目が覚めた手塚の朧気な視界に最初に入ってきたものは、携帯電話の着信を知らせる淡い光の明滅だった。
手許にあったそれを無造作に引き寄せしばらくぼんやりと眺めた後、
手塚は未だ完全には覚醒しきれていない身体を突っ伏していた机からゆるゆると剥がした。
壁の時計は気づけば夜の9時を指している。風呂に入り夕飯を済ませ、
自室に戻り日記を記していたところまでは記憶にあるのだが、どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。
妙な時間に睡眠を摂ってしまった所為か、頭の奥が少しだけ痛んだ。
うたた寝など普段滅多にしないのに、やはりまだ帰省の疲れが残っているのかもしれない。
手塚は鈍い痛みを緩和させるようにこめかみを指で触りながら、もう片方の手で携帯電話を開くと、着信履歴を確認した。
メールも数件、受信されている。自然、眉間に微かな皺が寄る。着信とメールの相手が全て同じ男だったからだ。
メールは今夜行われる夏祭りに皆で行かないか、という内容から始まり、集合場所や時間について、
今会場のこの場所にいるから合流するならここで、等時間が経過するにつれ少しずつ変化していく。
その後、着信が数回、そして最後は帰りに寄る、という短いメールで締め括られていた。
これら全てに目を通し終えた手塚は、背筋がうっすらと冷えていくのを感じた。
最初のメールは午後7時。2時間余りも無視し続けた事になる。
皆、という事はきっと部員達で集まり行ったのだろう。夏祭りがある事は知っていたがそれが今夜だとは知らなかった。
宮崎から戻ってきて間もない自分は、ただでさえ居なかった期間の空白を埋めるだけで精一杯だったのだから。
しかし誘いをすっぽかしたのは寝ていて気づかなかった自分が確実に悪い。
申し開きをしようにも張本人は今まさにこちらに向かっている。
どうしたものかと悩みかけた瞬間、見計らったように着信音が掌の中で鳴り響いた。
ビクリと身体を震わせ、手塚は反射的にボタンを押してしまう。

 「…はい」
 『お。やっと繋がった』

一呼吸置いて安堵の混ざった穏やか低音が、耳に触れる。
聴き慣れた声だというのに、電話を通すと不思議にくすぐったく感じられ、少しだけ首を竦めた。

 『手塚、今大丈夫?』
 「ああ」
 『下にいるんだけど、出てきてくれないか?』

手塚は電話を耳にあてたまま立ち上がり、自室の窓をガラリと開けた。
家の前に何か赤いものがぽつんと見えた。
目を凝らすと、両手塞がってて玄関の戸が開けられないんだ。と耳の傍で困ったような声がする。
分かった、と一旦電話を切った後、窓を閉めた手塚は部屋から出ると、階段を降り玄関の錠を跳ね上げ外に出た。
暗闇に充ちる夏の匂い。草木が放つ瑞々しくしかし濃密なその空気を肌で感じながら、手塚は砂利を踏みしめ門扉の傍まで歩いていく。
そして彼はそこに立っていた男の装いに再び目を凝らす事になった。

 「やあ、手塚」

いつものように淡々と、落ち着いた声で自分の名を呼んだ乾は浴衣を着ていた。
濃い鼠の縞地に黄土の帯。二階の窓から見えた赤いものの正体は、彼の側頭部に付けられている天狗のお面だった。
その予想外ないでたちに面食らってしまったのか挨拶も返せない手塚に対し、乾は気にせず両手に抱えていたものを目の前の男に渡していく。

 「これ土産。皆で買ってたら多くなっちゃって」

ハニーカステラ、りんご飴、カラフルなビニールに目一杯詰められた綿飴に、射的の景品。
乾が付けているお面もある。自分に渡されたのは戦隊もののヒーローのようだったが。
目が自然とそちらに行っていたのだろう、乾は手塚の視線に気づくと、

 「お面は菊丸セレクトだよ。俺は危うく美少女戦士になるとこだったが、天狗で負けてもらった」

そう云って苦笑した。
手塚はそれらを受け取りながら、すまなかったと一言詫びた。
しかし乾が今一つぴんとこないような表情を寄越した為、再度付け加える。

 「連絡、返せなくて」
 「ああ、それは全然構わないよ。祭りに行く事事態今日急に決まった事だし、こっちこそしつこく連絡して悪かった」

謝ったのに向こうからも謝罪が返ってきた。
何だか奇妙な気分になりながら、手塚は乾を改めて眺めた。
見慣れた制服やジャージとは全く異なるその姿は、祭りの余韻も加味されているのだろうか、
不思議にどこか大人びた印象を手塚に与える。

 「お前でもそういうものを着るんだな」

無事に手が空き、帯に差してあった団扇でささやかな涼をとっていた乾はああ、これ。と自分の姿にまじまじ目を遣る。

 「ちょっと前母方の実家へ行ったんだけど、その時祖父さんから大量に貰ったんだ」

貰ったからって着る機会もそんなに無いんだけどね、と云いながらもこうして袖を通す乾だからこそ、
きっと彼の祖父も大切な孫に衣装を譲ろうと思ったのだろう。団扇を操る袖から出た乾の腕はぼんやりと白く、
何故かそこから目が離せなかった。緩やかな風を受けながらそれきり口をつぐんでしまった手塚に、
乾は少しだけ不思議そうな顔をしたが、あるものに気づいた途端ふ、と口許に笑みを浮かべ眼鏡を押し上げた。

 「成程。電話に出なかった理由がやっと分かった」
 「…?」

手塚が微かに視線を上げる。ぼんやりと白い腕がゆっくりこちらに近づいてくる。

 「寝てたんだろ」

寝癖ついてる。そう云いながら、乾は可笑しそうに妙な方向へ跳ねた手塚の髪先をゆるりと撫でた。
骨張った指、血の管が薄く透ける腕。躊躇いもなく自分に触れてくる彼の悪戯な指先を拒む事も出来ず、
手塚は夏の濃い空気と染み渡る虫の声の所為で、まるでここがどこか非現実な空間であるかのような錯覚に陥り掛けていた。
しかし、頭の隅では云い当てられた事に対しどう返答しようかと少しだけ思案もしていたが、結局正直に頷く事にした。
この男に嘘は通用しない。

 「ああ。だが…」

少しだけ後悔している。
最後の言葉は心の中でだけ呟く。両手に抱えきれない程の土産に込められた、部員達の好意。
それを運んできてくれた乾の好意。一緒に行けば良かった。今更詮無い事だと理解っているが、
手塚は静かに髪を撫でられながら、そう思わずにはいられなかった。

 

 

□END□