才能がどれだけあっても、自分がどれだけ努力をしても、
動かす事の出来ないものがこの世の中にある事を、初めて知った。
九時を少し過ぎた頃、学校からようやく帰宅した手塚は、
ジャージ姿のまま台所へ赴くと用意してあった料理をいつものように黙々と食した。
連日遅くまで行われる練習に疲労した身体は、母親の言葉にも黙って相槌をうつだけに終始していたが、
会話の途中で彼女の口から出てきた名前にぴたりと箸が止まった。
「多分長引いてると思うから、国光、後で果物持っていってあげてくれる?」
最近あなたが相手をしてくれないから、彼が来るとお祖父様、本当に嬉しそうよ。
そう云ってにこやかに笑いながら、母親は息子が次々に片づけ空になった食器を引いてはカチャカチャと洗い始める。
しかし手塚は何も云わないまま、椀を取り最後に残っていた味噌汁をゆっくりと飲み干した。
食事が済んだ後、母親から渡された苺入りの小鉢を盆に載せ、手塚が居間から床の間に続く縁側へ出ると、
ぼんやりと淡い薄黄色の照明の下、長い廊下の真ん中に見慣れた将棋盤が置かれその向こうに一人、
乾が生真面目な顔つきでノート片手に座っていた。しかし、相手をしていた筈の祖父の姿が見えないので不審に思っていると、
ああ手塚、おかえり。と低音の声が耳に触れる。なんだか当たり前のように出迎えられ、
頷きかけてしまったが、手塚は瞬時に思い止まりこほんと咳払いをしてからきちんと訂正を入れた。
「ここは俺の家だぞ、乾」
名前を呼ばれ、ゆるりと顔を上げた乾は、そうだけど、一応。と応え黒縁眼鏡の奥で穏やかに相好を崩す。
自分よりも先に家に来て、のんびりと寛ぐ男。そんな飄々とした立ち居振舞いにも、もう随分と慣れてしまったけれど。
立ち止まっていた歩みを進め、乾が使用している駒台の傍に苺の入った硝子の小鉢をことりと置くと、
手塚は彼の背中に自分の背を合わせるような形で同じように縁側へ腰を下ろした。
「なんでお前一人なんだ」
「もう勝負ついたからね。国一さんはお風呂じゃないかな」
「結果は?」
「惨敗。やっと飛車落ちで勝てるようにまでなったんだけど」
それを聞いて、手塚は少しだけ眉を上げる。
幼少の頃から相手をしている自分でも、四枚落ちで祖父に勝つ事は難しい。
中学の頃時間潰しに乾と何度か打った事はあったが、一度も負けた事はなかった。
そんな彼が今や既に祖父と飛車落ちレベルで打っているという現状に、純粋に驚いたのだ。
やっぱり平手はまだまだ先だなあ、と一人ごちた後、乾はいただきます。と小さく告げてしばらく黙ってしまった。
どうやら出された苺を食べているらしい。以前は出された食べ物を前に一通り講釈しては鬱陶しいからやめろと遮っていたのだが、
こうして傍に居る内にそんなやりとりも少なくなった。
中学を卒業してテニスを辞めた乾は、高校に進んで将棋部に入った。
前から本格的にやりたかったんだ、と云ってはいたが、聞くところによると掛け持ちで天文部や化学部にも顔を出しているらしい。
本人曰くやりたい事が沢山あって色々と多忙なようだが、文化部は運動部のような厳しい縛りが無い為、
時間が空くとこうして時折ふらりと手塚の家を訪れては、彼の祖父と将棋を打っていた。
卒業するまで信じられなくて、入学しても尚嘘だと信じたかったテニスをやめると告げた乾の言葉は、決意は、本物だったのだ。
「どう?部活」
のんびりと訊ねられ、手塚の意識がゆっくりと現実へ引き戻される。
聴き慣れた音がして耳を澄ますと、乾がノートにさらさらとペンを走らせている。
三年間、否それよりも以前からテニスのデータを記してきたそれは、現在では棋譜や将棋に関するデータへと移り変わっていた。
手塚はそれを見るたび胸の辺りがどんよりと重くなり、気分が沈んだ。何故かは理解らないが、本当に、ひどく沈んだ。
「充実はしているが、大変だ。大石は既に胃を痛めている」
入部する際それなりに覚悟はしていたが、やはり高等部のテニス部は練習量も内容もハードだった。
それに加え自分達は全国で優勝したという実績もある。先輩部員達が向ける期待と羨望の眼差し、
そして言葉や練習の裏に見え隠れするささやかな嫉妬などは日常茶飯事だった。
大石らしいな、と静かに笑うと乾はさりげない様子で続けた。
「腕の調子はどうだ?」
少しだけ考えて、応える。
「…問題ない」
九州で完治した筈の左腕は、全国大会決勝で真田との激戦に耐えきれず試合が終了した直後一気に容態を悪くした。
以前よりも短期間ではあったが再びテニスの禁止とリハビリ生活を余儀なくされ、
