただ純粋に理解したくないのか、手塚は頑なに首を振り拒み続けた。
何も云わず勝手にそんな重要な事を決められて怒っているような、
取り残されて泣きそうな感情を瞳の中に秘めた手塚を、乾はじっと眺める。
「手塚が許さなくても、部長命令でも、聞けないよ。テニスは中学でやめる。もう決めたから」
ごめんな。静かにそう告げ頭を垂れる。
本当はもう少しだけ傍に居て、彼のテニスを見ていたかったのだけれど。
それは自分がテニスをしていなくても、コートの外でも続けていけるから。
それが、病院のベッドで痛みと戦いながら考え導き出した、臆病な自分の答えだった。
お前は…、と呟いて、その先をうまく言葉に出来ず、手塚は途方に暮れたような顔をして、黙ってしまう。
「お前は………馬鹿だ」
しばらく経って、ぽつりと呟かれた彼の言葉の続きは余りにも的確で、乾は何ひとつ返す事が出来なかった。
□END□