その際君は余りにも無茶をし過ぎだ、と担当医にも相当怒られた上に最後には呆れられてしまったが、
しかし手塚はあの試合で全力を出した事に対し後悔はしていなかった。例えそれが自らの身体を省みない、犠牲的な行為であっても。
「後でメニュー表貸して。負担減るよう書き換えるから」
しかし乾はあっさりと手塚に練習の軽減化を告げた。
この男は自分の言葉を全く信用していない。というよりも、既に本心を見透かされてしまっている、といった方が正しいか。
手塚は何となく居心地の悪い気持ちになりながらも、反論はせずに、帰りに渡す。とだけ返した。
「あれ。珍しく素直だな」
その予想外に殊勝な返答に驚いたのは言葉を掛けた乾の方で、彼は思わず背後を振り返って手塚を見た。
しかし当の本人は彼と視線を合わせる事を避けるように立ち上がって、縁側の窓をがらりと開け放つ。
途端、夜の風がするりと室内へ忍び込み、髪や頬を撫でていく。息を吸うと、瑞々しい草木が放つ夏の匂いが手塚の肺一杯に広がった。
「…俺は、お前がラケットを握らなくなった姿を見るのが嫌だ。今でもな」
「……」
ノートとペンを持ったまま、乾はすぐ後ろに立つ手塚を首を捻ってじっと見上げる。
手塚は開け放った窓枠に手を掛け、真っ直ぐ前方の庭を見つめながら更に言葉を続けた。
「だが、俺の練習メニューを作る事でお前がテニスと繋がっているのなら、それでもいいと思った」
どれだけ懇願しても、逆に許さないと怒っても、結局自分の力では乾の決意を変える事は出来なかった。
彼を引き留めるには、自分が持っているテニスの才能など全く無意味で哀しい程役に立たないのだ。
あの後手塚が何を云っても首を縦には降らなかった乾は、退院し部活を引退した後、
本当にテニスコートには立たなくなったし、後輩への指導は全てメニュー表を通じて行うという徹底ぶりを貫いた。
高等部に入り、別の道を歩き出した彼をいつまでも引き留める事など出来ない。
それは理解している筈なのに、彼と自分を当たり前のように繋いでいたテニスが消失して、
ひどく不安定になっている自分が手塚の中に存在しているのもまた、紛れもない事実だった。
「だから、お前に従う」
沈黙が訪れるとすぐにごちゃごちゃと厭な事ばかり考えてしまう頭をゆっくりと振り、
静かに息を吐き出しながら手塚はきっぱりと呟いた。乾はコートに戻らない。
それなら、それくらいなら願っても構わないのではないかと、そう思ったのだ。
「……なんか」
それまで黙って聞いていた乾が、ようやくぽつりと声を出す。
手に持っていたノートとペンを脇に置いて、代わりに盤上に並べられた駒をゆっくりと掌に集めながら。
「なんか、俺ずっと手塚って王か玉だと思ってたんだ」
「…?」
突然出された将棋の駒名に、手塚が戸惑うように乾の方を見下ろす。
しかし彼の背中はいつものようにやや猫背気味のまま微動だにせず、
ひとしきり掌に集めた駒をからから、と駒箱に収める動作を続けていた。
「全方位動けるだろ。要だしさ。なんかそういうイメージだったんだけど、最近は変わってきた」
「…変わって?」
駒を全て仕舞い終えた後、うん、と頷いて乾はゆっくりと顔を上げる。視線が合う。
セルフレームの眼鏡の奥から覗く、表情の読み取り難い、けれど手塚にだけに見せる穏やかな瞳。それが微かに細められた。
「今は歩」
「歩?」
真顔で訊き返せば、その反応が可笑しかったのか、乾は困ったようにくしゃりと笑みを浮かべた。
「そう。絶対後ろに下がれない。前にしか進めないところがね」
手塚っぽい事に気づいた。
淡々とそう云いながら手際よく駒箱と駒台を直した乾は、
よいしょ、と掛け声と共に立ち上がって将棋盤を両手で持つと、そのまま床の間まで持っていく。
「……」
確かに、乾らしい比喩ではあるが、それが当たっているのか外れているのかは正直判断し難い。
しかし、よりによって歩兵なのか。自分は。そこまで考え、思わず眉を寄せる。
「一番弱いじゃないか」
数は多いが、一マスしか進めない。
納得がいかないので手塚が振り返って反論すると、
床の間からこちら側に戻ってきた乾は驚いたようにひょいと眉を上げた。
「とんでもない。敵陣じゃ金に成るから使いようによっては良い駒になるよ、それに」
それに。突然妙なところで言葉を切られ、
手塚は不審に思って、隣に立っている乾の顔を眉を寄せたまま見つめ返す。
すると目の前の男は相変わらず何を考えているのか分からない、飄々とした面持ちでようやく続きを口にした。
「俺、歩が一番好きなんだ」
□END□